本日は駆け足で能代まで遠征。目的は桧山地区の見学。5月連休にお客様に話してしまったので、またも「見てきたような嘘をつき」と云われないために実地検分。通常は能代から県道4号線を南下して入るのですが、今回は近道で森岳から県道5号線を北上して到達。
県道4号線は桧山地区ではバイパス状態になっており、旧道に入り、最初に目指したのは地域センター「桧山崇徳館」、入館無料。江戸時代に藩の学校(支校)として崇徳書院がこの地に築かれたことに由来する名前。
地域で発掘されたものや歴史が展示してあるとのことでしたが、部屋一つ分で、施設の他の部分は地域の方やボランティアなどが使うような公民館状態。ここで地域の観光地図を入手し、次に目指したのは桧山城址。
そんな安東氏の本拠地だった桧山城跡は、かなり奥まで車で入れるようでしたが、入口すぐから細い道で車が揚がるかというほどの急坂で、更に路面に落ち葉、苔もあり、夜中の雨でウエットで片側は崖で道幅は車一台分。対向車が来るなよと祈りながら一気に上がる必要がありました。中腹に駐車場がある、となっていましたが、それらしいものは見当たらず、二の丸近くまで登って道が砂利となり、少し辺りをウロウロしてから、あきらめて戻りました。
タイミングが悪かったようで、ウロウロした際も大半がひざ丈ほどの雑草に覆われており、地形から城跡を判断できるような中級以上の城マニアならともかく、素人にはわかりにくい状態であることが判りました。
崇徳館裏は、江戸時代に代官として桧山を治めていた多賀谷家の居館跡とのことで、縄張り図がパンフレットにありましたが、桧山城址と同様に草に覆われていると思い、突入は控えました。道沿い崇徳館の先にある浄明寺には、桧山城で使われていたとされる山門が残されていますが、知識がないとその良さはわかりませんでした。
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明応4年(1495)に安東忠季により造られた山城。安東氏は元々津軽(十三湊)を拠点としていたが、室町時代の嘉吉3年(1443)に南部氏に攻められ蝦夷地に逃れた。1450年代に男鹿を足場にして能代周辺を治め、本拠地をこの桧山に置いたとされる。その後、安東氏は1560年代には比内浅利氏や南部領鹿角を攻め、戦国大名として知られるようになり、天正19年(1591)には実季が秋田氏を名乗り、慶長3年(1598)には土崎湊城に移った。
関ヶ原の戦いで、佐竹氏が秋田に国替えになると移封された折、常陸国宍戸(現茨城県笠間市)に国替えになり、正保2年(1645)には陸奥国三春(現福島県三春町)に移され、江戸時代を通じて大名として存続し、明治維新後に子爵を受けた。
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次に城址の南にある多宝院。ここは桜の時期にテレビでも取り上げらえる寺ですが、城址入口分岐からの道は未舗装。江戸時代に入り、多賀谷氏が下総郡下妻から移った際に菩提寺であった多宝院を移した。現在の本堂は明和8年(1771)再建、東北では珍しいウグイス張りの廊下、庭園は京都銀閣寺を模したものと云われるそうですが、堂内はガイド同伴でないと入れないとのこと。
秋田音頭でも謳われる「桧山納豆」の店もありました。桧山納豆は安東氏統治の時代(1452-1602)にこの地に移り住んだ落人が始めたとされるもの。現在は西村家のみが受け継いでいるとのこと。直売コーナーもありましたが、家まで持ち帰る季節ではないためパス。
地区の東、母体地区にある八幡神社も行ってみましたが、うっそうとした状態で、入口にてUターン。
ほかにもいくつか見て廻りましたが、結論としては余程興味がある方でないと、桧山地区を十分に理解し、楽しめる状態ではないことが判りました。連休時にお話ししたお客様は、超が付くほどのマニアの方ですし、雑草が伸びる前のタイミングでしたので、それなに楽しんで頂けたかとは思いますが、話したイメージとは少し違ったので今度来て頂いた時には謝らないと、と考えています。
のち