入笠牧場その日その時

入笠牧場の花.星.動物

     ’22年「春」(6)

2022年03月11日 | キャンプ場および宿泊施設の案内など


 上に行ってから、ようやく1週間が過ぎたことに気付いた。雪上をひたすら歩いたことが、もうかなり遠い日のことのように思え、冬ごもりの日々は瞬く間に過ぎていくはずなのに、この間は長かった。炬燵を抜け出し外に出て人と会い、活動的な日々が続いたからだろう。
 いつもながら、冷蔵庫を開けると賞味期限切れの食物が決まって見付かる。そして驚く、この間買ったばかりではないかと。その都度に嫌でも、清貧独居禁欲の日々の速さが実感させられて、そんなことが時の目安になってしまっていたと嗤うしかない。
 また、毎週末「明日は沈黙します」と呟く度にも、もう1週間が過ぎたのかと、その速さに思いを新たにしてきたものだが、入笠へ登った日からの7日間がこれほど長く感じたのは、意外なことだった。

 前回上に行った時、早朝の気温が零下17度になっていたことを確認している。盛夏の最高気温が30度まで行かないから、1年の間の気温差は概ね50度以下になると言っていいだろう。里ではそこまで気温が下がらない分、夏の暑さは30度を超えるようになった。やはり、50度以下だろう。
 最低気温は零下273度、最高は知らないがとんでもない高温で、人間は極めて狭い気温の範囲で暮らしていることになる。文明の利器に頼りながらだが。
 暖房無し、冷房無しで、一体人はどれくらいの温度差に耐えられるのだろうか。日本の冬山で、およそ零下20度くらいだとして、それでも寒さに震えながら眠ることができた。夏の暑さはこのごろ地方によって、また都市では体温を超える暑さが記録されたりする。それでも屋外に人を見掛けないわけではない。
 今1時半になるところで室温は12度、ストーブは使っていない。炬燵に電気が入っているが、このくらいの温度ならそれだけで格別どうということはなく、慣れてしまっている。子供のころはもっと寒かった。上でストーブを使い出すのも10度以下になってからだ。
 他方の冷房だが、結構ここら辺りでも最近は新築、改築の際にそうした設備を用意するようだ。しかし、あれは、その昔のテレビのアンテナのような見栄なのか、あまり必要、利用されていいるようには思えない。もちろん、この古家にはそんな物はない。必要も感じていない。
 牧場では冷房などあったら、夏の暖房のようなもので、あまりにも不自然だろう。何しろ、標高2000㍍近い山、快適な天然の冷房が効いて申し分ない。いい風が吹く。暑いと感ずるのも、ひと夏に2,3回だろうか。
 東京を引き上げる時、最も安堵感を覚えたのは寝ている間、もう冷房の世話にならないで済むと思ったことだった。信州で暮らすようになってからは車でも、一人では冷房を使わないようにしている。

 できれば、年齢を重ねても、50度くらいの気温差には、あまりおろおろしないで生きていきたい。酷しかった冬の寒さが弛み、少しばかり春めいてきたことを良いことに、そんなことを思っている。本日はこの辺で。

 
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     ’22年「春」(5)

2022年03月10日 | キャンプ場および宿泊施設の案内など
 薄雲がかかる中、日射しは春らしい暖かさを感じるようになってきた。毎朝待ちどうしく、ボケと梅とユキワリソウの開花を確かめるのが日課になって久しいが、今年はまだ咲かない。昨年に移植したカタクリはモグラが土の中を通過した跡があり、あれでは今年は諦めなければならないだろう。
 そんな中、八角蓮の新芽がようやく顔を覗かせた。あれは、田舎暮らしを始めた年に一株7000円也で買い求めたものだった。その後株の数も増えて主の留守がちな荒れた庭の一隅に、もっと暖かくなると以来ずっと律義に大きな葉を開いて、その姿を見せてくれる。多くの山野草が消えていったのにこれと、そのうち芽を出すイカリソウは優等生だと褒めてやっている。ああ、ミヤコワスレもいい花を咲かす。
 季節はゆっくりと過ぎていけばいいと思っていたが、きょうのように春の気配を感じるようになれば、炬燵の虜囚も移り気になって次の季節を待つ気になるらしい。もう、カタクリは採集せずそっとしておくつもりだが、それでも今年もTDS君を誘って、西山のいつもの山や谷を車で訪れてみたいと思っている。深い山の中にも芽吹きが始まり、渓を雪解けの清冽な水が流れるころだ。

 以前に「エンデュランス号の冒険」という本について呟いたことがあった。この「Endurance・忍耐」を意味する名の船は1915年南極探検の途次、氷山と激突し大破、その後沈没したのだが、船長シャックルトンは船名に恥じない不屈の努力で、救助を求めて想像を絶するような苦難の果てに、小さな島に取り残された乗組員の生命を救った。まさしくその波乱万丈の物語である。
 驚いたことに、この船が南極の水深3000㍍ほどの海底で107年ぶりに発見されたらしい。深海に鎮座した船体の状態は思いの外良好のようで、そんな写真も、遭難したばかりの帆船の写真とともに見た。ただし、南極条約によりこの海域では指定された遺物として、沈没船からのいかなる遺品の引き上げもできないらしい。
 普段、この本のような冒険譚の類は読まないし、また面映ゆいので本の題名とか内容については詳しく呟かないようにしているが、その中でこの本は数少ない例外と言える。それで何人かがこの本を読んでやはり感動したらしい。であれば、まだ読んでない人にも一読を勧めたい。

 ロシアはNATOを分断させようとしているのだろうか。本日はこの辺で。

 
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     ’22年「春」(4)

2022年03月09日 | キャンプ場および宿泊施設の案内など


   朋あり遠方より来るまた楽しからずや   孔子

 春とはいえ、まだ草花は冬の装いを変えず、この4,5日、寒い日が続いている。東京からと松本から懐かしい顔が揃い、近くではTDS君以外にも新な顔が加わり、同じ時間を過ごし、語り、いい季節の先駆けとなった。20代、いやもっと遠い昔の記憶が背後から重なる。
 そういえば、携帯の電池が少なく長い話ができずに終わったが、伊那のフィルムコミッションからも撮影の問い合わせがあった。もちろんまだ、そうした関係者を迎え入れることなど無理だし、詳細も分からないが、そろそろこういう話が来る頃だとは思っていた。
 もう少しして、焼き合わせくらいまでは車で行けるようになったら、上の状況を見に行くつもりでいる。まだ先の事のように考えていても、そんな日はどうせすぐに来るだろう。さらにもっと暖かくなり、林道の雪も融け出すころには牧を開き、今年もまた牧守の日々が始まる。小屋やキャンプ場に訪れる懐かしい顔を見るようにもなるだろう。
 いつの間にかまた、冬ごもりの眠りから覚めなければならない時が来たようだ。

 広辞苑を開けば、「古里」は「ふるくなって荒れはてた土地。昔、都などのあった土地。古跡。旧都」などと語句の意味を説明し、次に「自分が生まれた土地。郷里。こきょう」とある。今では、もっぱら郷里の意味でふる里は用いられていると思うし、それも都会で生まれた人から「ふる里は世田谷です」と言われれば、違和感を覚えるように、この言葉を使えるのは地方で生まれた人だけのような気がする。
 かつて「故郷喪失」、「デラシネ」などという言葉も耳にしたことがあったが、誰がどういう意味でそう言ったのか、もう覚えていない。以前に呟いたように10代の終わりごろから都会で40年近くを暮らし、そしてまた「ふる里」に戻り早や18年が過ぎたのだが、その間にますます古里への思いは強まり、深まり、それを喜んでいる。
 こういう思いは、地方の土地で生まれ、育てられなければ持てない感情であり、都会で子供時代を過ごした人がその土地にどんな感情を抱いているのか、もちろん、似たような思いがないとは言わないが、それでも青色と緑色ほどの違いは恐らくあるような気がする。
 
 育った土地への愛着の背景には何があるのかと考えてみると、人や、自然環境は大切な要素であり、それらを紡いだ時間が美しければそれに越したことはない。けれどもそればかりでなく、生まれ故郷に沁み込んでいるものの正体はもっと複雑な気がする。
 美しいもの、醜いもの、快も不快もあろうが、ふる里は自分が生まれて大きくなった土地というだけではなく、そこにはもっと長い過去と、さらには未来までが併存していて、だからこそのふる里ではないかと思うのだが。

 そういう土地を追われている人たちが今、たくさんいる。本日はこの辺で。
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     ’22年「春」(3)

2022年03月07日 | キャンプ場および宿泊施設の案内など
 もうそろそろ雪景色は止めにしようと思いつつも、梅やボケの蕾は固く、ユキワリソウもあれ以来何の変化も見せないまま、開花が危ぶまれている。きょうも曇天で風はまだ冷たい。
 薄日が射してきたと思ったら、白いものが舞い出した。驚いたことに春の雪のようだ。今年の冬はしぶとい。これから遠出して、安曇野穂高まで行ってくる。(3月6日記)



 前回(5日)、古道法華道の伊那側の各所に残る名前をここで呟いておいたが、その中で「爺婆の岩」については括弧して「石」としておいた。それというのも、記憶では「爺婆の岩」だと思っていたのに、3日、上に行った時に道標を確かめたら、「爺婆の石」となっていたからだ。
 名前の由来を、旅人が道中の安全を願って小石を置いたと伝わるその岩と見たのだが、ここは、道標にある名前「爺婆の石」を無視するわけにもいかない。最初にここを通った幾年も前の冬、道標の説明にある雪の上に見えた岩の形状を、一組の翁と媼に似ていると思ったから
、旅人が石を載せた岩が名前の元と理解して、その名を記憶した。また、ある地元の人もあそこの地名を「翁婆(おうば)の岩」と呼んだ人がいたからだった。確かに「岩」と呼んでいた。
 しかしここは、北原のお師匠のこの古道にかけた熱意、努力に照らしても、今後はこの地の呼称は道標の通り「爺婆の石」とするのが適当だろう。

 言い伝え・口碑がどこまで正しいかは、はっきりとしないことが多い。また、頼りにした古い資料が、他のものと照らし合わせると矛盾したり、資料が書かれた背景や、目的によっても違ったりする。例えば高遠城の主だった高遠氏や保科氏についてもその発祥は諸説あるようだし、「ヒルデエラ」は「大阿原」ならまだしも、それに「湿原」が付いてしまった。入笠山頂を東に下った所「仏平」は最近、「首切り登山道」とかなんとか、ヘンテコな名前が付けられて呆れるほかない。
 きょう呟いたことは古道の忘れかけた地名のことだ。今もまだ自分では、あそこを通った旅人が岩の形状に惹かれ、その上に石を置いたことから付いた名前だと、「岩」を否定し切れてはいないが、敢えて異を唱えるほどのことでもない。
 民俗学などと言えば大袈裟だが、遠い昔の人々の暮らしや思いが仄かにでも見え、感じられると、それだけで旅心が湧いてくる。
 
 ところでなぜ、NATOが停戦交渉に関して何の役割も果たせないでいるのか理解できない。いくら「慕われても」、今はウクライナを受け入れるつもりはないと伝え、その上で独裁者の妄想が根拠のないものであることを分からせ、一時も早く停戦にこぎつけるための努力、その一翼を担うことができないのか。
 本日はこの辺で。
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     ’22年「春」(2)

2022年03月05日 | キャンプ場および宿泊施設の案内など


 こんにちは、久しぶりです。
 
  昨日の写真ですが、自然が描いた風紋の上にかすかに残るスノーシューズのエッジの跡、気付いてくれましたか。雪上に残したささやかな足跡は前日に残したものです。風が吹けば、たちどころに消えてしまう呆気ないものですが、それだけに、なかなか深い暗示のようなものを感じてしまいました。そう、あたかもわたくしの生涯でも象徴でもしているように思えたのです。いやいや、仮にそうだとしても、それで充分に満足しています。138億年、46億年、そして74年じゃないですか。
 
 きょうの写真も昨日、やはり前日に残した踏み跡をたどり急登する途中の写真です。しかしこれは、あまり多くを語ってくれません。月並み、ありきたりです。この足跡もやがては消えるでしょうが、それで少しも構いません。早くそうなって欲しいとさえ思います。
 ほんの一時、物好きが、朝日を背に浴びて黙々と登っていく姿でも想像してもらえれば、ほぼ事実に近いはずです。前日は2度3度と、見えない雪の底に亀裂が走るような音がしましたが、昨日はどうぞ早く行ってくださいとでも言ってくれているようで、雪原は見守るだけで黙していました。
 
 今回も上でただ1泊するためだけに出掛けました。昨日も呟いた通り、自分の体力、気力を確認するためで、かつての雪山のような期待も不安も、そして気持の高ぶりもありません。2時間ほど樹林帯の中の痩せ尾根を登り、それから林の中をダラダラと深雪をなだめ、すかして進むだけです。雪の状態によっては、これからの方が長く、古道には「山椒小屋跡」という名が残り、北原のお師匠が立てた道標がそれを教えてくれるはずです。
 登行はある一定の歩調が保てれば、今でも2時間や3時間は歩き続けることができますが、この辺りから厄介なことが多いのです。

 昨日の今ごろは、法華道を下っていました。一度だけ、「厩の平」の辺りで鳥の声を聞き、少し腰でも下ろそうかと思いましたが、そのまま歩き続けてしまいました。今になって、もう少し山を楽しむべきだったと思うのですが、こうしてまた炬燵の虜囚に戻れば、記憶をたどることでまた何度でもそれができるわけで、ひょっとするとそのために上に行ってきたのかも知れないと考える次第です。
 古道の伊那側には万灯、龍立つ場、門祉屋敷、爺婆の岩(石)、厩の平、はばき当て、山椒小屋跡、御所平、御所平峠、仏平と古い名が残り、北原のお師匠が立てた道標が今も残っています。
 いつか、架空のあなたをこの古道へ案内できればと思っています。
 
 本日はこの辺で、明日は沈黙します。何人からも通信をいただき、そのお礼にこういう体裁を取らせていただきました。ありがとうございました。

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