新米ペアレントの営業日誌・営業中

2005年3月1日に秋田県大仙市にオープンした大曲ユースホステルのペアレント(経営者)が日々の出来事を送ります。

胆沢城を見学に ①概要

2024-10-25 22:51:31 | 秋田古代史

本日はお客様も切れたタイミングだったので、思い切って奥羽山脈の東側、奈良時代に胆沢城があった地域の見学ツアーとなりました。横手から国道107号を通り、錦秋湖にかかる仮設橋を観ながら昼過ぎに胆沢城跡に隣接する奥州市埋蔵文化財センターに到着。

見学後、胆沢城(柵)跡をウロウロ。北側の胆沢八幡神宮まで足を延ばしたものの、一般のお客様にお勧めするには少し難しいかなと。城跡は一部復元して公園となっているものの、大半がすでに埋め戻されて、田畑や荒れ地となっており、当時の形跡がありませんでした。

次に埋蔵文化財センターにあった地図に載っていた古戦場後の巣伏公園を経由して奥州市の西側にある北限の前方後円墳、角塚古墳に。道の反対側に古墳公園があり、駐車場完備。サクっと見て、帰路につこうと思いましたが、せっかく奥州市まで来たのだからと、奥州市の北にある鳥海柵も見ておこうと逆戻り気味に北上。鳥海柵は学校の校庭のような場所にあり、案内看板は別な所との案内。

ほかにも小さな柵跡があるような地図がありましたが、たぶん行っても白い標柱程度があればいい方と思われたので、日没も迫っていたので、ここまでで帰路に。来た錦秋湖経由では芸がないと思い、奥州市を再び南下し、胆沢ダム脇を通る国道397号で東成瀬村に抜けるルートを選択。ダム手前で日没を迎え、徳水園の円筒分水工や胆沢ダムなどの写真も撮れず、その先の峠道はちょうど紅葉がきれいだったようですが、真っ暗な中動物の飛び出し注意状態で戻ってきました。

戻ってからニュースを見たら、本日大谷選手がメジャーリーグ優勝を決めたとのことで、街ではパブリック・ビューイングが行われていたとのこと。そちらによるべきだった?

さて、それぞれの詳細は、後日改めて。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

歴史のお勉強は鹿角市史から大館市史へ

2024-09-25 23:38:43 | 秋田古代史

初夏以来、歴史のお勉強を空いた時間に進め、横手市史から秋田県史と読み進めてきました。いろいろ見てみると、当然のことながら、書かれた自治体史史料はその地域の事が重点的に書かれています。このため、秋田県南の話はある程度わかってきたものの、県北の古代史はどう書かれているのか?という疑問が湧いてきたので、鹿角市史を夏以降読んでいました。

以前秋田の鉱山を勉強したときに、鹿角地域は現在秋田県になっていますが、江戸時代は津軽藩であったり、南部藩であったりして、その時代の話はそれぞれの藩の書物を見る必要がありました。さらにその前、古代には早くから秋田県南までは律令政府の支配地となっていましたが、秋田県北は鎌倉時代頃まで「蝦夷の土地」として歴史の外に置かれていたようです。

このため、文献を元に書かれた秋田県史でも、ほんのサラッと書かれた程度でしたので、鹿角市史を紐解くことになりました。それでもやはり秋田県史と同様で、ボンヤリとしたイメージしか得ることができないようでした。

地元の郷土史に詳しい方を中心に編纂される自治体史ですので、当然といえば当然ですが、例えば由利12頭と呼ばれる戦国時代の由利郡の話や、男鹿半島を中心とした中世の安東氏の話を詳しく知ろうとすれば、その地域の自治体史をまずは読んでみる必要があるようで、まだまだ目を通さないといけないものが出て着そうです。とりあえず、鹿角がボンヤリなら、隣の大館はどうだろうと、大館市史に着手しました。蝦夷系の古文書というのが残っていればいいのでしょうがね。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

藤木村に後三年役の沼柵があった?

2024-08-04 23:02:35 | 秋田古代史

秋田県史のお勉強は順調に進み、平安後期になってきました。この時期秋田では、清原氏の内輪もめ(?)とも言われた後三年の役がありました。以前読んでいた、平成になって書かれた横手市史では、大体今言われた説が書かれ、沼柵は横手市雄物川町に、金沢柵は横手市/美郷町にあったとされています。

でも昭和50年代に書かれた秋田県史では、金沢柵は同じ場所に比定されているものの、沼柵はまだその当時定まっていなかったようで2か所の候補地が書かれ、その一つは現在の比定地である雄物川町ですが、もう一つの候補として当YHのある藤木村の現四十二館跡ではという説が並べて書かれていたのには驚きました。

確かにロケーションとしては、雄物川から離れておらず、平地で周辺には湿地帯(現田畑)が広がり、金沢柵までの距離も10キロほど(雄物川町は17キロ)とそんなに変わらない距離と、条件は似通っているようです。

四十二館跡の詳しい勉強はまだほとんどしていないので確かなことはわかりませんが、その後昭和50年代後半に四十二館跡の発掘調査が行われたようで、たぶんその際の出土品などから、時代が異なることがわかり、沼柵の比定地から外されて、現在のように沼柵=雄物川町となったと思われます。やはり古い文献も書かれた時代が大切で、また読み比べてみると、面白い発見があるものです。

のち

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

写経の気分?

2024-07-23 23:41:36 | 秋田古代史

月初から横手市史や秋田県史をパソコンでデジタルデータとして保存する作業を続けています。来られたお客様にそれをお話しすると、そんな面倒なことをせずとも、PDFファイルから文字データを読み込むソフトがあるし、コピーしたものならスキャナーで読み込むことも可能だし、それらのソフトも比較的安価で入手ができるのに、と度々云われています。

確かに作業を行っていると、無駄な努力?と感じる時もあります。でも、古い人間としては、「勉強は書いて覚える」という習慣が身についていて、読むだけだとサラッと終わってしまい、記憶に残ることも少なくなります。

またこれからの夏休みの時期、一年で貴重な繁忙期ですので、多くのお客様にご利用頂けると思いますが、その分、「待つ時間」が多くなり、その際この打ち込み作業ならいつでも中断、再開が可能で短時間でも作業することができて、ちょうどいい時間つぶしにもなります。

さらに、頭の整理をするという意味で、打ち込んでいる時にはあまり物事を考えず、「打ち込みマシーン」になれるため、気分転換にもなります。これは古くからある「写経」と同じ効果なのかもしれません。ただ写経は行っている際は、念仏を唱えているのと同じとか、唱えながらということのようですので、そういう高貴な作業とは少し違いそうです。

ネタはまだたっぷりありますので、夏休み一杯、暇つぶしにはもってこいで、お金もかからないのが一番いいかと。

のち

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

移動する「陸奥」の国

2024-07-20 23:36:57 | 秋田古代史

先日来読んでいる秋田県史では、陸奥(国)という地域が度々出てきます。今の時代では陸奥といえば、およそ青森県を指す場合が多いようです。でも秋田県史で古く奈良~平安時代では、「陸奥」はほぼ宮城県仙台周辺を指しています。平安後期~鎌倉時代になると、「陸奥」は奥六郡(胆沢、江刺、和賀、稗貫、志波、岩手)を含む宮城・岩手県を指すようになったようです。

青森県が陸奥と呼ばれるようになるのは、平泉討伐後、鎌倉幕府が武士団を送り込んで日本の内地化を明確に進めた鎌倉時代以降のこと。関東では、住んでいた埼玉県は昔から武蔵(国)と呼ばれ、境界が動くことは多少あったでしょうが、おおむね場所と名前が変わらなかったようですので、地名が時代によって変わるというのはとても違和感を感じました。

陸奥を「みちのく」と読み替えれば、古くからみちのくは白河関を越えると、と言われていたようですので、東北全体を指すことになりますから、広義の意味では外れていないようですが、狭義には東北太平洋側を指しています。

日本海側は古くから「出羽」と呼ばれ、奈良時代には主に山形県を指しており、奈良時代の蝦夷征討軍の派遣とその後の建郡で、奈良時代後半には秋田市あたりまでが「出羽」と呼ばれるようになったようです。現在でも「出羽」は山形県と秋田県で使われており、こちらはその時代の呼称を踏襲しているようです。

時々

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

再び大曲図書館に

2024-07-18 23:29:25 | 秋田古代史

本日、関東や東海地方で梅雨明けとのこと。こちら大曲は気温は30℃歩かないかと関東から比べると涼しそうにも見えますが、湿度が連日80%を超え、気温以上に暑さがこたえます。

今日は買い出しのついでに、再び大曲図書館に。月初に見た本もかなり「読書」が進んで次が必要になってきたことと、来週から学生が夏休みになり、図書館が夏休みの間混むであろうことから、その前に史料の調達となりました。

前回見た秋田県史と横手市史のその先の部分と、今回は鹿角市史を見てみました。自治体史は、その地域を中心に書かれており、秋田県南の歴史は横手市史である程度分かるものの、県北となると横手市史ではあまり詳しくは書かれていませんし、県北の自治体がどういう感じで歴史を語るのか知りたかったことと、特に鹿角地域は「秋田県」に入ったのは明治維新後で、それまでは南部(盛岡)領だったため、秋田県とは少し違う歴史を持っているためです。

ざっと目を通しただけですが、やはり県北地域は平安から鎌倉時代に日本の「内地化」されたとのことで、鎌倉時代以前は特に中央政府の史料にほとんど記述が残されていないので、こうしたものを参考に書かれている自治体史では、かなりあっさりとなっているようです。

のち時々一時

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

次は秋田県史を

2024-07-15 23:09:16 | 秋田古代史

本日3連休最終日で、結果的にこの3連休は普通の週末状態。というわけで時間はたっぷりありましたので、昨日までの横手市史のお勉強は、中世に入り、その先はまだコピーを取っていなかったので、次は同じ時に写しを取ってきた秋田県史でまたヤマト王権時代に遡りとなりました。

横手市史を最初に読み始めたのは、出版が平成20年(2008)と比較的新しいものだったためで、次の秋田県史は昭和52年(1977)と出版されて45年ほどたち、その時代の最新情報で書かれたものですが、時と共に研究や発掘がいろいろ進んで、当時の説が今では異なる解釈になったりするケースも出ているようです。とはいえ、横手市史だけでお勉強すると、偏った知識になる可能性もあり、幾つかのものを見て、どれが共通した「常識」で、どれが独自の「見解」なのかを知る必要もあります。

今の出版物は、ほぼすべてがパソコンなどのデジタルツールで作られたものですが、県史の出版された時代はまだアナログ時代。「あった」が「あつた」と写植されていたり、古い言い回しが多く、昨今では使わないような漢字が使われていたりと、打ち込みも一苦労。さらに古い文献をそのまま引用するケースも多く、漢字を探すだけでも大変です。

そのため、打ち込んでいる間に書いてあることや横手市史と比べたりと、頭を巡らすまで行き届かず、ひたすら打ち込みに専念するような状態になっています。新旧の本を比較するのは、ある程度作業が進んだ後に、別枠で行う必要がありそうです。やはり今回形にできるのは、来春位までかかってしまいそうです。それでも1000年を超える時間を知ろうというのですから、半年ぐらいでは乱暴な話とも云えそうです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

横手市史は古代から中世に

2024-07-14 23:07:48 | 秋田古代史

先日から読んで(打ち込んで)いる横手市史はページが進み、古代から中世に入ってきました。学生時代に授業などで勉強した時には、古代と中世の時代の区分なんて言うことは学んだ記憶がありませんし、区別する必要もそう感じませんでした。

調べてみると、武家社会の到来=鎌倉幕府成立というのが大雑把な考えのようですが、厳密には後白河上皇の院政開始(1087年)という政治史的区分や、武士の力が増すことになった保元の乱(1156年)とする考え方がその界隈では一般的になっているようです。

今回市史を読むにあたり、古代から中世へ移り変わるのは、大きな切り替わりポイントで、章が代わるだけでなく、どうも編者も変わっているようでした。古代編では考古学をやられている方が書いていたようで、先日も書きましたが、遺跡や出土品から状況判断をするために、細かい分析などの記述が多く、パスする局面も多くなってしまいました。

中世になると、古い文献も残り始めて、そうしたものの引用だけでなく、文章の感じが学校の先生が授業をしているような口語体になる場面が多く見られることや、編者の主観的な考えが前面に出ているところも見受けられるようになった気がしました。書く文章は内容は当然重要なことですが、それをどう表現するかということも、「読ませる」ためには大切な要素のひとつだと云うことを痛感しています。

のち

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

秋田県民のご先祖様は?

2024-07-12 23:04:38 | 秋田古代史

引き続き、横手市史を読むことで秋田県の歴史のお勉強中です。弥生/古墳時代から始まり、ようやく10世紀まで来ました。この間は古代の秋田県の歴史。学校で勉強した歴史の時間には、坂上田村麻呂が出てくるぐらいで、ほとんど日本史の教科書には書かれていません。

今回の歴史のお勉強では、今の秋田県民の御先祖様はいつ、どうやって秋田に住むようになったのか?というのがお勉強の目的。お勉強を始める前は、元々秋田にいた、とぼんやり思っていましたが、古代をお勉強すると、いろいろなタイミングで関東や信州、新潟辺りから移住してきた(させられてきた)ということを知りました。

古墳時代、ヤマト王権の勢力は、支配地としては富山-福島ライン辺りまでで、宮城や山形にも古墳は残っていますが、6-7世紀と築造時期が遅かったり、支配と云うより友好種族として文化交流があった結果と、近年ではされているようです。

その後、北や東に勢力を伸ばすために、新潟(渟足柵=垂沼)や(宮城)郡山柵(仙台)と云った先端地に砦を作って支配力を高めるとともに、関東などから移民(柵戸)を送り込んで人を増やすことで、「郡」という行政区域を確立すると云う方法を取ったようです。この政策は、大化改新(645年)以降成立した律令政府の東北経営の重要な政策とされ、10世紀まで、北は秋田県(秋田城)や岩手県(志波城)まで続きました。

また律令政府に服属した現地原住民(蝦夷・えみし)には、宴会でもてなしたり、朝廷から位爵や名前を与えたりという「飴」と、ごく属しなかった蝦夷に対しては、安倍比羅夫や坂上田村麻呂、文室綿麻呂といった鎮守府将軍たちによる征伐軍の派兵といった力による「ムチ」を振るったとのこと。文室綿麻呂という名前は、市史では「坂上田村麻呂に次ぐ有名な」と書かれていましたが、不勉強だったせいか、初耳でした。こうした征伐軍で兵士が送られ来た中にも、後に土着した、なんていう人も多くいたことと思います。

さらに、縄文時代から交易が行われていたということですが、この時代でも東北(から北海道)の物産は、京都などでは貴重品で、多くの商人が入っていたことも考えれます。東北が名馬の産地になったのも、7-8世紀からとの見方もあるようです。

一方で、律令政府による支配やいろいろな賦役、徴税などに不満が溜まり、度々叛乱がおきていたのも歴史の事実で、多賀城から胆沢あたりで活躍した阿弖流為(アテルイ)を典型として、その姿が勇猛果敢だったこともあり、この後の時代でどうしても現地原住民が野蛮人的にみられることになったようです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

雨の週なので引きこもりかな?

2024-07-08 23:50:04 | 秋田古代史

今月に入って、雨の日が続き、今週はほぼ雨の予報になっていますので、外作業も厳しそうですし、すでに梅雨本番状態ですので、想定の範囲内。このために先週、図書館でお勉強のネタを集めてきました。

空いた時間にポチポチと入力作業。打ち込みしながら文章を読むことで、かなりじっくり読む形になっています。古い人間ですので、昔の勉強法は書いて覚える、というのが体に染みついているようで、書く代わりの打ち込み作業となっています。それでも数年前に鉱山のお勉強をした際、調子に乗って本2冊ほど打ち込みを行ったところ、指が腱鞘炎になってしまいました。それから老化も進み、集中力が続かなくなってきていることもあるので、今回はゆっくり作業する予定です。

市史を読むと云っても、古代、今回は弥生時代の後半、ヤマト王権あたりからスタートしていますが、どうしてもこれらの時代については、文献として残されているものが極めて少なく、学者の先生が市史を書く際にも、客観的証拠として遺跡からの出土品から推測するケースが多いようです。そのため市史でも出土品についての話や、遺跡自体の調査報告的なものが散見されますが、そこまでの細かい話は今のところあまり必要がなさそうですので、打ち込みの際に、ついつい省略となりますので、思ったよりも速いペースで進んでいます。

ただ、学者の先生の文章ですし、客観的証拠が少ない場合は、文章が回りくどいことも多く、イライラすることもあったりします。

のち

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする