艦長を殴ったとは……。事実ならば、理由の如何を問わず、由々しき問題だった。しかも令夫人や衆人環視の中で―。
酔いも冷め果てて、板倉少尉は蒼くなった。弁明の余地は全くなかった。板倉少尉は心中ひそかに覚悟を決めた。
帰艦するなり、私室で着替えをしていたとき、士官たちの従兵がドアをノックした。「航海士……副長がお呼びです」。すでに腹は決まっていた。
服装を改めて出向くと、上海事変の功績で金鵄勲章功三級の武勲に輝く近藤憲一中佐が、待っていた。
近 藤中佐は、険しい顔で睨みつけながら、右足でドスンと床を叩き、「艦長を殴るとはなにごとだッ!帝国海軍始まって以来の不祥事である。なにぶんの指示があるまで私室で謹慎していろ」と言った。
返す言葉もなかった。たとえあったとしても、口にすべきではないと板倉少尉は思った。今までにずい分失敗をしたが、このときほど、自分に愛想が尽きたことはなかった。
「私物と官給品を種分けしておけ」と、付け加えられ、板倉少尉は悄然として引き下がった。私室で書類や官品を整理して、夜更けの冷たいベッドに横たわったとき、ひとりでに涙が溢れてきた。
まだ見たことのない軍法会議の法廷に立たされる自分。悄然として郷里の土を踏む惨めな姿。落胆する両親や兄弟の顔が瞼に浮かんだ。
係りの従兵が、朝食の用意ができたことを知らせに来たが、板倉少尉はガンルームに顔を出す気になれず、私室にこもったまま、艦長あての詫び状に筆をとった。そして心底から詫びる一文をしたためた。
その時、「板倉少尉、艦長がお呼びです」と知らせてきた。いずれ早晩脱ぐべき軍服だ。板倉少尉は背広に着替えてゆくことにしたが、さすがに足は重かった。
ドアをノックして艦長室に入り、板倉少尉が一礼して顔をあげたところ、鮫島艦長の左頬が赤くはれ上がっていた。思わず目を伏せて、黙って詫び状を差し出した。
鮫島艦長は無表情のまま、読み終わると、しばしの間、板倉少尉を見つめていたが、「板倉少尉は、酒をやめられないか……」と、思いがけない質問を、言葉優しくかけられた。
板倉少尉は面食らって、ためらいもあったが、「はッ……昨夜来、禁酒を決意しましたが、恐らく、続かないと思います」と答えた。
すると鮫島艦長は「そうか……では、酒の量を減らすことはできないか?」と重ねて質問した。
板倉少尉はしばらく考えたが、すっかり観念していたので、あえて自分を偽ることはできなかった。今まで、禁酒や節酒を誓ったことは、二回や三回ではなかった。それが、ものの三日と続いたためしがなかった。
「はッ……そのつもりでいますが、恐らく酒をやめるより難しいと思います」と、板倉少尉はつい本音で答えてしまった。
鮫島艦長は、表情を変えずにしばらく考えていたが、「そうか……もうよろしい」と、ポツンと一言言った。
取り返しのつかない悔いと、運命の定めを覚えながら、板倉少尉は艦長室のドアを後ろに閉めた。厳しい叱責を覚悟していただけに、いつもと変らぬ鮫島艦長の温容に接し、新たな感動を覚えた。
あとは処断を待つだけだった。板倉少尉はせめて、最後は潔くしたいと思い、無精ひげを剃り、クラス会に脱退届けを書いていたとき、再度、鮫島艦長から呼ばれた。
板倉少尉が覚悟を新たにして出向くと、鮫島艦長は相変わらず穏やかな口調で、「どう考えても腑に落ちない。何か訳があってのことではないか……」と尋ねた。
「別にありません。ただただ、申し訳がないと思っております」と板倉少尉は答えた。いまさら言い訳がましいことは、口が裂けても言えるものではない、これ以上恥の上塗りはしたくなかったのだ。
だが、鮫島艦長は両眼を閉じたまま、苦悩の色さえ浮かべていた。一少尉を処断するのに、しかも自分を殴った若輩なのに、鮫島艦長には、憎しみの情は片鱗もうかがえなかった。
あまつさえ、「酒の上とは思えない」とつぶやいた、鮫島艦長の口調にはしみじみとした温かみすら感じられた。いつしか、板倉少尉のかたくなな気持ちがほぐれ始めた。
酔いも冷め果てて、板倉少尉は蒼くなった。弁明の余地は全くなかった。板倉少尉は心中ひそかに覚悟を決めた。
帰艦するなり、私室で着替えをしていたとき、士官たちの従兵がドアをノックした。「航海士……副長がお呼びです」。すでに腹は決まっていた。
服装を改めて出向くと、上海事変の功績で金鵄勲章功三級の武勲に輝く近藤憲一中佐が、待っていた。
近 藤中佐は、険しい顔で睨みつけながら、右足でドスンと床を叩き、「艦長を殴るとはなにごとだッ!帝国海軍始まって以来の不祥事である。なにぶんの指示があるまで私室で謹慎していろ」と言った。
返す言葉もなかった。たとえあったとしても、口にすべきではないと板倉少尉は思った。今までにずい分失敗をしたが、このときほど、自分に愛想が尽きたことはなかった。
「私物と官給品を種分けしておけ」と、付け加えられ、板倉少尉は悄然として引き下がった。私室で書類や官品を整理して、夜更けの冷たいベッドに横たわったとき、ひとりでに涙が溢れてきた。
まだ見たことのない軍法会議の法廷に立たされる自分。悄然として郷里の土を踏む惨めな姿。落胆する両親や兄弟の顔が瞼に浮かんだ。
係りの従兵が、朝食の用意ができたことを知らせに来たが、板倉少尉はガンルームに顔を出す気になれず、私室にこもったまま、艦長あての詫び状に筆をとった。そして心底から詫びる一文をしたためた。
その時、「板倉少尉、艦長がお呼びです」と知らせてきた。いずれ早晩脱ぐべき軍服だ。板倉少尉は背広に着替えてゆくことにしたが、さすがに足は重かった。
ドアをノックして艦長室に入り、板倉少尉が一礼して顔をあげたところ、鮫島艦長の左頬が赤くはれ上がっていた。思わず目を伏せて、黙って詫び状を差し出した。
鮫島艦長は無表情のまま、読み終わると、しばしの間、板倉少尉を見つめていたが、「板倉少尉は、酒をやめられないか……」と、思いがけない質問を、言葉優しくかけられた。
板倉少尉は面食らって、ためらいもあったが、「はッ……昨夜来、禁酒を決意しましたが、恐らく、続かないと思います」と答えた。
すると鮫島艦長は「そうか……では、酒の量を減らすことはできないか?」と重ねて質問した。
板倉少尉はしばらく考えたが、すっかり観念していたので、あえて自分を偽ることはできなかった。今まで、禁酒や節酒を誓ったことは、二回や三回ではなかった。それが、ものの三日と続いたためしがなかった。
「はッ……そのつもりでいますが、恐らく酒をやめるより難しいと思います」と、板倉少尉はつい本音で答えてしまった。
鮫島艦長は、表情を変えずにしばらく考えていたが、「そうか……もうよろしい」と、ポツンと一言言った。
取り返しのつかない悔いと、運命の定めを覚えながら、板倉少尉は艦長室のドアを後ろに閉めた。厳しい叱責を覚悟していただけに、いつもと変らぬ鮫島艦長の温容に接し、新たな感動を覚えた。
あとは処断を待つだけだった。板倉少尉はせめて、最後は潔くしたいと思い、無精ひげを剃り、クラス会に脱退届けを書いていたとき、再度、鮫島艦長から呼ばれた。
板倉少尉が覚悟を新たにして出向くと、鮫島艦長は相変わらず穏やかな口調で、「どう考えても腑に落ちない。何か訳があってのことではないか……」と尋ねた。
「別にありません。ただただ、申し訳がないと思っております」と板倉少尉は答えた。いまさら言い訳がましいことは、口が裂けても言えるものではない、これ以上恥の上塗りはしたくなかったのだ。
だが、鮫島艦長は両眼を閉じたまま、苦悩の色さえ浮かべていた。一少尉を処断するのに、しかも自分を殴った若輩なのに、鮫島艦長には、憎しみの情は片鱗もうかがえなかった。
あまつさえ、「酒の上とは思えない」とつぶやいた、鮫島艦長の口調にはしみじみとした温かみすら感じられた。いつしか、板倉少尉のかたくなな気持ちがほぐれ始めた。