上に行ってから、ようやく1週間が過ぎたことに気付いた。雪上をひたすら歩いたことが、もうかなり遠い日のことのように思え、冬ごもりの日々は瞬く間に過ぎていくはずなのに、この間は長かった。炬燵を抜け出し外に出て人と会い、活動的な日々が続いたからだろう。
いつもながら、冷蔵庫を開けると賞味期限切れの食物が決まって見付かる。そして驚く、この間買ったばかりではないかと。その都度に嫌でも、清貧独居禁欲の日々の速さが実感させられて、そんなことが時の目安になってしまっていたと嗤うしかない。
また、毎週末「明日は沈黙します」と呟く度にも、もう1週間が過ぎたのかと、その速さに思いを新たにしてきたものだが、入笠へ登った日からの7日間がこれほど長く感じたのは、意外なことだった。
前回上に行った時、早朝の気温が零下17度になっていたことを確認している。盛夏の最高気温が30度まで行かないから、1年の間の気温差は概ね50度以下になると言っていいだろう。里ではそこまで気温が下がらない分、夏の暑さは30度を超えるようになった。やはり、50度以下だろう。
最低気温は零下273度、最高は知らないがとんでもない高温で、人間は極めて狭い気温の範囲で暮らしていることになる。文明の利器に頼りながらだが。
暖房無し、冷房無しで、一体人はどれくらいの温度差に耐えられるのだろうか。日本の冬山で、およそ零下20度くらいだとして、それでも寒さに震えながら眠ることができた。夏の暑さはこのごろ地方によって、また都市では体温を超える暑さが記録されたりする。それでも屋外に人を見掛けないわけではない。
今1時半になるところで室温は12度、ストーブは使っていない。炬燵に電気が入っているが、このくらいの温度ならそれだけで格別どうということはなく、慣れてしまっている。子供のころはもっと寒かった。上でストーブを使い出すのも10度以下になってからだ。
他方の冷房だが、結構ここら辺りでも最近は新築、改築の際にそうした設備を用意するようだ。しかし、あれは、その昔のテレビのアンテナのような見栄なのか、あまり必要、利用されていいるようには思えない。もちろん、この古家にはそんな物はない。必要も感じていない。
牧場では冷房などあったら、夏の暖房のようなもので、あまりにも不自然だろう。何しろ、標高2000㍍近い山、快適な天然の冷房が効いて申し分ない。いい風が吹く。暑いと感ずるのも、ひと夏に2,3回だろうか。
東京を引き上げる時、最も安堵感を覚えたのは寝ている間、もう冷房の世話にならないで済むと思ったことだった。信州で暮らすようになってからは車でも、一人では冷房を使わないようにしている。
できれば、年齢を重ねても、50度くらいの気温差には、あまりおろおろしないで生きていきたい。酷しかった冬の寒さが弛み、少しばかり春めいてきたことを良いことに、そんなことを思っている。本日はこの辺で。