それに、軍籍を去る身ではあるが、板倉少尉は、栄えある海軍のために、帰着時刻を厳守してもらいたかった。それで、つい、かねがね抱いていた憤懣を鮫島艦長に打ち明けてしまった。
「そうか! そうだったのか……」。それで納得がいったといわんばかりに、鮫島艦長は心なしか明るい表情で、やおら身を起すと、「なにぶんの指示があるまで、今まで通り艦務に服したまえ」と板倉少尉に告げた。
三日後に艦隊は解散され、喜びをホームスピードに乗せて母港に急ぐ航海も、板倉少尉には針の蓆に座らされているようで、居たたまれなかった。
だが、母港で板倉少尉を待っていたものは、重巡洋艦「青葉」(九〇〇〇トン)への転勤命令だった。夢ではないか、思わず熱い涙が板倉少尉の頬を伝わった。
重巡洋艦「青葉」の艦長は、平岡粂一(ひらおか・くめいち)大佐(広島・海兵三九・重巡洋艦「青葉」艦長・戦艦「比叡」艦長・少将・横須賀防戦司令官・上海方面根拠地司令官・第九根拠地司令官・中将・予備役)だった。
板倉少尉は艦長室に駆け込んだ。鮫島艦長は、相変わらず無表情のままで、一言、「青葉に着任したら、平岡粂一艦長によく指導してもらい給え」と言っただけだった。
ただそれだけだったが、板倉少尉には、鮫島艦長の顔が、観世音菩薩のように仰がれ、嬉し涙がとどめもなくこみ上げて、お礼はおろか、口もきけなかった。
それから数日後、「高級将校といえども帰艦時刻を厳守すべし」という意味の次官通達が全軍に布告された。
当時の海軍次官は、カミソリ次官といわれた長谷川清(はせがわ・きよし)中将(福井・海兵三一・海大一二・人事局第一課長・在米大使館附武官・戦艦「長門」艦長・少将・参謀本部第五部長・呉工廠長・中将・ジュネーヴ会議全権・海軍次官・第三艦隊司令長官・横須賀鎮守府司令長官・大将・台湾総督・正三位・勲一等・功一級)だった。
鮫島大佐は、長谷川次官を訪ねて、自分を殴った一少尉のために、あえて助命を嘆願したのであろう。板倉少尉には、そうとしか思えなかった。
時は流れ、太平洋戦争末期の昭和十九年、ガダルカナル島を奪取した連合軍は、その余勢をかって、怒涛のごとくソロモン群島に殺到し、日本軍のラバウルの前衛線であるブーゲンビル島に向かった。
ブーゲンビル島は、北のブカと南のブインに分断されて、日本軍は完全に孤立無援に陥り、ガダルカナル島さながらの命運が刻一刻と迫りつつあった。
ブイン島には海軍の第八艦隊司令部があり、海軍部隊を統率していた。ブーゲンビル島守備隊の命運は、潜水艦輸送の成否にあるといってもよい状況だった。
だが、ブーゲンビル島は連合軍が包囲しており、潜水艦輸送は至難の技で、まさに決死的な作戦だった。
当時、板倉光馬は海軍少佐になっており、イ四一潜水艦の艦長だった。いろいろないきさつがあり、イ四一潜水艦はブインヘ輸送に行くことになった。
ブインヘ出発する前、板倉艦長は南東方面艦隊司令部を訪れた。
司令長官は草鹿任一(くさか・じんいち)中将(石川・海兵三七・海大一九・教育局第二課長・戦艦「扶桑」艦長・少将・砲術学校長・第一航空戦隊司令官・教育局長・中将・海軍兵学校長・第十一航空艦隊司令長官・勲一等)だった。
司令部で、草鹿任一中将は、板倉少佐に、「板倉艦長。ブインでは鮫島中将がお待ちかねだよ。しっかり頼むぞ」と言った。
板倉艦少佐は、ハッとして「鮫島中将と言われましたが……。あの鮫島具重閣下のことですか?」と聞き返した。
すると、草鹿中将は「そうだよ。君が少尉のときに殴った、『最上』の艦長」だよ」と言った。板倉少佐は急に、万感が胸にせまって、目頭が熱くなった。
板倉少佐は、うかつにも、今の今まで、ブーゲンビル島の海軍最高指揮官が、鮫島具重中将とは知らなかったのだ。
己を殴った一少尉のために、わざわざ長谷川次官を訪ねて、助命の労をとってくれた、恩人が、敵に囲まれた離島で、糧食も尽きながら、日夜、死闘を続けていたのだ。
公私を超えて、人間としての感動が、電流のように板倉少佐の身体を走った。目に見えない一本の糸が、運命の絆としてつながっていた。
ブイン輸送はどんなことがあっても、成功させなければならないと板倉少佐は思った。
「そうか! そうだったのか……」。それで納得がいったといわんばかりに、鮫島艦長は心なしか明るい表情で、やおら身を起すと、「なにぶんの指示があるまで、今まで通り艦務に服したまえ」と板倉少尉に告げた。
三日後に艦隊は解散され、喜びをホームスピードに乗せて母港に急ぐ航海も、板倉少尉には針の蓆に座らされているようで、居たたまれなかった。
だが、母港で板倉少尉を待っていたものは、重巡洋艦「青葉」(九〇〇〇トン)への転勤命令だった。夢ではないか、思わず熱い涙が板倉少尉の頬を伝わった。
重巡洋艦「青葉」の艦長は、平岡粂一(ひらおか・くめいち)大佐(広島・海兵三九・重巡洋艦「青葉」艦長・戦艦「比叡」艦長・少将・横須賀防戦司令官・上海方面根拠地司令官・第九根拠地司令官・中将・予備役)だった。
板倉少尉は艦長室に駆け込んだ。鮫島艦長は、相変わらず無表情のままで、一言、「青葉に着任したら、平岡粂一艦長によく指導してもらい給え」と言っただけだった。
ただそれだけだったが、板倉少尉には、鮫島艦長の顔が、観世音菩薩のように仰がれ、嬉し涙がとどめもなくこみ上げて、お礼はおろか、口もきけなかった。
それから数日後、「高級将校といえども帰艦時刻を厳守すべし」という意味の次官通達が全軍に布告された。
当時の海軍次官は、カミソリ次官といわれた長谷川清(はせがわ・きよし)中将(福井・海兵三一・海大一二・人事局第一課長・在米大使館附武官・戦艦「長門」艦長・少将・参謀本部第五部長・呉工廠長・中将・ジュネーヴ会議全権・海軍次官・第三艦隊司令長官・横須賀鎮守府司令長官・大将・台湾総督・正三位・勲一等・功一級)だった。
鮫島大佐は、長谷川次官を訪ねて、自分を殴った一少尉のために、あえて助命を嘆願したのであろう。板倉少尉には、そうとしか思えなかった。
時は流れ、太平洋戦争末期の昭和十九年、ガダルカナル島を奪取した連合軍は、その余勢をかって、怒涛のごとくソロモン群島に殺到し、日本軍のラバウルの前衛線であるブーゲンビル島に向かった。
ブーゲンビル島は、北のブカと南のブインに分断されて、日本軍は完全に孤立無援に陥り、ガダルカナル島さながらの命運が刻一刻と迫りつつあった。
ブイン島には海軍の第八艦隊司令部があり、海軍部隊を統率していた。ブーゲンビル島守備隊の命運は、潜水艦輸送の成否にあるといってもよい状況だった。
だが、ブーゲンビル島は連合軍が包囲しており、潜水艦輸送は至難の技で、まさに決死的な作戦だった。
当時、板倉光馬は海軍少佐になっており、イ四一潜水艦の艦長だった。いろいろないきさつがあり、イ四一潜水艦はブインヘ輸送に行くことになった。
ブインヘ出発する前、板倉艦長は南東方面艦隊司令部を訪れた。
司令長官は草鹿任一(くさか・じんいち)中将(石川・海兵三七・海大一九・教育局第二課長・戦艦「扶桑」艦長・少将・砲術学校長・第一航空戦隊司令官・教育局長・中将・海軍兵学校長・第十一航空艦隊司令長官・勲一等)だった。
司令部で、草鹿任一中将は、板倉少佐に、「板倉艦長。ブインでは鮫島中将がお待ちかねだよ。しっかり頼むぞ」と言った。
板倉艦少佐は、ハッとして「鮫島中将と言われましたが……。あの鮫島具重閣下のことですか?」と聞き返した。
すると、草鹿中将は「そうだよ。君が少尉のときに殴った、『最上』の艦長」だよ」と言った。板倉少佐は急に、万感が胸にせまって、目頭が熱くなった。
板倉少佐は、うかつにも、今の今まで、ブーゲンビル島の海軍最高指揮官が、鮫島具重中将とは知らなかったのだ。
己を殴った一少尉のために、わざわざ長谷川次官を訪ねて、助命の労をとってくれた、恩人が、敵に囲まれた離島で、糧食も尽きながら、日夜、死闘を続けていたのだ。
公私を超えて、人間としての感動が、電流のように板倉少佐の身体を走った。目に見えない一本の糸が、運命の絆としてつながっていた。
ブイン輸送はどんなことがあっても、成功させなければならないと板倉少佐は思った。