昨日は久しぶりに昼の散歩に出た。春彼岸が24日ごろまでとか、それでいつもの道順をとらず、夜間も避けて、4軒ほどの墓参りを済ますことができた。両親、先祖の眠る墓もあれば、友人、親戚の墓もあり、それぞれが別々の墓所にあったから、枯草の中に少しづつ緑の色が加わりかけた畑中の道を、そうした人々のことを思い出しながら歩いた。
風が強く、西山はまだ冬のままだったが、家の中にいて炬燵に入って巡らす雑念とはやはり違って、春の息吹の中で相手にするあれこれの思いは重いばかりでなく、快くもあった。
ふと思い出して、「でんでん山」へ行ってみることにした。その場所は散歩のほぼ中間、折り返しにあたる福与(ふくよ)という集落にあって、夜間に人目に付いてはよくないと、これまで控えていた所である。
この場所はわれわれの集落から隔年で、稚児が鹿の角を模した被り物をして、南宮神社へ参拝する際に必ず立ち寄らなければならない場所になっている。南宮神社とはこの辺りでは最も大きな神社で、諏訪大社との関係が深い。
事の起こりはその昔しの大干ばつに繋がる。1558年まで遡るが、長期の日照りに民百姓が困り果て、それでこの地を治めていた箕輪左衛門亮頼政(みのわさえもんのすけよりまさ)という人が南宮神社に雨乞いを頼んだ。
すると、有難いことに願いが叶い、慈雨に恵まれたのだという。それでお礼に75頭だかの鹿を奉納したことが契機となって、以来子供に鹿の代わりに鹿頭に似せた姿の衣装を身に付けさせ、参拝する行事が今日まで続いているのだと、これが初めて訪れたでんでん山の案内板の説明である。
出発地のわが集落にある池火神社は、神社とは名ばかりで今では小さな祠が残るだけだが、その氏子であったから、このくらいの知識は子供のころから聞かされて知っていた。
武士以外の者が帯刀するなどご法度の時代でも、この行事だけは特別に許された村役が、稚児行列を率いて5キロ以上の道を行く。その途中に「でんでん山」という山と言うよりか小さな広場があり、行列は今でもここで福与の人々に迎えられるのだ。
また入笠を引き合いに出すが、この山も昔しは伊那の人たちからは「雨乞い岳」と呼ばれていた。それを証す古い資料もある。また、守屋山は雨乞いの山としてこの辺りではつとに有名である。
灌漑設備も不充分であった時代なら、干ばつは今よりか余程深刻で、水争いなども当然起こったに違いない。そういう状況では、神に祈るしか人々には方法がなかったのだろう。どこかの村や地方で雨乞いの効果があったと聞けば、同じことをやってみる。そうやって、「雨乞い岳」は各地にできたのではないだろうか。
今では忘れられた存在であるが、牧場に残る「雷電様」の祠も、江戸時代後期に芝平の人たちが雨乞いのために作ったのだと、すでにここで何度か呟いた。
本日はこの辺で。