大正八年十二月一日海軍砲術学校普通科学生、その六ヵ月後に海軍水雷学校普通科学生となった高木中尉は海軍兵学校の蒸し返しのような水雷兵器の暗記と、初歩的射法の座学にうんざりしてしまった。
人生を出直すとすれば二十七歳の今が思い切りをつける最後の時期と考え、当時日本一と評判された芝神明町の観相の大家、石竜子を訪ねた。
穴のあくほど高木の顔をにらんでいた石竜子は「イカン、君はそれが欠点だ!人生に波も風もない一生なんてあるもんじゃない。冬の次には春が来る。夜明け前は一番暗いぞ。バカなことは考えないで、帰ったほうがいい!」と言われ、すごすごと横須賀へ帰った。
大正十年夏、専門の兵科を決める高等科学生の入試となった。二道かけるのが嫌いな高木中尉は第一志望砲術、とそれだけ書いて提出した。
すると、庶務係の主計少尉が「第二志望、第三志望も書くことになっています」と言うから、「アア、適当に書いといて」とうっかり口をすべらした。ところが、その主計少尉は高木の一番嫌いな航海を第二志望の欄に書き込んだ。
それで海軍大学航海学生に採用された。その結果、高木中尉は一番嫌いな専門の航海に引きずり込まれ、駆逐艦や測量艦の航海長になり、骨まで痩せる思いをしなければならなかった。
「自伝的日本海軍始末記」(光人社)によると、高木は大正十一年十一月、駆逐艦「帆風」の航海長に任命された。
十二月、高木は二十九歳で結婚した。最初は、M氏の仲人で横須賀県立高女校長の令嬢と見合いをし、一目ぼれで、欲しくてたまらなかったが、質問された事をバカ正直にズバズバ答えておじゃんになった。
次の見合いの相手が横須賀高女出身の良家の娘で理知的で寂しげな感じの人だったという。
帰り道にM氏が「君、イエスかノーか」と山下将軍のように迫るので「お願いします」と返事した。
ところが、それから夏も過ぎようとするのに、向こうの返事は梨のつぶて。高木は今度もヒジテツを喰ったかと思うと、男がすたると、ヤケクソ気味で「この話は解消したいと」M氏に伝えた。
すると一杯きげんで東京の高木の下宿に押しかけてきたM氏は、「女は亭主次第で一生の運命が決まる。右向け右式に即答が出来るか」とどやしあげた。後にこの女性と高木は結婚した。
大正十三年十二月一日、高木大尉は測量艦「満州」の航海長に任命された。艦長は東京帝大で気象学を専攻した重松良一中佐だった。
熱帯医学、海洋学の学者を多数乗せて十四年四月出港した。ウルシーからヤップ島、パラオ諸島から南の赤道近くまで観測航海をやり、バシー海峡に入り、台湾北東の三紹角に向かった。
その南東方の浅瀬にたどり着く航路のことで高木大尉と重松艦長は大衝突をした。
重松艦長は「四ノットの微速で直行すれば夜明けに浅瀬に着くと」言った。
航海長である高木大尉は、「海流が一ないし二ノットと海図に書いてあっても、それは年間の平均の流速で、季節や天候などで変化がある」と言った。
さらに高木は、「微速でノロノロ行くと風潮の影響が大きくなり正確に目標を発見できない。それより三角形の二辺を走る形で、鼻頭角の灯台に向かって直進し、灯台の光が見えたら、艦位を確定して南に下れば明け方に浅瀬を発見できる」と主張した。
だが高木大尉がいくら説明しても重松艦長は承知しない。
シャクにさわったが、重松艦長のいうとおりに修正航路を定めた。
翌朝になってみると、案の定、浅瀬は姿も見せず、あいにくの曇り空のため星で天測位置もだせない。高木大尉は「すこし山船頭を教育してやれ」と思い私室に狸寝入りして艦橋に上らなかった。
人生を出直すとすれば二十七歳の今が思い切りをつける最後の時期と考え、当時日本一と評判された芝神明町の観相の大家、石竜子を訪ねた。
穴のあくほど高木の顔をにらんでいた石竜子は「イカン、君はそれが欠点だ!人生に波も風もない一生なんてあるもんじゃない。冬の次には春が来る。夜明け前は一番暗いぞ。バカなことは考えないで、帰ったほうがいい!」と言われ、すごすごと横須賀へ帰った。
大正十年夏、専門の兵科を決める高等科学生の入試となった。二道かけるのが嫌いな高木中尉は第一志望砲術、とそれだけ書いて提出した。
すると、庶務係の主計少尉が「第二志望、第三志望も書くことになっています」と言うから、「アア、適当に書いといて」とうっかり口をすべらした。ところが、その主計少尉は高木の一番嫌いな航海を第二志望の欄に書き込んだ。
それで海軍大学航海学生に採用された。その結果、高木中尉は一番嫌いな専門の航海に引きずり込まれ、駆逐艦や測量艦の航海長になり、骨まで痩せる思いをしなければならなかった。
「自伝的日本海軍始末記」(光人社)によると、高木は大正十一年十一月、駆逐艦「帆風」の航海長に任命された。
十二月、高木は二十九歳で結婚した。最初は、M氏の仲人で横須賀県立高女校長の令嬢と見合いをし、一目ぼれで、欲しくてたまらなかったが、質問された事をバカ正直にズバズバ答えておじゃんになった。
次の見合いの相手が横須賀高女出身の良家の娘で理知的で寂しげな感じの人だったという。
帰り道にM氏が「君、イエスかノーか」と山下将軍のように迫るので「お願いします」と返事した。
ところが、それから夏も過ぎようとするのに、向こうの返事は梨のつぶて。高木は今度もヒジテツを喰ったかと思うと、男がすたると、ヤケクソ気味で「この話は解消したいと」M氏に伝えた。
すると一杯きげんで東京の高木の下宿に押しかけてきたM氏は、「女は亭主次第で一生の運命が決まる。右向け右式に即答が出来るか」とどやしあげた。後にこの女性と高木は結婚した。
大正十三年十二月一日、高木大尉は測量艦「満州」の航海長に任命された。艦長は東京帝大で気象学を専攻した重松良一中佐だった。
熱帯医学、海洋学の学者を多数乗せて十四年四月出港した。ウルシーからヤップ島、パラオ諸島から南の赤道近くまで観測航海をやり、バシー海峡に入り、台湾北東の三紹角に向かった。
その南東方の浅瀬にたどり着く航路のことで高木大尉と重松艦長は大衝突をした。
重松艦長は「四ノットの微速で直行すれば夜明けに浅瀬に着くと」言った。
航海長である高木大尉は、「海流が一ないし二ノットと海図に書いてあっても、それは年間の平均の流速で、季節や天候などで変化がある」と言った。
さらに高木は、「微速でノロノロ行くと風潮の影響が大きくなり正確に目標を発見できない。それより三角形の二辺を走る形で、鼻頭角の灯台に向かって直進し、灯台の光が見えたら、艦位を確定して南に下れば明け方に浅瀬を発見できる」と主張した。
だが高木大尉がいくら説明しても重松艦長は承知しない。
シャクにさわったが、重松艦長のいうとおりに修正航路を定めた。
翌朝になってみると、案の定、浅瀬は姿も見せず、あいにくの曇り空のため星で天測位置もだせない。高木大尉は「すこし山船頭を教育してやれ」と思い私室に狸寝入りして艦橋に上らなかった。