陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

728.野村吉三郎海軍大将(28)「野村はイギリスの急行列車を止めた」と妙なことで感心された

2020年03月06日 | 野村吉三郎海軍大将
 今度(一九六〇年七月)アメリカ民主党の大統領候補に選ばれた四十三歳のケネディー氏は、受諾の大会演説において「現下の国際環境でアメリカは新しい国境精神、即ちアメリカ開拓当時の勇気ある精神にフレッシュさを加えたものが必要である」と説き、また「今日アメリカ国民は倫安をむさぼって明日の衰亡を撰ぶか、或いは真情勢に対応する新国境精神(new frontier spirit)により明日一層の繁栄発展の道を撰ぶか、これを大統領選挙で国民に問う」といって居るが、私はこれに関連して所感の一書を送っておいた。

 明治・大正期の日本には伊藤公、原敬氏のような傑出した信念の政治家が在ったが、鈴木貫太郎氏もまた閣僚中に二人の自決者を出しながらも、よく踏み切って終戦の大事を果たした。

 あの際、僅かの時機を失したならば少なくとも今日、北海道は北方よりの侵入で失われていたであろう。政治家の大所高所よりの達観は何時の時代にも国家民族のために最も要請されるところである。

 話が大分脇道にそれたが、これも老輩の一片の至情として許されたい。

 さて、話を講和会議へ戻すが、私は本省にベルサイユの情況を急ぎ報告するため一足先に帰朝を命じられたので、イギリスのサウザンプトンからカナダのハリフハックスに向かうイギリスの軍用船「オリンピック号」(三万数千屯)に便乗することになったが、この時一場のコント的失敗を演じたのを伝えておこう。

 出発の当日、ロンドンで駐在武官の塩沢幸一君(後・大将)と昼食を一緒に摂り、そこで別れ単身急行列車でサウザンブトンに向かった、ところが昼食の時、少々ワインをやっていたので眠気を催し、いい気持でウトウトしているうちに汽車がガタンと止まったので眼が覚め、新聞を買う気になりプラットフォームに降りて二、三の新聞を買い求め再び車中の人となった。

 汽車は間も無くその駅を辷り出たが、駅を離れ暫くして新聞から眼を放し、ふと窓外を見ると港に「オリンピック」号の巨体が横たわっているではないか「おや」と思ったが車中には私一人である。

 而もその客車は昔、日本の田舎の軽便鉄道などでも見受けた真ん中に通路がなく、座席は一つ一つ横からドアを開けて出入りするようになっている、頗る不便なものであったから、走って次の客車へ行き聞き合わせることも、車掌の許へ行くことも出来ないのである。

 「しまった!」と思ったがもう間に合わない。次の急行停車駅まで待っていたのでは「オリンピック」号の出帆に遅れるので、非停車駅に差し掛かった時、列車に取り付けてある非常用のベルの紐を力一杯に引っ張ったら列車は直ぐに止まったので、慌てて下車すると車掌が飛んで来た。

 かくかくの次第と事情を訴え、不法に非常ベルを鳴らした場合の罰金は五パウンドであるが、私は決して不法にベルを鳴らしたのではないことを釈明して、二パウンドを渡すと車掌は別に苦情もいわずに受け取った。

 こんなところは一見鹿爪らしいがイギリス人の融通の利く一面でもある。下車した非停車駅の駅長が同情して便宜を取り計ってくれ、折から来合わせた反対方面行の列車に飛び乗ってサウザンブトン港に駆け付けた時、もはや出帆時間は過ぎていたが、何しろ四、五千の兵隊が乗り込むため手間取り出帆が遅れていたので慌てて辷り込み、最後の乗客と成ることが出来てホッとした次第である。

 危うく大事な使命に支障をきたす危機一髪の場面であった。後々までこの事件は友人の間に語り伝えられ「野村はイギリスの急行列車を止めた」と妙なことで感心されたり、ひやかされたりして評判となったものである。

 飛んだ失敗の果てに乗り込んだ「オリンピック」号に満載されたカナダ兵の中に、アメリカ国籍の兵隊が数百人もいたので、「何故カナダ兵となったのか」と聞くと「アメリカの参戦が遅いので、それを待っていて欧州戦争参加のチャンスを失っては大変だから、カナダ兵を志願してやって来たのだ、お陰でヨーロッパも見物出来たし、戦争にも加わって働くことが出来て愉快だった」と至極呑気なことを言っていた。

 こういうところにもアメリカ人の気質が窺えるのである。

 以上が、野村吉三郎が、パリ講和会議の光景と、三大国巨頭について、自身が見聞した回想である。

 ヨーロッパを離れた野村吉三郎大佐は、カナダを経て大正八年七月二十四日、サンフランシスコ出帆の東洋汽船「ペルシャ丸」に乗り換え、八月十日早朝、横浜港に無事帰着した。