新米ペアレントの営業日誌・営業中

2005年3月1日に秋田県大仙市にオープンした大曲ユースホステルのペアレント(経営者)が日々の出来事を送ります。

歴史のお勉強は男鹿市史から六郷町史に

2025-01-22 22:58:13 | 秋田古代史

先日来、男鹿市史を読んでいましたが、思ったよりも安東氏の記述が少なかったため、戦国時代まで達しました。他の自治体史でも、関ケ原の戦い以降の近世にはまだ手を付けないことにしていますので、ここで男鹿市史はお休みとなり、次は先月調達してきた六郷町史に移ります。

男鹿だと、なかなか細かい地名までは把握できておらず、遠い場所の話のような感じでしたが、六郷町史では、近場の地名や話が多く出てくるようで、やはり親近感がわきます。六郷町史では、総論的な部分は期待していませんが、やはりメインに知りたいのが六郷氏(二階堂氏)のこと。

六郷の街の話をする際や、2月に行われる「かまくら行事」なども六郷氏に関連していると言いますし、いろいろとお客様に話していることの裏付けが取れるかと思います。また近場でも知らないこともまだまだありそうです。

ただ、やはりここでも史料が少ないということは大きな問題になりそうです。自治体史の編集者は、史実に基づいてでないと書けないというのが原則ですが、その点こちらは想像も交えて勝手なことを云うことも可能です。とはいえ極論を展開するのではなく、一般的に見ればそうとも云えそうだ、というところが落としどころ。

近く六郷の話ですので、町史に出て来て気になる場所があれば、雪の状況を見ながら買い出しのついでにでも訪ねてみようかと思います。

のち時々

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男鹿市史は平安後期に

2025-01-14 22:15:08 | 秋田古代史

今週から半年ぶりの「1週間のお休み状態」に入りましたが、雪の面倒を見ないといけないので、遠出もできません。そのため、先月から時間の空いた時に読み進めている男鹿市史も、読むペースが上がってきています。市史や県史といったいわゆる自治体史を書かれる方々は、主に古い書物から歴史をひも解くようです。そうした史料では、今の秋田県域について書かれたものが少なく、さらに男鹿市に限定すると特に古代(弥生~平安)については限られています。

他の地域の自治体史でも、その地域についての文献がない場合は、広く東北地方に関する全般的な歴史の話で時代の空白を埋めることが多いようですが、今回の男鹿市史も同様に、男鹿にはほとんど関係のない、前九年、後三年の役などで平安後期は終わっていました。前九年の役は、その後の平泉藤原氏が栄えた岩手県南部(当時の奥六郡)が中心ですし、後三年の役は、秋田県ではありますが、仙北、平鹿地域が主たる地域。

また今回の男鹿市史で困惑するのが、誰の意見を書いているのかが混在していてわかりにくくなっている点です。今回の男鹿市史では前秋田大学学長の新野直吉博士の考え方を元に書かれているところが多くあります。市史の中で、時々新野氏の意見なのか、古い文献にある文章なのか、それをうけた市史の編者の意見なのかがわかりにくい箇所が複数あるようです。

これから先、鎌倉時代になると、鎌倉幕府から男鹿半島にも地頭職の武士が派遣されてくることになりますし、「吾妻鏡」という鎌倉幕府の実績(?)を記録した古文書が存在することで、男鹿地域も少しは歴史的に賑やかになりそうで、楽しみです。(写真は本文とあまり関係ありません)

のちのち

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阿倍比羅夫の北征

2024-12-20 22:00:43 | 秋田古代史

このところ時間が空いたら、先日調達してきた男鹿市史を読み始めています。今回は弥生時代に該当する部分からスタートですが、弥生、古墳時代に該当する部分は文献的に、また考古学的にも確たる史料が出ていないので、市史ではサラッと扱われる感じになっていました。

男鹿の名前が歴史に最初に出てくるのが日本書紀。過去に読んだ秋田県史でもここは取り扱われていました。男鹿市史を読もうと思った理由の一つが、その部分がどれだけ細かく書かれているかを確認することでした。ちなみにもう一つ男鹿市史を読もうと思った理由は、鎌倉から室町、戦国時代にかけてこの地を中心に沿岸部を支配した安東氏の話ですが、これはもう少し時間が必要になります。

男鹿市史のこの部分の著者は、著者個人の見解を述べることより、他の研究者の考えをいくつか紹介して、阿倍比羅夫の北征についての見方を描こうとしています。多くの自治体史では、著者の考えを中心に書かれることが多いようで、気を付けないと偏った味方になってしまいがちです。悪口を言えば、今回の男鹿市史では著者は何も述べていない、とも言えますが、素人にとっては、いろいろな見方を知ることもでき、面白い取り組みとも言えそうです。

さて、阿倍比羅夫の北征とは、5世紀から6世紀に連合国家であったとみられるヤマト(大和)政権が推古天皇の御代(592-)になり、厩戸(うまやど)皇子(聖徳太子)や蘇我馬子らに政治改革を委ね、冠位12階の制(603)や憲法17条の制定(604)を行なったり、遣隋使派遣→隋滅亡(618)→遣唐使派遣、更に645年にはいわゆる大化改新で唐の制度を採り入れ、天皇を中心とする中央集権国家を目指し諸々の改革を進めた時代の事。

日本書紀によれば、『658年(斉明4年)に、越国司(越前・越後を合わせた場所の知事)であった阿倍比羅夫が船180隻で蝦夷と戦い、齶田(秋田)、渟代(能代)を攻めて、齶田浦の蝦夷酋長恩荷が服従を誓ったため、冠位(小乙上)を与え、渟代、津軽2郡の郡領(こうりのみやっこ、今でいう郡長官)に任命したとのこと。』

この日本書紀の文章は、専門家の間でもいろいろな解釈がなされており、素人が読んでも突っ込みどころ満載。「恩荷」がオガ/オンガと読めることから男鹿の名前の初見とされるが、「オニ」と読む説があったり、郡領任命権が一国司にあるはずない、などなど。

細かいことは専門家に任せるとして、この北征の意義として考えられるのが、一つは朝鮮半島との関係によるもの。4世紀以来ヤマト王権は朝鮮半島に傀儡ともいえる任那を有していたが、562年に新羅によって滅亡し、朝鮮半島での権益を失った。その穴埋めとして、東北地方の支配を目論んだ、というのが一番理解しやすいようです。別な見方の中には、比羅夫一行は交易をも目的としたというものもあるようです。当時蝦夷地からの毛皮などは都でもてはやされていたようですが、これが主たる目的となるなら、都の人々はどれだけ欲深かったと。

ちなみにヤマト王権やその前の伝説上の話も含めると、秋田を含む東北地方に征伐としてきたのは、これが3回目。最初は(伝説上の)景行天皇25年(西暦95年)の武内宿禰による北陸、東北の視察派遣で、この際に「日高見国あり」とした記述が日本書紀に残り、その後蝦夷征伐を進言したため、景行天皇の子の日本武尊(やまとたける)が東征で宮城県辺りまで来たという話があるが、存在自体も伝説との説もあり、明確に東北に兵を連れてきたのは阿倍比羅夫が最初となるようです。ちなみによく知られた坂上田村麻呂の蝦夷征伐は平安時代初期の801年と阿倍東征から140年ほど後の事。教科書では学ばなかった東北の歴史です。

時々一時

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10年に一度?/ 男鹿市史を

2024-12-10 22:16:55 | 秋田古代史

まだ今秋が始まったばかりですが、今度の週末には大雪の予報で、10年に一度の雪との話。この時期、1年で何度かある閑散期ですが、先生も走る師走ですし、都会の方は冬タイヤがない方もいることなどから、閑散期の中でもお客様が最も来ない時期になりますので、影響はほとんどなさそうですが、10年に一度とか、100年に一度という言葉が天喜予報で使われると、電話すらなくなります。

という時期ですので、今日は午前中に久しぶりに大曲図書館に出動。今回は男鹿、本荘、大曲の自治体史を探すことが目的です。いつもの郷土資料室を貸切状態で使わせていただき、まず男鹿市史はすぐに発見。必要なところをざっと目を通しました。次に大曲市史。当然すぐに見つかりましたが、歴史の流れを扱う通史編では、江戸時代からの近世からスタートで、その前の部分は見つかりませんでした。

せっかく来て男鹿市史だけというのは寂しかったので、大曲市史の近くにあった六郷町史をチェックして、必要な所だけサラッと目を通してみました。秋田県史などとちがって、原始から戦国時代あたりまでの歴史は、文献が少ないことなどもあり、市史/町史ではそんない詳しく書かれていませんので、1時間ほどの滞在で終了。そろそろ大曲の図書館では役不足になりそうですので、次の手段を考えましょう。

当面、ブログの更新やら帳簿の整理、年賀状の作成など年内に済ませる必要なことがありますので、歴史のお勉強はお休みして、今日見てきたことに手を付けるのは時間が出来る年明けになりそうな気配ですが、お客様が来ない雪対応の合間の時間にゆっくりやりましょう。

時々

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胆沢ツアー ⑦鳥海柵・平安末期(1050年頃)

2024-11-04 22:16:46 | 秋田古代史

先日の胆沢ツアーでは角塚古墳を見て、そのまま国道397号で東成瀬村に抜けようと思いましたが、日没まで少し時間があったことと、せっかく奥州市まで来て、一か所残すのはなんだし、次にいつ来られるかわからないので、国道4号まで戻る形で走り、奥州市と金ヶ崎町の境にある鳥海(とのみ)柵の見学をしました。

以前、温泉巡りで脇を通ることはありましたが、立ち寄るのは初めて。ここは「柵」となっていますが、大仙市にある払田柵やこの前に見た胆沢城(柵)といった奈良・平安時代に律令政府が蝦夷対策として構築した柵とは異なり、平安後期に奥六郡(概ね今の岩手県)を実質支配していた蝦夷の一族、安倍氏が作った北上川流域12柵の一つ。

国道4号から入ってすぐのところに門があり、その場所は学校でもあったかの開けた場所で駐車場もありました。あとで調べたら、繊維工場とやはり小学校があったとのこと。ただ、その痕跡はほとんど見られず、入り口近くに案内看板があるだけでした。これによると東北道の側道奥にもう一つ案内看板があるということなのでそちらに向かいました。側道に入ってすぐから車1台分あるかどうかの農道。案内看板近くに車を方向転換できる場所があるかどうか心配でした。案内看板近くに車1台分ほどのスペースがあり、切り返しOK。ここに車を止めて、先ほど見た広場から大きな谷の反対側、畑のあぜ道の奥に鳥海柵跡の看板がありました。本来ならここから胆沢城が見えるのでしょうが、木が邪魔になり見えず。

日没近かったので、これで鳥海柵の見学は終了となりました。ここも背景を知らないと何もない場所状態でした。

=安倍一族と前九年の戦い=

安倍氏が在地官人(国司が採用した現地役人)として、胆沢城を本拠地としていたため、すぐ近くにあった鳥海柵は安倍一族にとって重要拠点であったとみられます。この柵の主は安倍氏当主頼良(頼時)の三男、安倍宗任とされ、宗任は別名鳥海三郎と呼ばれていた。

先の胆沢城で書いた38年戦争の終結以降、律令政府の武力による蝦夷の制圧は、中央(京都)から派遣する部隊から、現地の勢力を利用することに方針転換され、蝦夷の中から在地官人になったりする「豪族」が現れるようになった。ここ奥六郡を本拠とした安倍氏と、仙北(秋田)を本拠とする清原氏であったという(諸説あり)。

安倍氏は奥六郡で一族による支配を強め、領地拡大(衣川方面)や徴税義務の不履行といった中央政府に反抗する態度を強めた。1050年(永承5)に陸奥国司だった藤原登任と鬼切部(現鳴子町鬼首か?)で戦いとなり、安倍氏が勝利した。

これを受けて中央政府は翌1051年陸奥守(国司)に源頼義が任じられ、一時は戦いが収まったものの、1056年(天喜4)、婚姻関係のもつれから阿久利川付近で戦いになった。安倍頼時(頼良)の反乱と断じた中央政府は源頼義に安倍氏追討の命を出し、調略や裏切りなどで鳥海柵で頼時戦死。子の安倍貞任は征討軍を黄海(岩手県一関市藤沢村)の戦いで破った。

これに対して政治的に孤立した源頼義は、仙北を本拠としていた地方豪族、清原氏に助けを求め、1062年(康平5)に清原氏による一万余りの援軍が出陣、小松柵から衣川関、鳥海柵、黒沢尻(北上市)柵と安倍氏の拠点を次々と攻め落とし、最後の拠点であった厨川(盛岡市)柵の陥落で貞任が戦死し、(前九年の)戦いが集結。

この戦いにより、源頼義、義家(頼義の子)が冠位を与えられ、清原武則も俘囚(蝦夷)の族長にもかかわらず冠位が授けられ、鎮守府将軍に任じられた。一方安倍宗任ほかの安倍氏生き残りは伊予や大宰府へ流刑となり、安倍氏滅亡に至った。

こうして前九年の戦いは、1051年源頼義の奥州赴任から1062年安倍氏滅亡の12年を指すが、前九年の役と呼ばれるのは、頼義の本格参戦(1053年の鎮守府将軍任命)から9年で終結となったことによる(諸説あり)。また安倍晋三元首相は、この安倍宗任が先祖として、墓参(福岡県宗像市大島)を行っている。

のち

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胆沢ツアー ⑥角塚古墳は最北の前方後円墳 古墳時代(475年頃?)

2024-11-02 22:07:08 | 秋田古代史

先日の胆沢ツアーでは、巣伏公園(古戦場)のあとは、奥州市の西に移動して、本州最北限の前方後円墳、角塚古墳に。市内から東成瀬に向かう国道397号の沿いにありました。国道の北側に古墳公園というのがあり、そこに古墳があるのかと思えば、古墳自体は国道の南側。それでも公園内に駐車場があり、池やハニワが置かれたスペースもありました。

パンフレットによると、5世紀後半(450-475年頃)に作られた、岩手県で唯一、本州最北限の前方後円墳として1985年(昭和60)に国指定史跡になったとのこと。全長13m、墳高4.3mで堀を廻らせ、円筒埴輪などで飾った典型的なものだとのこと。

古墳や埴輪自体にはあまり興味はありませんが、この古墳の存在意味には深い興味がわきます。ここに埋葬されていた人が誰で、どんな地位だったかなどは一切不明。周辺はのちの600年頃以降には「蝦夷」の領地としての中心地になった場所。ここにそれ以前、関西を中心としたヤマト王権に縁があるような人がいたことが、ここに前方後円墳があることで容易に想像されると。

ここより北にも古墳と呼ばれるものはいくつか残ってますが、北上にある江釣子古墳群などは、小さな石積みのもので、円墳や前方後円墳といった馴染みのある古墳とは大きく異なり、同じ文化圏の人が作ったとは考えにくいものでした。

蝦夷と中央政府との歴史では、古代初期には武力で従わせるより、対話に応じた蝦夷には、饗宴をも要したり、冠位を与えたりという友好的な関係が主だったという説もあるようですので、この角塚古墳の主もそうした関係の初期にあったのかもしれません。

またこの古墳のすぐ近くで発掘された古代遺跡では、大阪府で作られた(と見られる)須恵器や宮城県産の黒曜石、琥珀などが出土しており、この地域が南北物流の拠点だったという見方もあるようです。

そうした傍証として残された古墳ですが、ここも何も知らないで行くとあまり面白さは感じにくいかと思います。

時々

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胆沢ツアー ⑤巣伏公園・奈良時代(789年)

2024-10-30 22:22:15 | 秋田古代史

先日の胆沢ツアーで鎮守府八幡宮の次に訪れたのが、水沢地区の東、北上川の西岸にある巣伏公園。ここは38年戦争、789年(延暦8年)の第一次征討で律令政府と阿弖流為(アテルイ)が率いる蝦夷軍が戦い、政府軍の第一次征討での敗北が決定的になった闘いの古戦場とされる場所。

国道4号バイパスから車1台分の細い舗装された農道を北上川方面に向かった所に公園はありました。公園と云っても小高い丘に物見櫓(やぐら)に模した展望台がある程度の小さなもの。

櫓から東側の北上川で戦いが行われたようですが、そちら方面は櫓に上っても河川敷の木々で見ることができず、反対側の田んぼには少し前まで田んぼアートでもあって、9月末頃にはイベントも開かれたようです。その影響なのか、こんな小さな人もいないような公園でしたが、観光地によくある「顔はめ」パネルがあり、その絵は野球選手?どうも大谷翔平さんの地元ということなのでしょうか。

古戦場というところは、どこに行っても、こんな感じなのでしょうか。その時代のまま残っていることは、全国的に開発が行われている現代、ほとんどありえないでしょうし、あったとしても案内看板や白い標柱があればいい方で、このような公園の形を残しているのは、だいぶ「まし」なのでしょうが、何も知らないで来たら面白さを感じるのはかなり難しそうです。

時々

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胆沢ツアー ④鎮守府八幡宮・平安初期(801年)

2024-10-29 22:18:23 | 秋田古代史

先日の胆沢ツアーでは、胆沢城址(公園)を見学後、胆沢城の北東端に位置する鎮守府八幡宮に。道中、城址の形跡はないかとみていましたが、何もなし。農道のような細い道の先に八幡宮はありました。

説明看板によると、801年(延暦20)に坂上田村麻呂が崇敬勧請したとのこと。東北開拓の守護神として数代の天皇家より崇敬され、源頼義、頼家、奥州藤原氏等も領地を送ったり、源頼朝から、豊臣秀吉、伊達氏などの崇敬もあり、明治9年の天皇巡行の際にも立ち寄られたと、神社の縁起にはよくあることですが、この地に関係する有名人が多く羅列されていました。

境内は参道脇の敷石が整備されていて、規模も大きく立派なもので、当YHの集落にある八幡神社とは大きな違いでした。

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胆沢ツアー ③胆沢城址・平安初期(802年)

2024-10-28 22:12:26 | 秋田古代史

奥州市埋蔵文化財調査センターを見学後、隣接地にある胆沢城址を見学。現在は南にあったとされる多賀城から続く官道から分岐した幅12mの南大路と政庁を中心に配置された官衙(役所)を築地土塀と溝が方形に囲む一辺675mの広大な施設の内、外郭南門や外壁の一部が復元され、公園となっていました。

肝心の政庁のあったと思われる場所は埋め戻され、田畑や荒れ地になっており、見に行っても何もありませんでした。広大な城址のはずですが、見られる形として残されているのは、この外郭南門の周辺のごくわずかな場所だけですので、ついこの場所だけ見る形になりそうですが、ほんの一部だけで、当時広大な城であったという形跡はあまり感じられないかもしれません。

この胆沢城が作られたのは802年(延暦21)、平安遷都(794)が行われてすぐの頃。それまでは国府がおかれた多賀城(724年創建)が鎮守府も兼ねていたが、この地域で「38年戦争」と呼ばれる律令政府による蝦夷領地の侵略戦争の中で、阿弖流為(アテルイ)などの蝦夷の族長が本拠地としていたこの地で、軍事拠点として、また柵戸(関東などから移住させられた民)を住まわせて律令政府の領地とすべく築かれたもの。胆沢城の出現により、阿弖流為は投降したとも考えられている。

=律令国家の蝦夷征討=

この背景には、大化改新(645年)によって生まれた律令政府がそれまでの独立支配者的な国造制による地方支配から評(こおり)制による中央集権体制へ移行させることとしたことに端を発する。国造制での支配は日本海側は新潟(越国)まで、太平洋側では宮城県南部(道奥国)までで、その北の住民を一括して「蝦夷」と呼んでいた。この地域の支配を強化するための政策が「柵」の設置であった。

最初の柵は647年の淳足柵(新潟市)、648年の磐舟柵(村上市)であった。記録には残っていないが、近年の調査で同じ頃に太平洋側でも郡山柵(仙台市)が設置されたことが明らかになってきた。

更に支配地域の拡大のため、658年(斉明天皇4)には阿部比羅夫の北方遠征が行われたとみられる。こうした急速な変化は、一方で反発を招き、8世紀に入ると散発的に反乱がおきた。特に、720年(養老4)陸奥国の蝦夷が反乱を起こして都からの官吏らを殺害した。この際郡山柵に代わってできたのが多賀城(724創建)である。

ちなみに秋田市にある秋田(高清水)城跡は733年(天平5)に創設されたが、これは709年(和銅2)以前に造られた(第一次)出羽柵(城輪柵とも・酒田市)から領地を北上させたものと考えらており、第二次出羽柵とも呼ばれる。

多賀城創設後も足元を固めるために、牡鹿柵(737・東松島市?)、玉造柵(737)、新田柵(737)、色麻柵(737)などを築いた。多賀城を含めて天平五柵と呼ばれる。更に律令政府は領土拡大を進め、太平洋沿岸では桃生城(759・石巻)を、北上川沿いでは伊治城(767・栗原市)を創設。

積極的な領地拡大に蝦夷との摩擦が大きくなり、774年(宝亀5)に桃生城が襲撃された。これが38年戦争の始まりで、反撃を計画したものの俘囚(律令側に従う蝦夷)の族長の寝返り(伊治呰麻呂の乱)などもあって蝦夷側が優勢となった。

これに対して律令政府は桓武天皇の号令下、数度の征討軍を派遣した。789年(延暦8年)の第一次征討では阿弖流為(アテルイ)らの猛攻に敗れ、801年(延暦20)の第三次征討では、征夷大将軍に坂上田村麻呂が任じられ、この戦いの中で造られたのが胆沢城であり、この戦いで阿弖流為は投降した。胆沢城周辺には関東などから4000人を柵戸として移住させ、その後10世紀まで胆沢、志波地方の支配拠点として胆沢城は機能した。

律令政府の領地拡大は、翌803年(延暦23)には志波城(盛岡市)、払田柵(大仙市、801頃か?)の造営を行い、第四次征討を計画した。

ただこれらの領地拡大策などもあり、全国的な世情不安が続いたこともあり、805年(延暦24)に桓武天皇は「徳政相論」を出し、軍事(征討)と造作(造都)を中止することとしたため、第四次征討は行われなかった。

直後に、志波城周辺に和我(和賀)、稗縫(稗貫)、志波(斯波)の三郡を設置したが、この地域の安定化のため、811年(弘仁2)に文屋綿麻呂を征夷将軍としてその北方の蝦夷を攻撃した。この戦いで38年戦争が終結し、律令政府による蝦夷征討も終焉を迎えた。

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胆沢ツアー ②奥州市埋蔵文化財調査センター

2024-10-27 22:00:52 | 秋田古代史

先日の胆沢ツアーのメインイベント、奥州市埋蔵文化財調査センターは、奥州市北部、北上川の西岸近くにありました。ここに来た目的は、この場所が蝦夷の酋長、阿弖流為(アテルイ)の本拠地だったこともあり、展示が蝦夷側から見たものがあるかもということ。今年7月に多賀城や東北歴史博物館で探したものの見つからなかったため、ということでもあります。

入館料300円(9時~16時半)、常設展示は2階にありました。到着とほぼ同時に30分の映像上映が始まるとのことで、映像を見ることに。長大な歴史の中で少しつまみ食い的になっており、できるだけ蝦夷側に寄り添う形に仕上げようとしたことはよくわかりました。一方で蝦夷側に本格的に傾斜したものにできなかったのは、博物館という学術的な立場から、記録の残らないものを憶測で語ることが許されないということ、蝦夷が文字を持たず記録が残ってないこと、敗者の記録は残されないということ、などからどうしても中途半端さは拭えない出来になっていた感じでした。

その後展示物を見ましたが、多賀城周辺の資料館で見た漆紙文書というのが出てきました。これは当時漆を壺に入れて保存する際に、使用済みの紙を蓋代わりにして、漆が染みたことで紙が現在まで残り、そこにたまたま書かれていた文字が貴重な史料として残ったというもの。

映像を30分も見たことで、ついつい長居することになり、気が付けば1時間ほど施設内に居たことになりました。ある程度歴史に関心があり、予備知識があれば楽しめるでしょうが、何も知らずにふらっと行ってもあまり面白くないかもしれません。

のち

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