「自伝的日本海軍始末記」(光人社)によると、大正十四年十二月一日、海軍大学校に甲種学生(二十五期)として入校した。
高木大尉は海軍兵学校と違ってようやく講義らしい講義が受けられて嬉しかった。
しかし、例外もあった。例えば、憲法総論の上杉慎吉博士。天才的な学者と聞いていたが、三十過ぎた学生に、小馬鹿にした幼稚拙な比喩、天皇神権説の粗雑な憲法講義には高木大尉のクラスでは耳を傾け者は少なかった。
上杉慎吉博士は当時有名な憲法学者だった。ある朝、連日のレポート提出で徹夜組が多かったのか、授業中大半が居眠りしてしまった。海軍大学校のエリート学生でも居眠りはする。
すると憤激した上杉博士は、「私の講義にたいして、失敬な!」とどなりながら、持っていたムチがコナゴナになるまで叩き続け席を蹴って退席してしまった。
高木を含めた最前席の四名は、眠っていなかったのだが、何で博士が怒りだしたか訳が分からず、居眠りしていた学生もびっくり目をさましてポカン、博士が退席してから大笑いになったという。
高名な学者にしては、粗雑な憲法講義というように、学生は思った。
あとで詫びをいったらというハト派学生もいたが、徳永学生長が「ほっとけ、あんなくだらぬ講義をして増長している。詫びることなんかない!」と一喝して、皆それに賛成した。
高木大尉は海軍大学校を昭和二年十一月二十五日卒業した。首席で卒業し恩賜の長剣を拝受した。
だが高木は次のように記している。「死ぬまで海軍兵学校の成績と士官名簿の順位に金縛りされていた旧帝国海軍では、自分のように海軍兵学校の成績がマアマアという程度で、恩賜の長剣をもらったりすると、目のかたきにして足を引っ張る傾向があった」と。
高木が昭和二年十二月一日海軍少佐に昇進し、フランス駐在を命ぜられて、海兵四十八期のトップ、小野田捨次郎大尉がいっしょにフランス駐在となった時の送別会でも、そのような場面があった。
送別会の時、誰かが「小野田大尉はトップだから、海大なんか行かない前に洋行ができる。高木さんは海大の恩賜をもらって洋行。海兵の優等生はたいしたものですね」と大声で放言していた。全くその通りであった、と高木は思ったという。
「自伝的日本海軍始末記」(光人社)によると、パリの大使館に着いた高木少佐は三階の武官室に武官の古賀峯一大佐(後の連合艦隊司令長官)に挨拶に行った。
古賀大佐は、「三十五?いまそんなに進級が遅いか?三十過ぎての語学は難しいよ。寺本君(海大教官)からG・ローランに会わせてくれと紹介状に書いてあったが、語学が出来なくて人に会ってもしょうがない。戦略・戦術なんか、頭においちゃダメだ。本なんか帰朝してからでもいくらでも読める」と高木少佐の期待していたことはあっさり駄目になった。
高木少佐は「たとえ通訳を入れてもフランス海軍で著名な兵学研究家に会わせることも立派な教育の一つ」と考えたが、赴任早々古賀大佐と論争をする余裕もなかった。
パリを見学後の昭和三年三月三日、高木少佐の尊敬する海軍大学校の黒川教官の急逝を知った。
卒業前の教官と学生の宴会で黒川教官は高木に「君、海大教官なんて、チットも学生よりえらくないんだヨ。買いかぶるな」と言って笑われた。たびたび質問で黒川教官をわずらわした高木は、胸迫る思いにたえなかった。
高木大尉は海軍兵学校と違ってようやく講義らしい講義が受けられて嬉しかった。
しかし、例外もあった。例えば、憲法総論の上杉慎吉博士。天才的な学者と聞いていたが、三十過ぎた学生に、小馬鹿にした幼稚拙な比喩、天皇神権説の粗雑な憲法講義には高木大尉のクラスでは耳を傾け者は少なかった。
上杉慎吉博士は当時有名な憲法学者だった。ある朝、連日のレポート提出で徹夜組が多かったのか、授業中大半が居眠りしてしまった。海軍大学校のエリート学生でも居眠りはする。
すると憤激した上杉博士は、「私の講義にたいして、失敬な!」とどなりながら、持っていたムチがコナゴナになるまで叩き続け席を蹴って退席してしまった。
高木を含めた最前席の四名は、眠っていなかったのだが、何で博士が怒りだしたか訳が分からず、居眠りしていた学生もびっくり目をさましてポカン、博士が退席してから大笑いになったという。
高名な学者にしては、粗雑な憲法講義というように、学生は思った。
あとで詫びをいったらというハト派学生もいたが、徳永学生長が「ほっとけ、あんなくだらぬ講義をして増長している。詫びることなんかない!」と一喝して、皆それに賛成した。
高木大尉は海軍大学校を昭和二年十一月二十五日卒業した。首席で卒業し恩賜の長剣を拝受した。
だが高木は次のように記している。「死ぬまで海軍兵学校の成績と士官名簿の順位に金縛りされていた旧帝国海軍では、自分のように海軍兵学校の成績がマアマアという程度で、恩賜の長剣をもらったりすると、目のかたきにして足を引っ張る傾向があった」と。
高木が昭和二年十二月一日海軍少佐に昇進し、フランス駐在を命ぜられて、海兵四十八期のトップ、小野田捨次郎大尉がいっしょにフランス駐在となった時の送別会でも、そのような場面があった。
送別会の時、誰かが「小野田大尉はトップだから、海大なんか行かない前に洋行ができる。高木さんは海大の恩賜をもらって洋行。海兵の優等生はたいしたものですね」と大声で放言していた。全くその通りであった、と高木は思ったという。
「自伝的日本海軍始末記」(光人社)によると、パリの大使館に着いた高木少佐は三階の武官室に武官の古賀峯一大佐(後の連合艦隊司令長官)に挨拶に行った。
古賀大佐は、「三十五?いまそんなに進級が遅いか?三十過ぎての語学は難しいよ。寺本君(海大教官)からG・ローランに会わせてくれと紹介状に書いてあったが、語学が出来なくて人に会ってもしょうがない。戦略・戦術なんか、頭においちゃダメだ。本なんか帰朝してからでもいくらでも読める」と高木少佐の期待していたことはあっさり駄目になった。
高木少佐は「たとえ通訳を入れてもフランス海軍で著名な兵学研究家に会わせることも立派な教育の一つ」と考えたが、赴任早々古賀大佐と論争をする余裕もなかった。
パリを見学後の昭和三年三月三日、高木少佐の尊敬する海軍大学校の黒川教官の急逝を知った。
卒業前の教官と学生の宴会で黒川教官は高木に「君、海大教官なんて、チットも学生よりえらくないんだヨ。買いかぶるな」と言って笑われた。たびたび質問で黒川教官をわずらわした高木は、胸迫る思いにたえなかった。