昭和19年8月29日、海軍省の高木惣吉教育局長は井上成美海軍次官に突然呼び出された。
井上次官は高木に終戦の研究を命じ、「このことは大臣(米内光政)と私のほかは誰も知らない。君は病気療養という名目で海軍省出仕になってもらう」と言い渡された。
高木は家が貧乏で中学校にもいけず、高等小学校を卒業するとすぐ鉄道の建設現場事務雇員として日給をもらいながら勉学に励んだ。
苦学の後、ついに海軍兵学校に合格。海軍大学校を首席で卒業し、海軍省教育局長まで登りつめ、海軍良識派の旗手と言われた高木惣吉海軍少将。
その高木惣吉海軍少将は、井上次官の命により、その教育局長の職をきっぱりと辞職、終戦工作に命をかけて奔走した。
優れた分析力の持ち主であり、これまでに多数の政治家、天皇側近、民間有識者、学者と会談を行ってきた政治将校であった高木は井上次官の要請を受けて、病魔と闘いながら終戦工作に取り組んだ。
高木自身、若い時分、自分のことを「へそ曲がりな性格」と言っており、海軍に入ったのに航海配置が大嫌いで、それでありながら、ひょんなことから、兵科を希望もしない大嫌いな航海科にまわされ、高等科学生を終えると、航海長に配置され身を削る思いをした。反骨精神も旺盛で上司ともしばしば衝突した。
戦後の高木は、海上自衛隊幹部学校で講義を行い、後輩を指導すると同時に、日本海軍滅亡に至る内省的な執筆活動に取り掛かった。
昭和54年85歳で死去するまで、生涯日本海軍を美化することなく、滅亡に至る真実の分析を行い、批判を受けながらも執筆・発表を続け、自己の信念を通した生き方をした。
<高木惣吉海軍少将プロフィル>
1893(明治26年)8月、熊本県人吉生まれ。1907(明治40年)鉄道員肥薩線建設事務所雇員。
1912(明治45年)海軍兵学校入校。1915(大正4年海軍兵学校卒業(43期)。1921(大正10年)海軍大尉、海軍大学校航海学生(高等科)。
1925(大正14年)海軍大学校甲種学生(25期)。1927(昭和2年)海軍大学校卒業(首席・恩賜長剣拝受)、フランス駐在。
1930(昭和5年)海軍大臣秘書官。1933年(昭和8年)海軍中佐、海軍大学校教官。1937(昭和12年)臨時調査課長、海軍大佐。
1939(昭和14年)海軍大学校教官。調査課長。1942(昭和17年)舞鶴鎮守府参謀長。1943(昭和18年)海軍少将、海軍大学校研究部員。
1944(昭和19年)海軍省教育局長。8月29日井上成美次官より終戦工作の密命を受ける、軍令部出仕兼海大研究部員。
1945(昭和20年)9月15日予備役。9月19日東久邇内閣書記官長。1946(昭和21年)公職追放令。
1948年(昭和23年)「太平洋海戦史」脱稿。1949(昭和24年)「太平洋開戦史」発刊。1950(昭和25年)「山元五十六と米内光政」発刊。1955(昭和30年)海上自衛隊幹部学校特別講義。
1958(昭和33年)毎月海上幕僚長等と会談(虎の門会)。1969(昭和44年)「私観太平洋戦争」発刊。1971年(昭和46年)「自伝的日本海軍始末記」発刊。
1979年(昭和54年)「自伝的日本海軍始末記続篇」原稿完成(3月18日)。7月27日死去(85歳)。
井上次官は高木に終戦の研究を命じ、「このことは大臣(米内光政)と私のほかは誰も知らない。君は病気療養という名目で海軍省出仕になってもらう」と言い渡された。
高木は家が貧乏で中学校にもいけず、高等小学校を卒業するとすぐ鉄道の建設現場事務雇員として日給をもらいながら勉学に励んだ。
苦学の後、ついに海軍兵学校に合格。海軍大学校を首席で卒業し、海軍省教育局長まで登りつめ、海軍良識派の旗手と言われた高木惣吉海軍少将。
その高木惣吉海軍少将は、井上次官の命により、その教育局長の職をきっぱりと辞職、終戦工作に命をかけて奔走した。
優れた分析力の持ち主であり、これまでに多数の政治家、天皇側近、民間有識者、学者と会談を行ってきた政治将校であった高木は井上次官の要請を受けて、病魔と闘いながら終戦工作に取り組んだ。
高木自身、若い時分、自分のことを「へそ曲がりな性格」と言っており、海軍に入ったのに航海配置が大嫌いで、それでありながら、ひょんなことから、兵科を希望もしない大嫌いな航海科にまわされ、高等科学生を終えると、航海長に配置され身を削る思いをした。反骨精神も旺盛で上司ともしばしば衝突した。
戦後の高木は、海上自衛隊幹部学校で講義を行い、後輩を指導すると同時に、日本海軍滅亡に至る内省的な執筆活動に取り掛かった。
昭和54年85歳で死去するまで、生涯日本海軍を美化することなく、滅亡に至る真実の分析を行い、批判を受けながらも執筆・発表を続け、自己の信念を通した生き方をした。
<高木惣吉海軍少将プロフィル>
1893(明治26年)8月、熊本県人吉生まれ。1907(明治40年)鉄道員肥薩線建設事務所雇員。
1912(明治45年)海軍兵学校入校。1915(大正4年海軍兵学校卒業(43期)。1921(大正10年)海軍大尉、海軍大学校航海学生(高等科)。
1925(大正14年)海軍大学校甲種学生(25期)。1927(昭和2年)海軍大学校卒業(首席・恩賜長剣拝受)、フランス駐在。
1930(昭和5年)海軍大臣秘書官。1933年(昭和8年)海軍中佐、海軍大学校教官。1937(昭和12年)臨時調査課長、海軍大佐。
1939(昭和14年)海軍大学校教官。調査課長。1942(昭和17年)舞鶴鎮守府参謀長。1943(昭和18年)海軍少将、海軍大学校研究部員。
1944(昭和19年)海軍省教育局長。8月29日井上成美次官より終戦工作の密命を受ける、軍令部出仕兼海大研究部員。
1945(昭和20年)9月15日予備役。9月19日東久邇内閣書記官長。1946(昭和21年)公職追放令。
1948年(昭和23年)「太平洋海戦史」脱稿。1949(昭和24年)「太平洋開戦史」発刊。1950(昭和25年)「山元五十六と米内光政」発刊。1955(昭和30年)海上自衛隊幹部学校特別講義。
1958(昭和33年)毎月海上幕僚長等と会談(虎の門会)。1969(昭和44年)「私観太平洋戦争」発刊。1971年(昭和46年)「自伝的日本海軍始末記」発刊。
1979年(昭和54年)「自伝的日本海軍始末記続篇」原稿完成(3月18日)。7月27日死去(85歳)。