だが、この交代案は、山本五十六長官により一蹴された。その理由は、黒島大佐の作戦頭脳は一種独特なもので、余人をもって替え難いというものだった。
確かに黒島大佐よりはるかに優秀な参謀は多数いるが、優秀な正統派は、すべて型にはまった発想しかできない。
山本長官は、海軍中央の正統的な戦略理念では、豊かな資源とエネルギーに恵まれたアメリカには勝てない。奇策を生み出す必要があった。黒島大佐によってのみ、その奇策が生み出し得ると確信していた。
黒島大佐の交代劇の経緯は、その三ヶ月前にさかのぼる。昭和十七年一月中旬、真珠湾奇襲攻撃が一段落し、山本五十六長官は、宇垣参謀長と黒島主任参謀に新たな作戦の策定を命じた。
黒島大佐は一室に四日間閉じこもり、作戦構想を練った。黒島大佐が部屋を出てきたときに手にしていたのは、米空母を潰滅へと誘い込むことを企図して、ミッドウェーかハワイに一大襲撃を喰わす計画だったのだ。
それは、ミッドウェーとアリューシャン列島に攻撃を仕掛けるために十六個機動部隊を使用するという大攻撃作戦案だった。
この作戦案は、山本長官も出席した連合艦隊の参謀会議にかけられ、実行可能な作戦案に修正されていったが、基本プランは黒島大佐の頭から捻出されたものだった。
そのプランは、精緻極まりないものであった。列車のダイヤグラムのように精密に計算され、徹底的に練り上げられた作戦計画で、一種の芸術作品のシナリオともいうべきものだった。
参加兵力は戦艦十一、空母八、巡洋艦二十一など、大小艦艇が二百隻を越えるもので、それらが、十~十二のグループに分かれ、ミッドウェーとアリューシャン列島に向かって、異なる時と場所から整然と出撃し、目的地に収れんしていくように工夫されていた。
だが、それは、世界戦史上空前ともいえる戦域拡大を余儀なくするものだった。
それにもかかわらず、山本長官は、この作戦計画をよしとした。こうして、MI(ミッドウェー)、AL(アリューシャン)両作戦構想はできあがっていった。
昭和十七年四月二日、連合艦隊戦務参謀・渡辺安次中佐は、この作戦構想を携えて、連合艦隊司令部である、戦艦「大和」を離れて上京し、海軍軍令部を訪れた。連合艦隊の旗艦が、戦艦「長門」から「大和」に移ったのは、二月十二日だった。
渡辺中佐が携えてきたこの作戦案に、軍令部は真っ向から反対した。反対の中心になったのは、軍令部第一部第一課長(作戦課長)・富岡定俊大佐と、航空主務部員・三代辰吉中佐だった。
ちなみに、三代中佐と渡辺中佐は海軍兵学校(五一期)、海軍大学校(三三期)ともに同期だった。
連合艦隊の作戦概略は、ミッドウェー占領後、できればハワイ攻撃を視野に、アリューシャン列島の要地を占領し、日本の空と海を、東に二〇〇〇カイリ拡大する。同時にアメリカ太平洋艦隊を誘い出し撃滅するというものだった。
一方、軍令部は、アメリカは、オーストラリアを拠点にして反攻に出てくると想定していた。日本としてはアメリカが反攻してくる前に、ソロモン群島からニューカレドニア、サモア島などを攻略して、オーストラリア孤立させる。
これは、いわゆる米豪遮断作戦だが、第二段作戦として、この作戦を軍令部作戦課は、もっとも熱心に研究、推進していた。富岡大佐や三代中佐もこの立場であり、ミッドウェー、アリューシャン両作戦構想に反対した。
富岡大佐と三代中佐は、たとえ、ミッドウェー島を攻略占領しても、補給難の問題がある。補給を続けるために、護衛の航空兵力を得るために広大な制空権を維持しなければならないことを勘案すれば、この孤島の占領価値は少ないと主張した。占領継続のための艦隊行動にも難があると。
この問題に対して、渡辺中佐の反論はタジタジとなった。最後に渡辺中佐は次のように主張した。
「作戦案は、いやしくも山本長官が決裁したものである。作戦課が反対したからといって、おめおめと引き下がれない。軍令部上層部の意見を聞きたい」。
渡辺中佐の主張を受けて、富岡大佐と三代中佐は、第一部長・福留繁少将のところに同案を持ち込んで、議論を続けた。
確かに黒島大佐よりはるかに優秀な参謀は多数いるが、優秀な正統派は、すべて型にはまった発想しかできない。
山本長官は、海軍中央の正統的な戦略理念では、豊かな資源とエネルギーに恵まれたアメリカには勝てない。奇策を生み出す必要があった。黒島大佐によってのみ、その奇策が生み出し得ると確信していた。
黒島大佐の交代劇の経緯は、その三ヶ月前にさかのぼる。昭和十七年一月中旬、真珠湾奇襲攻撃が一段落し、山本五十六長官は、宇垣参謀長と黒島主任参謀に新たな作戦の策定を命じた。
黒島大佐は一室に四日間閉じこもり、作戦構想を練った。黒島大佐が部屋を出てきたときに手にしていたのは、米空母を潰滅へと誘い込むことを企図して、ミッドウェーかハワイに一大襲撃を喰わす計画だったのだ。
それは、ミッドウェーとアリューシャン列島に攻撃を仕掛けるために十六個機動部隊を使用するという大攻撃作戦案だった。
この作戦案は、山本長官も出席した連合艦隊の参謀会議にかけられ、実行可能な作戦案に修正されていったが、基本プランは黒島大佐の頭から捻出されたものだった。
そのプランは、精緻極まりないものであった。列車のダイヤグラムのように精密に計算され、徹底的に練り上げられた作戦計画で、一種の芸術作品のシナリオともいうべきものだった。
参加兵力は戦艦十一、空母八、巡洋艦二十一など、大小艦艇が二百隻を越えるもので、それらが、十~十二のグループに分かれ、ミッドウェーとアリューシャン列島に向かって、異なる時と場所から整然と出撃し、目的地に収れんしていくように工夫されていた。
だが、それは、世界戦史上空前ともいえる戦域拡大を余儀なくするものだった。
それにもかかわらず、山本長官は、この作戦計画をよしとした。こうして、MI(ミッドウェー)、AL(アリューシャン)両作戦構想はできあがっていった。
昭和十七年四月二日、連合艦隊戦務参謀・渡辺安次中佐は、この作戦構想を携えて、連合艦隊司令部である、戦艦「大和」を離れて上京し、海軍軍令部を訪れた。連合艦隊の旗艦が、戦艦「長門」から「大和」に移ったのは、二月十二日だった。
渡辺中佐が携えてきたこの作戦案に、軍令部は真っ向から反対した。反対の中心になったのは、軍令部第一部第一課長(作戦課長)・富岡定俊大佐と、航空主務部員・三代辰吉中佐だった。
ちなみに、三代中佐と渡辺中佐は海軍兵学校(五一期)、海軍大学校(三三期)ともに同期だった。
連合艦隊の作戦概略は、ミッドウェー占領後、できればハワイ攻撃を視野に、アリューシャン列島の要地を占領し、日本の空と海を、東に二〇〇〇カイリ拡大する。同時にアメリカ太平洋艦隊を誘い出し撃滅するというものだった。
一方、軍令部は、アメリカは、オーストラリアを拠点にして反攻に出てくると想定していた。日本としてはアメリカが反攻してくる前に、ソロモン群島からニューカレドニア、サモア島などを攻略して、オーストラリア孤立させる。
これは、いわゆる米豪遮断作戦だが、第二段作戦として、この作戦を軍令部作戦課は、もっとも熱心に研究、推進していた。富岡大佐や三代中佐もこの立場であり、ミッドウェー、アリューシャン両作戦構想に反対した。
富岡大佐と三代中佐は、たとえ、ミッドウェー島を攻略占領しても、補給難の問題がある。補給を続けるために、護衛の航空兵力を得るために広大な制空権を維持しなければならないことを勘案すれば、この孤島の占領価値は少ないと主張した。占領継続のための艦隊行動にも難があると。
この問題に対して、渡辺中佐の反論はタジタジとなった。最後に渡辺中佐は次のように主張した。
「作戦案は、いやしくも山本長官が決裁したものである。作戦課が反対したからといって、おめおめと引き下がれない。軍令部上層部の意見を聞きたい」。
渡辺中佐の主張を受けて、富岡大佐と三代中佐は、第一部長・福留繁少将のところに同案を持ち込んで、議論を続けた。