「海軍少将・高木惣吉」(光人社)によると、昭和五十八年の早春、鎌倉の東慶時に皇太子殿下ご夫妻と浩宮様がお立ち寄りになった。
ご案内の住職が境内の一角に並ぶ哲学者達の墓の傍らを通り過ぎた時、「ここに高木という海軍軍人の墓もございます」と何気なく申し上げた。
皇太子殿下は一瞬ハッとされて、「高木海軍少将ですか」と念を押された。そのあと妃殿下、浩宮とささやかれ、高木少将の墓前に佇まれ黙礼された。終戦工作に奔走した高木少将のことは宮中でもご存知だったのである。
高木少将が自分の墓を東慶時の西田幾多郎(哲学者)の墓の後ろの一画に選定したのは昭和二十五年だった。高木は生前の西田幾多郎と会っており、生涯、西田哲学を精神的拠りどころとして生きた。
西田幾多郎は昭和二十年六月七日、死去している。西田博士は病気で自分の死が近づいた時、母も死去しており、一人残される愛娘を病床の枕元に呼び「死はお月様より美しいんだよ」と伝えた。
敗戦間近になり、日本が敵国に占領されたら1人残していく愛娘はどうなるか、心残りの思案の末、そう伝えたと言われている。
高木は昭和十六年の開戦直前に鎌倉の西田博士を訪ね、会っている。その時政府・軍部の動きを西田博士に説明し「ここまで来ればもはや開戦のほかありますまい」と言った。
すると西田博士は「君達は国の運命をどうするつもりか!いままででさえ国民をどんな目にあわせたと思う。日本の!日本のこの文化の程度で、戦いができると考えているのか!」と睨みすえられた。
高木は息が詰まったと言う。高木は「この時ばかりふだん寛大であった先生だけに、しみじみとこたえた」と述べている。
海軍良識派の旗手と言われた高木惣吉海軍少将の業績は、民間ブレーンを登用したこと、東條内閣退陣の工作、そして終戦工作である。
もともと、高木は若かりし頃、海外で働くことを考えていた。ハワイかカリフォルニアに行き、向こうで大農場を経営しようと思っていた。
高等小学校を卒業し、ある出版社の通信教育で優秀な成績を取ったら米国留学できると言うので、頑張って通信教育をやり優秀な成績をとり、合格。上京して出版社に出向いたが、それは誇大広告で米国留学は嘘だった。
それで夢がしぼんで、郷里で中学の数学教師にでもなろうかと思っていた。だが、縁があって東京天文台長の森村寿博士の書生になった。
ちょうどその頃、この森村博士の母堂が、学資を要せず、立派な教育を授かり、実力次第で立身出世できる軍人への道を高木に奨めた。
高木は実は海軍に憧れた訳ではなかったが、海軍兵学校は、高木のように中学を卒業していなくても受験できたのである。こうして高木は海軍兵学校を受験、合格して入校した。
ご案内の住職が境内の一角に並ぶ哲学者達の墓の傍らを通り過ぎた時、「ここに高木という海軍軍人の墓もございます」と何気なく申し上げた。
皇太子殿下は一瞬ハッとされて、「高木海軍少将ですか」と念を押された。そのあと妃殿下、浩宮とささやかれ、高木少将の墓前に佇まれ黙礼された。終戦工作に奔走した高木少将のことは宮中でもご存知だったのである。
高木少将が自分の墓を東慶時の西田幾多郎(哲学者)の墓の後ろの一画に選定したのは昭和二十五年だった。高木は生前の西田幾多郎と会っており、生涯、西田哲学を精神的拠りどころとして生きた。
西田幾多郎は昭和二十年六月七日、死去している。西田博士は病気で自分の死が近づいた時、母も死去しており、一人残される愛娘を病床の枕元に呼び「死はお月様より美しいんだよ」と伝えた。
敗戦間近になり、日本が敵国に占領されたら1人残していく愛娘はどうなるか、心残りの思案の末、そう伝えたと言われている。
高木は昭和十六年の開戦直前に鎌倉の西田博士を訪ね、会っている。その時政府・軍部の動きを西田博士に説明し「ここまで来ればもはや開戦のほかありますまい」と言った。
すると西田博士は「君達は国の運命をどうするつもりか!いままででさえ国民をどんな目にあわせたと思う。日本の!日本のこの文化の程度で、戦いができると考えているのか!」と睨みすえられた。
高木は息が詰まったと言う。高木は「この時ばかりふだん寛大であった先生だけに、しみじみとこたえた」と述べている。
海軍良識派の旗手と言われた高木惣吉海軍少将の業績は、民間ブレーンを登用したこと、東條内閣退陣の工作、そして終戦工作である。
もともと、高木は若かりし頃、海外で働くことを考えていた。ハワイかカリフォルニアに行き、向こうで大農場を経営しようと思っていた。
高等小学校を卒業し、ある出版社の通信教育で優秀な成績を取ったら米国留学できると言うので、頑張って通信教育をやり優秀な成績をとり、合格。上京して出版社に出向いたが、それは誇大広告で米国留学は嘘だった。
それで夢がしぼんで、郷里で中学の数学教師にでもなろうかと思っていた。だが、縁があって東京天文台長の森村寿博士の書生になった。
ちょうどその頃、この森村博士の母堂が、学資を要せず、立派な教育を授かり、実力次第で立身出世できる軍人への道を高木に奨めた。
高木は実は海軍に憧れた訳ではなかったが、海軍兵学校は、高木のように中学を卒業していなくても受験できたのである。こうして高木は海軍兵学校を受験、合格して入校した。