新米ペアレントの営業日誌・営業中

2005年3月1日に秋田県大仙市にオープンした大曲ユースホステルのペアレント(経営者)が日々の出来事を送ります。

久々の「石マニア」

2023-12-17 23:35:20 | 鉱山

当YHには鉄道や城、ダムに温泉など、いろいろなこだわりを持つ方が多く来られますが、先日のお客様は、恐る恐る探りを入れると、数年に一人と当YHでも少数派の「石マニア」とのこと。

ということで、マンツーマン状態で、夕食後2時間たっぷり石(鉱山)の話となりました。他のお客様が居たら、異様な会話だったことでしょう。現在秋田県立博物館で開催されている「大こうぶつ博(23/11/23-24/4/7)」もご存じで、数日後に行くとのことですし、食堂に置いてある釜石の「餅鉄※」も実際に探しに出かけたとのことで、さすがマニアだけによくご存じでした。

※餅鉄(べいてつ、もちてつ)は、河川に流されて磨耗し、円礫状になった磁鉄鉱(Fe3O4)のこと。場所によってはベエ鉄ともベン鉄とも、また「まぐろ」や「ばふんてつ」とも呼ばれる。かつてたたら製鉄などの古代製鉄において、砂鉄と並ぶ重要な原料として盛んに採集、利用され、日本刀の材料にもなる。成分は60 %以上が酸化鉄で、砂鉄より不純物が少なく鉄にしやすいといわれ、産地としては岩手県釜石市が有名。(wikipediaより)

過去には、玄翁(げんのう・金槌の一種)を持参して、明日河川敷を歩くと云う強者も来られたことがありました。石マニアでも宝石やネットで鉱石を買ったりする方は、今まで名乗られた方はいませんでしたが、来られてもお話しするネタは非常に少なく、困りそうです。

ちなみになぜ当YHをご利用頂いたのかを訪ねたら、ブログで鉱山の話が多くあったので興味本位で、とのこと。こちらは石の勉強はまだまだですので、もっと勉強する必要があると痛感しました。(写真は過去撮影のもので参考資料です)

のち

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

岩手県宮古まで遠征② 田老鉱山/田老鉱山資料室(田老公民館)

2023-07-13 23:20:20 | 鉱山

昨日の田老鉱山を観ようして、田老町の道の駅で情報を集めようと立ち寄ったら、そこにいた方から、公民館に資料室があり、行けば見せてくれるとのことで、道の駅そばの公民館に。教室一つ分ほどに、田老鉱山の鉱石やら、関係書面やらがひっそりと展示してありました。

田老鉱山は田老町の北、国道から山側に入ったところにあった鉱山。他の鉱山には珍しく、現場に自前の製錬所を持たない「売鉱鉱山」として誕生し、宮古精錬所が出来るまでは、当時の日本領だった朝鮮の製錬所にに鉱石を売っていたとのこと。

当初、入口から少しの沈殿池だけ見ようと思ったのですが、沈殿池が少し埋め立てられていたことと、未舗装道路ですが、道幅が広く、行ける?と思ったことで、鉱山跡地まで進むことにしました。15分ほど激しいでこぼこ道を進むと、鉱山跡地に到着。

立入禁止のため、敷地内には入れませんが、好きな人には堪らない状態。精鉱場の屋根は崩れ落ちていましたが、沈殿槽などが残り、跡地手前には鉱山住宅もそのままで草木に埋もれていました。

そっち側でない人には、何が面白いの?というところだと云うことがよくわかりました^^;

++++++++++++++++++++++++++++++++++

田老鉱山

発見の時期は不明だが、安政年間(1860頃)に後の易断者、高島嘉右衛門が十数年間、鉄鉱石を採掘したと伝わり、高島坑として名が残ったという。その後放置状態であったが、大正8年(1919)にラサ島燐鉱㈱(のちのラサ工業㈱)が化学肥料の原料として硫化鉄鉱採掘を目的に買収。

本格的な採掘が始まったのは昭和8年(1933)からで、探鉱により含亜鉛硫化鉄鉱の大鉱床を発見。翌11年には選鉱場や第一工場(銅・硫化鉄の選鉱)の操業を開始。同時に宮古~田老(元山)13.5km間に索道を設置し、宮古・鍬ケ崎に貯鉱場を設置した。

当初は採掘された鉱石は、宮古港駅隣接の鍬ヶ崎(くわがさき)貯鉱場に索道で運ばれ、当時日本統治下だった朝鮮の長項製錬所などに海路で送られたが、昭和13年に宮古製錬所を建設して、銅製錬と硫酸製造を開始。

鉱山では、探鉱の成果で昭和13年に亜鉛鉱床、15年には黄鉄鉱の大鉱床を発見し、最初の最盛期を迎え、この頃には4,000人もの人口を有する大きな鉱山集落が出来、従業員用宿舎のほか学校や郵便局、診療所や商店なども出来た。

昭和19年に重要鉱物非常増産特別指定鉱山に指定され大増産が計られたが、昭和20年4月に軍需省の命令で一時休山となり、同年8月には空襲で銅製錬所は使用不能となった。

終戦後は翌21年からは鉱山が再開。戦後復興の需要で大盛況となる。さらに昭和25年(1950)からの朝鮮戦争特需で第二工場(銅・鉛・亜鉛・硫化鉄の選鉱場)も操業開始。朝鮮戦争停戦の昭和28年には企業整備で大幅に従業員を削減し、第二工場を休止したが、30年には再開。

昭和35年(1960)には鉛、亜鉛を多く含む新鉱床(本坑鉱床)を発見し、鉛・亜鉛の比重選鉱を導入し、生産を拡大した矢先の36年5月、三陸(フェーン)大火災で鉱山の地上施設と社宅400戸を焼失。突貫工事で復旧させ、年末には新選鉱場を操業。この頃が2度目のピークで、鉱山集落には2,000人もの人が暮らしていた。

昭和40年(1965)にも新鉱床が発見され、44年には鉱滓用沈殿ダムの完成を見たが、品位低下に加え、貿易自由化による輸入鉱石の増大とそれに伴う市況悪化により昭和46年(1971)に休山、48年に鉱区は廃棄された。

鉱山施設は昭和49年に東京の明星大学に研究施設(明星大学田老キャンパス)として譲渡され、宇宙線観測施設となったが、既に廃墟状態。従業員宿舎や選鉱場の一部は残されている。また閉山後もラサ工業により排水処理が続けられている。

時々

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

岩手県宮古まで遠征① ラサの煙突・鍬ケ崎貯鉱場跡

2023-07-12 23:04:55 | 鉱山

本日は少し時間に余裕が出来たし、金曜から連休のお客様が始まりますので、思い切って太平洋を見に宮古まで遠征。こちらも数年前から是非にと考えていたのですが、なかなかチャンスがありませんでした。最初の目的は、地元では「ラサの煙突」と呼ばれ、街のランドマークとなっている旧宮古製錬所跡地。

かつてこの大煙突は、高さ160m、直径は10mの巨大なもので、当時国内2位の高さがあり、その下には宮古製錬所があって、田老鉱山の鉱石を鉄索(ゴンドラリフト)で運んでいたとのこと。製錬所はすでに撤去され、一部は体育館になっており、煙突だけ残っている状態。いつ撤去されてもおかしくないので、是非見てみたいと思っていまいた。煙突の下には、当時製錬所を所有していたラサ工業の事業所が残っていました。街に住んでいる方には、普通の光景になっているのでしょうが、遠く離れた人間にとっては、あこがれでもありました。

湊にある道の駅近くには、架空鉄索の終点駅であった鍬ケ崎貯鉱場があり、現在でも崖沿いにコンクリート製の施設の一部が残っています。せっかく宮古まで来たので、その現場も見てきました。

++++++++++++++++++++++++

宮古製錬所

宮古製錬所は、宮古市の閉伊川河口近くに建てられた田老鉱山の銅製錬所。本来、製錬所は山元に付属施設として設置されることが多いが、鉱山を経営していたラサ工業㈱の当時社長が宮古市沿岸部に総合工業都市を構想しており、既に元山と宮古間で鉄索輸送が行われていたこと、物流などを勘案した結果、鉱山から離れた場所に昭和13年(1938)に製錬所が設置された。

これにより以前は朝鮮の長項製錬所まで鉱石を搬送していたが、ここで処理ができるようになったほか、銅製錬の副産物である金、銀の抽出や同じく副産物(廃棄物)の硫酸から、本来の目的であった燐酸肥料の生産を開始した。鉱石は田老鉱山から架空索道(鉄索)で鍬ヶ崎貯鉱場に運ばれ、そこから専用鉄道で当製錬所まで運び込まれた。また周辺の中小規模の鉱山からの買鉱もあった。

太平洋戦争時には最初は増産が計られたが、昭和20年4月に軍需省の命令で休止、人員を松代大本営建造に徴用された。終戦間際に8月に2度の空襲を受け、製錬所は大きな被害を受けた。

戦後は真っ先に硫酸工場を再建し、翌年からは鉱山も再開し、戦後復興の需要に加え、昭和25年から始まった朝鮮戦争特需により増産するが、その反動不況などもあり、多角化を図る。その過程で昭和37年には製錬所では、ビスマス、カドミウム、インジウム、テルル、アンチモンなどの生産プラントを増設。この頃が宮古製錬所の最盛期と云われている。

昭和46年に輸入鉱石の増大とそれに伴う市況悪化、鉱石の品位低下などで田老鉱山が休山したが、宮古製錬所はその後も国内外の買鉱製錬所として稼働が続いた。昭和54年(1979)に電気精錬部門が操業停止、翌55年肥料工場の人員削減とスリム化を図ったが、56年(1981)に宮古製錬所を合同資源㈱に譲渡、58年肥料工場をコープケミカル㈱に営業譲渡。そして平成2年には小山田用地を宮古市総合体育館用地として宮古市に譲渡、大正8年(1919)に始まった宮古でのラサ工業の歴史に終止符が打たれた。

現在、跡地の高台には製錬所の大煙突が残っており、「ラサの煙突」と呼ばれ宮古のランドマークとされている。建設当時、亜硫酸ガスなどの排気が公害問題になる恐れがあり、出来るだけ高い場所で放出というのが、当時の考え方であった。

のち

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

念願の細倉鉱山② 周辺散策

2023-07-04 23:13:46 | 鉱山

今回は下調べもほとんどなし、詳細地図もなしで来ましたので、街中の交差点近くの駐車場にあった観光マップを確認。看板近くにはかつて走っていた栗原電鉄の古い機関車と貨物、イベントで作られたと思われる駅(細倉マインパーク前駅)がありました。

駐車場にあったのは古い地図だったようで、現在稼働中の細倉金属鉱業㈱事業所の向かいに鉱山資料館があるとのことで、次に向かいましたが、廃墟でした。ついでに事業所の奥に見える煙突や崖沿いに残る古い施設をズームで撮影したり、事業所内の事務所と思われる建物も、少し時代を感じられるもののようでしたが、構内立入禁止で、外からこっそりパチリ。

観光坑道を出て、次に探したのが鉱山住宅団地。昔ながらの佇まいが残っているとのことで、かなり細い路地まで入って地域を探しましたが、目にするのは新しくなった住宅地ばかり。来る前のイメージは、古き良き昭和の鉱山住宅が残っていて見ても雰囲気を感じられると云ったものでしたが、これだけ探すのに苦労するとは思いませんでした。結局見つけることが出来ず。また古い鉱山の坑道跡なども見られず、戻って調べたら沈殿池も山を越えたところにありアクセス路もなし。

栗原電鉄に関しては、駅の跡地には新しい石柱が残されており、線路も至る所に残っていますので、そっち系統の方には楽しめそうでした。

自分一人で見に行く分にはイメージと違ったということで済むのですが、お客様にお話をするには、昨日の桧山地区と同様、まず自分の目で確かめる必要があるということを痛感しました。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

念願の細倉鉱山① 細倉マインパーク

2023-07-03 23:00:42 | 鉱山

来週にはぼちぼちお客様も始まることから、時間に余裕があるのは今週限り。ということで、先日は北に行ったので、今日は南に。以前から何度か計画しては挫折した宮城県にある細倉鉱山跡(マインパーク)に向かいました。(道中は別日にて紹介)

ということで、ついに鉱山跡を利用した細倉マインパーク。一時期はかなり観光に向き合い、家族や子供連れなどを集めるための施設も作ったようですが、一部廃墟、残りも土日限定営業とのこと。マインパーク自体はやっており、隣には新しくなった鉱山資料展示室がありました。

鉱山資料館には、採掘された石や使用していた道具類の展示のほか、鉱山の歴史などをかなり細かく紹介していました。ついつい全部見ていたら30分かかってしまいました。ジオラマ押しのようでしたが、むしろ今と昔の場所を重ねた地図や坑道がどの辺に広がっていたのかなどがわかるようなものがあればよかったと思いました。

マインパークのメイン、観光坑道は入館料500円。全長777mで所要時間40分とのこと。入口すぐからヒヤッとした空気になります。中には坑道技術や採掘技術の紹介や人形のデモンストレーションなども見られます。

一番目を引くところは奥にあるシュリンケージ採掘法で鉱脈に沿って掘った採掘現場。ただこれは尾去沢鉱山でも同様のものがあります。ここの坑道で一番変わっていると思ったところは、中に階段があること。多くの観光鉱山はフラットな作りにとどめているようです。ここでは2階層下まで降りる形で、立体感を味わえます。ただこのため最後にはビル3階分ほどの階段を一気に上がることになります。

観光坑道内には30分ほどいた計算。入口にあった所要時間40分より早かったですが、その間誰とも会うことはありませんでした。また出来れば途中にベンチなど座って休める場所があればよかったです。

+++++++++++++++++++++++

(細倉鉱山)

細倉鉱山の発見は口碑によれば平安初期の大同年間(806-809)と伝わるが、記録が残っているのは桃山時代の天正年間(1573-1592)、山師により採掘がおこなわれたとのこと。当初は銀山だったが、寛文年間になり北隣の大土森鉱山でも鉛の生産が始まった。当初鉛の需要は低かったが、寛文年間(1661-1673)あたりから新しい製錬方法の灰吹法が日本でも本格的に広まり、粗銅から金銀を改修する際に大量の鉛が必要となり、18世紀には仙台藩内で最も有力な鉛鉱山となった。

明治になり個人経営の鉱山として経営され、明治23年(1890)に細倉鉱山会社が設立され、前年には東北本線が一ノ関駅まで延伸され輸送力も増強、同28年には日本一の鉛生産高を記録した。ただ日清戦争後の市況悪化などと大雨による坑道水没などの事故もあり明治31年(1898)に細倉鉱山は解散。

翌年大株節であった高田慎蔵が鉱山を引き取り、高田鉱山と呼ばれるようになった。当初順調だったが明治34年(1901)の市場の暴落で休山。しかしこの頃から亜鉛の需要が拡大し、それまで需要がなかったために鉛鉱石に含まれる亜鉛は捨てられていたが、それが注目されて鉱山は再開。第一次大戦では弾丸の薬きょうに亜鉛が使用されていたため需要が拡大した。

第一次大戦後の不況と経営者の死去、火災の発生で共立鉱業㈱に経営権が映り、名称は細倉鉱山に戻された。回収率改善のための投資を行うも、昭和恐慌による市況悪化で6年で経営権は三菱鉱業㈱(現・三菱マテリアル)に移った。

三菱鉱業は発電所や浮遊選鉱場、精錬工場などの大規模投資を行い、国内有数の鉛・亜鉛鉱山となった。第二次大戦中も稼働したことから昭和20年8月10日には米軍機による空爆を受けた。

戦後、物資・人手不足に加え、組合結成などで稼働が進まず、更に水害、台風被害などで厳しい状況が続いたが、朝鮮戦争の特需で生産力が回復し、栗原鉄道も電化された。多くの鉱山が鉱石枯渇などにより廃業する中、細倉鉱山は昭和45年(1970)に過去最高の粗鉱産出量を記録した。

しかし、翌年のニクソンショックによる円高で経営環境が激変し、1972年には希望退職募集、さらに翌年には第一次オイルショックで市況価格が暴落。この結果足尾、別子、生野といった著名鉱山が閉山となる中、別会社化し三菱金属は経営を継続。1985年以降の円高で国内鉱山が閉山する中、細倉鉱山も1987年(昭和62)に閉山となった。

のち

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

コロナ一段落で大学図書館も一般開放再開に

2023-05-13 23:41:24 | 鉱山

週明けから新型コロナがインフルエンザと同様の5類になり、日常生活もコロナ以前に戻ろうとしています。そうなるとコロナ感染拡大で利用が制限されていた図書館などでもそれ以前と同様に使えるようになった模様。ということで、秋田大学附属図書館のサイトを見てみると、5/8より学生以外の外部一般人の利用が再開されていました。

4年前に鉱山のお勉強をしていた時、岩手、秋田と調べて、次は山形県の鉱山と思ってある程度調べたところで新型コロナが発生。見たい関係書籍を調べたら、秋田大学図書館と、山形県立図書館の2カ所しかなく、大学図書館に行きたかったのですが、その時には既に学外者は利用停止になっていて、お勉強はいったん中断となってしまいました。

本でお勉強するだけなら、時間や天気に関係ありませんので、今年の冬、雪で外出もできない時期にその本を見てじっくりやることが出来ます。ですので、本を借りてくるには秋にでも十分で、これからタイミングを見て、秋田大学に行くことを考えます。今年は県外外出も可能で、山形県にも足を向けようと思っていますので、その際には、4年前にお勉強した山形の鉱山の跡地にも出向いてみようかと考えています。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

釜石ツアー③ 橋野鉄鉱山(高炉)跡

2022-10-06 23:38:43 | 鉱山

鉄の歴史館を見た後、同じ道を変えるのは芸がないということで、海沿いを鵜住居(うのすまい)まで北上し、県道35号線を帰ることにしました。鵜住居は東日本大震災でも大きな被害があった地区。海沿いには大きな水門と堤防があり、街中には復興住宅なのか、新しいマンション的な建物がいくつかあり、大曲よりも高い建物が多かったような気がしました。

このルートを選んだ理由は、県道の途中、ちょうど釜石鉱山の北側にあたる場所に釜石製鉄所の基礎を作った橋野製錬所跡があり、数年前に「橋野鉄鉱山跡」として「明治日本の産業革命遺産群」の一つとしてユネスコの文化遺産に登録された場所があるためです。

入口にインフォメーションセンターがあるのですが、閉館4時半。他で時間を使い過ぎて、到着がギリギリ4時になってしまいました。ザっと中を見回しましたが、目新しいものはなさそうで、少し話を聞かせて頂いて、現地を視察。江戸末期にここで鉄鉱石を使った鉄精錬の基礎技術の開発が行われ、それが釜石製錬所や九州の八幡製錬所で生かされて、大規模に生産されたいわゆる日本の近代鉄鋼精錬の発祥の地とも云える場所。江戸末期までは古くから日本で使われた砂鉄を主材料にした「たたら製錬」が主力で、その遺跡は岩手県南部の栗木鉄山跡や大東町のたたら製鉄資料館、青森県八戸から久慈にかけての南部鉄器の生産地区などで見ることが出来ます。

高炉跡は3基あり、残っているのは基礎の土台石のみ。この上に炉がついて、フイゴ(空気送風装置)などもあったとのことですが、なかなか想像するのは難しいかも。エリアの奥には鉄鉱石を露天掘りした跡も残っているとのことですが、そちらは立入禁止エリアになっています。

ここの名称も鉄鉱山とするより高炉跡とした方がインパクトがあったのではと思い、センターの方に話したら、文化遺産登録の際に鉱山部分も入れるためには鉄鉱山んとする必要があったとのことで、大人の事情のようでした。

本日、鳥海山、岩手山で初冠雪となったそうです。また八幡平山頂近くの駐車場でも積雪が見られたとのこと。これから来られる方はお気を付けください。

一時

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

釜石ツアー② 釜石鉄の歴史館

2022-10-04 23:27:06 | 鉱山

鉱山跡を最初に見て、次に向かったのが海沿いにある釜石市立鉄の歴史館。白い観音様の近くにあることは以前通った時に見ていました。入館料500円、火休み。入ってすぐに映像を流すと係の方に云われましたが、時間的にパス。

展示は鉄の製錬やそれにかかわった人、技術のパネル展示と、当時の道具、文書などが中心で、興味ある人には非常に面白いものでしたが、一般の観光客には少しハードルが高いように感じました。特に当時の文書類は、余程知識があり、かつ古い文章に慣れている人でないと、見てもわからない状態なのかと。

釜石の鉄関係の場所を見る際に、取っつきづらいかもしれませんが、最初にここに来ることをお勧めします。ここもなじみのない話が多くありますが、現地は更になじみのないことが多く、時間の経過とともに残骸も厳しくなってきていますので、それが元あった姿がどうだったのかなどは、ここで頭に入れてから行った方がよさそうです。

(歴史館前・少し違う鉄分補給)

のち

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

釜石ツアー① 釜石鉱山跡、旧釜石鉱山事務所

2022-10-03 23:35:15 | 鉱山

昨晩検討した結果、本日は朝から釜石を目指しました。湯田から北上までの国道107号が災害通行止めでまたも秋田自動車道がう回路扱いで無料となっており、また北上の先も田勢湖近くから釜石道がつながり、無料とのことでいい機会。当YHから約3時間で釜石の西にある道の駅釜石仙人峠に到着。

ここから戻る形でJR釜石線の陸中大橋駅が最初の目的地。この駅にはかつての鉄鉱石積み出し設備が残っているとのことでした。無人駅についてみると、ホームの向かい側と、北側に2カ所設備跡があり、またホームにも引込線があったと思われる場所も見られました。

続いては、線路沿いに北上する形で鉱山があった時代に各種施設があった跡地が続き、一番奥に旧鉱山事務所が残っていました。最近まで使われていたこともあり、外見は学校の校舎のような建物で、秋田県小坂町にある古い時代の雰囲気が残る鉱山事務所とは大違いで少しがっかり。入館料300円、火・水休み、12月~3月閉館。

入口付近は昭和の時代に実際に使われていた状態に復元、他に館内は各種鉱石や機械、装置などの展示から鉱山診療室の再現などもあり、ゆっくり1時間ほど見て廻ってしまいました。

この建物の奥には、巨大ダムのように見える堆積場の端。鉱山から鉱石を掘り出し、近くの選鉱場で有用な鉱石だけを取り出し、低品位なのやただの岩などは選鉱場からベルトコンベアで運ばれ、ここに積み上げられました。炭鉱などではボタ山として山積みされましたが、ここでは量が多いことと平地がないことから、谷を埋める形で堆積場が出来たとのこと。山を挟んで2つ見られ、左が中ノ沢堆積場、右が板塀沢堆積場。鉱山事務所前で車止めがありますが、歩いて近づくなら、ロープが張ってある前までは行ってもいいとのことでした。

堆積場を見て、戻る際に右手に見えるのが選鉱場跡。今は基礎のコンクリートだけになっていますが、20年前には建物も残っていたとのことで、もっと早く来たかったです。鉱山事務所の駐車場からも見えますが、更に先にも同様の跡があり、事務所内の資料によれば、鉱山事務所近くの選鉱場は1992年まで稼働していた銅鉱石の選鉱場跡。国道沿いに見える選鉱場跡は鉄鉱石の選鉱場跡とのことで、上部に白いガードレールが見えますが、かつてそこに坑道に続く軌道があったようです。まだ周辺の緑が濃く、少し時期的に早かったようでした。

この先国道が大きくU字になる処に、最後まで使われていた坑道が現在、地下水(仙人秘水)を採取して販売する工場となっているようですが、入口で立入禁止となっていましたので、戻ってきました。あとで事務所の方に聞いたら、過去には6月と9月に体験入坑が出来る見学会がありましたが、2020年にブラタモリのロケの後に軌道は撤去されて、現在は電動カートでの作業となってしまったとのこと。トロッコ電車で坑道に入ることはもうできず、ブラタモリの映像は貴重なものになってしまったと話していました。鉱山事務所前の駐車場の脇に、当時使用されていた車両機器が展示(?)してありました。

のち

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ブラタモリで恐山

2022-09-10 23:58:38 | 鉱山

本日の夜、NHKのブラタモリで恐山をやるとのことで、楽しみしていました。以前温泉巡りで行ったこともあるし、青森の鉱山をお勉強した時に、恐山が今のようになったのは戦後の昭和20年代以降で、それまでは硫黄鉱山で栄えていたとのことで、タモリなら硫黄鉱山の歴史などに触れるかと思っていました。Googleで「恐山鉱山」と検索頂ければ、当YHのブログがトップに出てきており、今回のブラタモリで恐山鉱山に話が広がれば、当YHのブログを多くの人に見てもらえるチャンスかと思っていました。

しかし、テレビを見ていたら、硫黄鉱山については一切触れず、辛うじて「いたこ」が始まったのが昭和30年代以降との話のみ。戦後の観光ブームに乗っかって恐山が霊場として人気が出て、その前は硫黄鉱山で現地には商店や遊郭まであったなどということは、恐山のイメージを崩してしまう恐れがあるため、話を広げてはならぬとのことだったのでしょう。

「恐山」は有名な霊場ですので、これだけで検索しても当YHのブログが出てこないのは悲しいことで、ニッチなことでコツコツと、です。それでも番組終了後、いつもよりも多めに検索エンジン経由でのアクセスがありました。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする