新米ペアレントの営業日誌・営業中

2005年3月1日に秋田県大仙市にオープンした大曲ユースホステルのペアレント(経営者)が日々の出来事を送ります。

横手市/吉乃鉱山

2021-06-26 23:28:46 | 鉱山

先日の十文字ツアーで、せっかく梨の木塚遺跡まで来たので、ついでに吉乃鉱山を見に行きました。十文字駅から国道342号を東に8kmの成瀬川北岸、梨の木塚遺跡から車ですぐの吉野集落にあった銅鉱山。発見は享保2年(1720)にはすでに鉛の採掘が行われていたと記録が残る。江戸時代は鉛や銀の採掘が個人により行われ、一時は院内銀山の銀精錬用にもここの鉛が使われたという。

(選鉱場跡地)

大規模な採掘が行われたのは、明治44年(1911)にそれまで小規模だった鉱山を小坂鉱山の技術者だった武田恭作が買収し、当時経営していた椿(後の発盛)鉱山の支山として採掘を開始。大正4年に熊ノ沢で新たに大鉱床が発見されたことで、大日本鉱業㈱を設立し、吉乃鉱山に改名した。大正6年には十文字駅まで6.4kmの架空索道(鉄索)や水力発電設備、選鉱場増強などの設備投資を行い、産出量は粗銅23t(明治44年)から3,974tへと急拡大し、本邦の重要鉱山に数えられ、吉野地区に鉱山関係者6,000人を超える鉱山町が出来上がった。

第一次大戦後の不況で人員整理を行ったが、その後生産は回復し、年1,000t前後の銅精鉱を荒川、小坂製錬所に売鉱。昭和6年には住友財閥が資本参加し、鉱石は発盛製錬所まで鉄道輸送した。第二次大戦中には需要に追い付かず、隣接の倉刈沢(増田)鉱山を買収し、高水準の産出を続けるため、朝鮮人労働者も使ったという。

戦後は、戦時中の乱堀とそれによる鉱石の枯渇、資材不足による坑道保全の不備などの悪条件が重なり、朝鮮戦争時には一時盛り返したものの、市況の低迷、鉱石の枯渇で昭和32年(1957)に休山。大日本鉱業㈱は昭和52年(1977)に解散した。閉山後、長期にわたり鉱毒対策が行われ、現在でも廃水処理が行われている。

吉野集落の奥、沢の入口の当時の架空鉄索の吉野駅があったと思われる場所には、吉乃鉱山の案内板と、当時の鉄索の支柱と思われる鉄塔が一つ残されていました。そこから舗装された道を沢伝いに上がると、排水処理を現在でも行っている施設があり、沈殿槽などが現在でも稼働中のようで、少し廃鉱山の雰囲気が残っていました。その一番上の開けた場所にかつては選鉱場があったようで、道路はその先は鎖で通行止めとなっていました。この沢の奥、突き当りには4番坑入口があったようですが、安全のため入口はコンクリートで封鎖されているとのこと。

(この先に鉱夫長屋があった?)

沢の入口まで戻り、吉野集落を東に進むと、山神社の入口階段が残っており、そこから左の沢を上がった所には鉱夫長屋が並んでいたそうですが、そちらは入口すぐに未舗装になり、既に背の高い草むらで入るのを拒むような状態。集落の東、現在工場のある場所には役員住宅19棟があったとのこと。

観光鉱山ではありませんし、今でも廃水処理が続いている場所ですので、多くの場所が立入禁止状態です。道路での見学は出来ますが、無理に入り込もうとすると熊の危険もある場所です。また今の時期は何処を見ても草むらで、やはり初春か晩秋が適時のようです。

のち

 


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1 コメント

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吉乃鉱山の遺物は、 (なんだかんだ)
2022-07-27 02:55:55
吉乃鉱山は、2008年頃に訪ねた事があります。山の上の方には、まだ鉱石を落とした遺跡が残っているはずです。google mapでもそれが確認できます。

吉乃鉱山の鉱山の遺物が、増田町のまんが博物館の奥で眠っているはずです。職員に話をして鍵を開けてもらわないといけませんが。6畳ほど(だったか?)の部屋に埃を被っているかもしれませんね。建物裏にもその部屋に収蔵できないものが置かれていましたよ。
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