海軍兵学校卒業後、黒島亀人は山本五十六と同じ砲術屋としての道を歩む。大正九年中尉時代に砲術学校普通科学生。大正十一年大尉のとき砲術学校高等科学生となっている。
この砲術コースを歩んだことについて、香川亀人氏は「黒島亀人伝」の中で、次のように語っている。
「氏(黒島亀人)は少年時代にこの方面(砲術)に興味と才能を示していたのである。例えば、少年時代に空気銃とか、また吹き矢で雀を打つことに妙技をあらわしたり、お祭りの時にコルクを先につめた空気銃で人形や煙草を撃ち落して業者を泣かせていたというのである」。
次のような黒島の少年時代のエピソードも記している。
「八幡さんのお祭りの際、業者泣かせのもうひとつの話をしておこう。吉野紙のような薄い幅二センチほどの紙の輪(直径二十センチくらい)を竹の管に掛け、これを剃刀で切る競技があった」
「たいていは剃刀で切れずに竹の管のところでチリ紙の方が切れるのだが、黒島さんは一日中これの練習をして、二日目にはもうコツを覚えて、剃刀でその薄い紙の輪が切れるようになり、これまた業者に侘びを入れさせたのであった」。
要するに黒島は凝り性なのである。ひとつの物事に徹底的にこだわる。一度、こだわると、徹頭徹尾、研究し抜き、それに熟達してしまう。
研究し、熟達するのに多少時間はかかるけれど、かならず目標を到達せずにはおかない。この性向は、あきらかに学者や研究者のものである。
昭和三年十二月、三十五歳で海軍大学校を卒業後、黒島亀人は海軍少佐に昇進した。昭和六年十二月、重巡洋艦「羽黒」(一三一二〇トン)の砲術長となった。
この「羽黒」の砲術長のとき、巨砲をトン数の少ない「羽黒」級に積むと、航海中に発射したとき、艦のひねりや傾きなどが生じて、命中率が低くなる。これを砲術上の問題として解決するよう黒島少佐は命ぜられた。
黒島少佐は研究し、実験をくり返し、砲術を可能にして解決した。この実験成功後、黒島は重巡洋艦「愛宕」(一三四〇〇トン)の砲術長に任命され、この艦でも巨砲の砲術を可能にした。
このことが、黒島少佐を日本有数の砲術家に押し上げることになり、昭和八年海軍省軍務局員として、本省勤務になり、海軍技術会議議員も兼ねることになった。翌年の昭和九年には海軍中佐に昇進している。
三年の本省勤務後、黒島は昭和十一年から再び艦隊勤務になったが、今度は単なる砲術家としてではなく参謀として洋上で指導した。
そして黒島は、やがて(昭和十四年)、連合艦隊司令長官・山本五十六大将により、連合艦隊先任参謀に抜擢されることとなる。
そもそも連合艦隊の参謀部は、砲術、水雷、航空(甲・乙)などの参謀を抱え、それを統括する部署である。それ以外にも、戦務、航海、通信、機関の各参謀が配置されている大世帯である。
統括の頂点に立つのは参謀長であるが、先任参謀が参謀部の筆頭格で、実質的にこの大世帯をまとめていかなければならない。
そのような状況から先任参謀は識見・衆望のある人材が就任する。任期は約一年で、戦機が迫れば、軍令部作戦課長が年度作戦計画を持って、このポジションにつくのが、慣例になっていた。
事実、連合艦隊先任参謀は、後に海軍史に残る名将、猛将が多い。歴代の先任参謀は次のような著名な軍人が就任している。
近藤信竹大将(大阪・海兵三五首席・海大一七・少将・連合艦隊参謀長・軍令部第一部長・中将・第五艦隊司令長官・軍令部次長・第二艦隊司令長官・大将・支那方面艦隊司令長官)。
山口多聞中将(東京・海兵四〇次席・海大二四首席・海大教官・大佐・米国駐在武官・戦艦「伊勢」艦長・少将・第一連合航空隊司令官・航空第二航空戦隊司令官・中将・戦死・功一級金鵄勲章)。
福留繁中将(鳥取・海兵四〇・海大二四首席・大佐・軍令部作戦課長・戦艦「長門」艦長・少将・連合艦隊参謀長・軍令部第一部長・中将・連合艦隊参謀長・海軍乙事件・第三航空艦隊司令長官)。
宇垣纏中将(岡山・海兵四〇・海大二二・独国駐在・海大教官・大佐・戦艦「日向」艦長・少将・軍令部第一部長・連合艦隊参謀長・中将・第五航空艦隊司令長官・戦死)。
以上のような名将・猛将でもなく、作戦課に勤務したことなく、ましてや軍令部勤務もない黒島亀人は、どのような経過で山本五十六大将から連合艦隊先任参謀に引き上げられたのだろうか。
昭和十二年、黒島は第四戦隊参謀、第九戦隊参謀を歴任し、その年の十一月に第二艦隊先任参謀となった。この先任参謀のとき、連合艦隊の研究会が行われた。
この研究会について、黒島と同期の元海軍省少将・野元為輝氏(鹿児島・海兵四四・海大二七・空母「翔鶴」<二九三三〇トン>艦長・霞ヶ浦空司令・少将・九〇三空司令)は戦後、黒島亀人の思い出として次のように述べている。
「一般的に言って連合艦隊の研究会では、各艦隊や、戦隊の首席参謀の陳述が主体となり、自然にその人物評かもされることになるのだが、その中で黒島参謀の説明はもっとも要を得ているとの評判であり、このことが後日、君が連合艦隊首席参謀拝命の一因をなしたのではないかと私は想像するのである」
「君は(中略)連合艦隊首席参謀を特命された。そもそもこの配置は、日露戦争当時の有名な秋山参謀の配置であり、その責任たるや極めて重大である(中略)」
「君の海兵卒業時の成績はもちろん良いのであるが、クラスの一、二番というところではない。しかるに君が、海軍の人事取扱慣例を破って、日本の興亡を決する大東亜戦争を控えて連合艦隊首席参謀を拝命されたのである」
「その詳細な経歴は、いまなお不明な点もあり、またこのことについて今日なお余波が燻っているようにも思われるが、この件について結論から先に言えば、山本長官が君の特質としての創意工夫能力を買われたものと思われるのである」。
この砲術コースを歩んだことについて、香川亀人氏は「黒島亀人伝」の中で、次のように語っている。
「氏(黒島亀人)は少年時代にこの方面(砲術)に興味と才能を示していたのである。例えば、少年時代に空気銃とか、また吹き矢で雀を打つことに妙技をあらわしたり、お祭りの時にコルクを先につめた空気銃で人形や煙草を撃ち落して業者を泣かせていたというのである」。
次のような黒島の少年時代のエピソードも記している。
「八幡さんのお祭りの際、業者泣かせのもうひとつの話をしておこう。吉野紙のような薄い幅二センチほどの紙の輪(直径二十センチくらい)を竹の管に掛け、これを剃刀で切る競技があった」
「たいていは剃刀で切れずに竹の管のところでチリ紙の方が切れるのだが、黒島さんは一日中これの練習をして、二日目にはもうコツを覚えて、剃刀でその薄い紙の輪が切れるようになり、これまた業者に侘びを入れさせたのであった」。
要するに黒島は凝り性なのである。ひとつの物事に徹底的にこだわる。一度、こだわると、徹頭徹尾、研究し抜き、それに熟達してしまう。
研究し、熟達するのに多少時間はかかるけれど、かならず目標を到達せずにはおかない。この性向は、あきらかに学者や研究者のものである。
昭和三年十二月、三十五歳で海軍大学校を卒業後、黒島亀人は海軍少佐に昇進した。昭和六年十二月、重巡洋艦「羽黒」(一三一二〇トン)の砲術長となった。
この「羽黒」の砲術長のとき、巨砲をトン数の少ない「羽黒」級に積むと、航海中に発射したとき、艦のひねりや傾きなどが生じて、命中率が低くなる。これを砲術上の問題として解決するよう黒島少佐は命ぜられた。
黒島少佐は研究し、実験をくり返し、砲術を可能にして解決した。この実験成功後、黒島は重巡洋艦「愛宕」(一三四〇〇トン)の砲術長に任命され、この艦でも巨砲の砲術を可能にした。
このことが、黒島少佐を日本有数の砲術家に押し上げることになり、昭和八年海軍省軍務局員として、本省勤務になり、海軍技術会議議員も兼ねることになった。翌年の昭和九年には海軍中佐に昇進している。
三年の本省勤務後、黒島は昭和十一年から再び艦隊勤務になったが、今度は単なる砲術家としてではなく参謀として洋上で指導した。
そして黒島は、やがて(昭和十四年)、連合艦隊司令長官・山本五十六大将により、連合艦隊先任参謀に抜擢されることとなる。
そもそも連合艦隊の参謀部は、砲術、水雷、航空(甲・乙)などの参謀を抱え、それを統括する部署である。それ以外にも、戦務、航海、通信、機関の各参謀が配置されている大世帯である。
統括の頂点に立つのは参謀長であるが、先任参謀が参謀部の筆頭格で、実質的にこの大世帯をまとめていかなければならない。
そのような状況から先任参謀は識見・衆望のある人材が就任する。任期は約一年で、戦機が迫れば、軍令部作戦課長が年度作戦計画を持って、このポジションにつくのが、慣例になっていた。
事実、連合艦隊先任参謀は、後に海軍史に残る名将、猛将が多い。歴代の先任参謀は次のような著名な軍人が就任している。
近藤信竹大将(大阪・海兵三五首席・海大一七・少将・連合艦隊参謀長・軍令部第一部長・中将・第五艦隊司令長官・軍令部次長・第二艦隊司令長官・大将・支那方面艦隊司令長官)。
山口多聞中将(東京・海兵四〇次席・海大二四首席・海大教官・大佐・米国駐在武官・戦艦「伊勢」艦長・少将・第一連合航空隊司令官・航空第二航空戦隊司令官・中将・戦死・功一級金鵄勲章)。
福留繁中将(鳥取・海兵四〇・海大二四首席・大佐・軍令部作戦課長・戦艦「長門」艦長・少将・連合艦隊参謀長・軍令部第一部長・中将・連合艦隊参謀長・海軍乙事件・第三航空艦隊司令長官)。
宇垣纏中将(岡山・海兵四〇・海大二二・独国駐在・海大教官・大佐・戦艦「日向」艦長・少将・軍令部第一部長・連合艦隊参謀長・中将・第五航空艦隊司令長官・戦死)。
以上のような名将・猛将でもなく、作戦課に勤務したことなく、ましてや軍令部勤務もない黒島亀人は、どのような経過で山本五十六大将から連合艦隊先任参謀に引き上げられたのだろうか。
昭和十二年、黒島は第四戦隊参謀、第九戦隊参謀を歴任し、その年の十一月に第二艦隊先任参謀となった。この先任参謀のとき、連合艦隊の研究会が行われた。
この研究会について、黒島と同期の元海軍省少将・野元為輝氏(鹿児島・海兵四四・海大二七・空母「翔鶴」<二九三三〇トン>艦長・霞ヶ浦空司令・少将・九〇三空司令)は戦後、黒島亀人の思い出として次のように述べている。
「一般的に言って連合艦隊の研究会では、各艦隊や、戦隊の首席参謀の陳述が主体となり、自然にその人物評かもされることになるのだが、その中で黒島参謀の説明はもっとも要を得ているとの評判であり、このことが後日、君が連合艦隊首席参謀拝命の一因をなしたのではないかと私は想像するのである」
「君は(中略)連合艦隊首席参謀を特命された。そもそもこの配置は、日露戦争当時の有名な秋山参謀の配置であり、その責任たるや極めて重大である(中略)」
「君の海兵卒業時の成績はもちろん良いのであるが、クラスの一、二番というところではない。しかるに君が、海軍の人事取扱慣例を破って、日本の興亡を決する大東亜戦争を控えて連合艦隊首席参謀を拝命されたのである」
「その詳細な経歴は、いまなお不明な点もあり、またこのことについて今日なお余波が燻っているようにも思われるが、この件について結論から先に言えば、山本長官が君の特質としての創意工夫能力を買われたものと思われるのである」。