新米ペアレントの営業日誌・営業中

2005年3月1日に秋田県大仙市にオープンした大曲ユースホステルのペアレント(経営者)が日々の出来事を送ります。

秋の黒川(横手)のイチョウ並木①

2024-10-31 22:26:40 | 観光地

本日は買い出しのついでに、横手市西部にある通称、黒川のイチョウ並木に寄り道。今年1/27(冬Ver)と6/18(夏Ver)を見に行きましたが、秋のイチョウの紅葉時がメインで、1月と6月はその下見状態。

山岳部の紅葉が終わり、家の近くの里の紅葉も見頃を過ぎた木も出始めたので、そろそろかと。インスタグラム界隈では投稿もみられるでしょうが、なかなかいいタイミングになったという情報が入手できないので、とりあえず今日はどんな状態化をチェックするだけということで立ち寄りました。

現地につくと、イチョウの葉は一部黄色くなり始めているものの、まだ緑が多く残り、あと一週間から10日ほどが見ごろになりそうな感じでした。あとはどう写真を撮るかの問題かなと。

通常の大曲への買い物だと方向が逆になりますが、当YHから車で15分ほどの場所にありますので、週に一度程度見に行こうかと思っています。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

胆沢ツアー ⑤巣伏公園・奈良時代(789年)

2024-10-30 22:22:15 | 秋田古代史

先日の胆沢ツアーで鎮守府八幡宮の次に訪れたのが、水沢地区の東、北上川の西岸にある巣伏公園。ここは38年戦争、789年(延暦8年)の第一次征討で律令政府と阿弖流為(アテルイ)が率いる蝦夷軍が戦い、政府軍の第一次征討での敗北が決定的になった闘いの古戦場とされる場所。

国道4号バイパスから車1台分の細い舗装された農道を北上川方面に向かった所に公園はありました。公園と云っても小高い丘に物見櫓(やぐら)に模した展望台がある程度の小さなもの。

櫓から東側の北上川で戦いが行われたようですが、そちら方面は櫓に上っても河川敷の木々で見ることができず、反対側の田んぼには少し前まで田んぼアートでもあって、9月末頃にはイベントも開かれたようです。その影響なのか、こんな小さな人もいないような公園でしたが、観光地によくある「顔はめ」パネルがあり、その絵は野球選手?どうも大谷翔平さんの地元ということなのでしょうか。

古戦場というところは、どこに行っても、こんな感じなのでしょうか。その時代のまま残っていることは、全国的に開発が行われている現代、ほとんどありえないでしょうし、あったとしても案内看板や白い標柱があればいい方で、このような公園の形を残しているのは、だいぶ「まし」なのでしょうが、何も知らないで来たら面白さを感じるのはかなり難しそうです。

時々

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

胆沢ツアー ④鎮守府八幡宮・平安初期(801年)

2024-10-29 22:18:23 | 秋田古代史

先日の胆沢ツアーでは、胆沢城址(公園)を見学後、胆沢城の北東端に位置する鎮守府八幡宮に。道中、城址の形跡はないかとみていましたが、何もなし。農道のような細い道の先に八幡宮はありました。

説明看板によると、801年(延暦20)に坂上田村麻呂が崇敬勧請したとのこと。東北開拓の守護神として数代の天皇家より崇敬され、源頼義、頼家、奥州藤原氏等も領地を送ったり、源頼朝から、豊臣秀吉、伊達氏などの崇敬もあり、明治9年の天皇巡行の際にも立ち寄られたと、神社の縁起にはよくあることですが、この地に関係する有名人が多く羅列されていました。

境内は参道脇の敷石が整備されていて、規模も大きく立派なもので、当YHの集落にある八幡神社とは大きな違いでした。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

胆沢ツアー ③胆沢城址・平安初期(802年)

2024-10-28 22:12:26 | 秋田古代史

奥州市埋蔵文化財調査センターを見学後、隣接地にある胆沢城址を見学。現在は南にあったとされる多賀城から続く官道から分岐した幅12mの南大路と政庁を中心に配置された官衙(役所)を築地土塀と溝が方形に囲む一辺675mの広大な施設の内、外郭南門や外壁の一部が復元され、公園となっていました。

肝心の政庁のあったと思われる場所は埋め戻され、田畑や荒れ地になっており、見に行っても何もありませんでした。広大な城址のはずですが、見られる形として残されているのは、この外郭南門の周辺のごくわずかな場所だけですので、ついこの場所だけ見る形になりそうですが、ほんの一部だけで、当時広大な城であったという形跡はあまり感じられないかもしれません。

この胆沢城が作られたのは802年(延暦21)、平安遷都(794)が行われてすぐの頃。それまでは国府がおかれた多賀城(724年創建)が鎮守府も兼ねていたが、この地域で「38年戦争」と呼ばれる律令政府による蝦夷領地の侵略戦争の中で、阿弖流為(アテルイ)などの蝦夷の族長が本拠地としていたこの地で、軍事拠点として、また柵戸(関東などから移住させられた民)を住まわせて律令政府の領地とすべく築かれたもの。胆沢城の出現により、阿弖流為は投降したとも考えられている。

=律令国家の蝦夷征討=

この背景には、大化改新(645年)によって生まれた律令政府がそれまでの独立支配者的な国造制による地方支配から評(こおり)制による中央集権体制へ移行させることとしたことに端を発する。国造制での支配は日本海側は新潟(越国)まで、太平洋側では宮城県南部(道奥国)までで、その北の住民を一括して「蝦夷」と呼んでいた。この地域の支配を強化するための政策が「柵」の設置であった。

最初の柵は647年の淳足柵(新潟市)、648年の磐舟柵(村上市)であった。記録には残っていないが、近年の調査で同じ頃に太平洋側でも郡山柵(仙台市)が設置されたことが明らかになってきた。

更に支配地域の拡大のため、658年(斉明天皇4)には阿部比羅夫の北方遠征が行われたとみられる。こうした急速な変化は、一方で反発を招き、8世紀に入ると散発的に反乱がおきた。特に、720年(養老4)陸奥国の蝦夷が反乱を起こして都からの官吏らを殺害した。この際郡山柵に代わってできたのが多賀城(724創建)である。

ちなみに秋田市にある秋田(高清水)城跡は733年(天平5)に創設されたが、これは709年(和銅2)以前に造られた(第一次)出羽柵(城輪柵とも・酒田市)から領地を北上させたものと考えらており、第二次出羽柵とも呼ばれる。

多賀城創設後も足元を固めるために、牡鹿柵(737・東松島市?)、玉造柵(737)、新田柵(737)、色麻柵(737)などを築いた。多賀城を含めて天平五柵と呼ばれる。更に律令政府は領土拡大を進め、太平洋沿岸では桃生城(759・石巻)を、北上川沿いでは伊治城(767・栗原市)を創設。

積極的な領地拡大に蝦夷との摩擦が大きくなり、774年(宝亀5)に桃生城が襲撃された。これが38年戦争の始まりで、反撃を計画したものの俘囚(律令側に従う蝦夷)の族長の寝返り(伊治呰麻呂の乱)などもあって蝦夷側が優勢となった。

これに対して律令政府は桓武天皇の号令下、数度の征討軍を派遣した。789年(延暦8年)の第一次征討では阿弖流為(アテルイ)らの猛攻に敗れ、801年(延暦20)の第三次征討では、征夷大将軍に坂上田村麻呂が任じられ、この戦いの中で造られたのが胆沢城であり、この戦いで阿弖流為は投降した。胆沢城周辺には関東などから4000人を柵戸として移住させ、その後10世紀まで胆沢、志波地方の支配拠点として胆沢城は機能した。

律令政府の領地拡大は、翌803年(延暦23)には志波城(盛岡市)、払田柵(大仙市、801頃か?)の造営を行い、第四次征討を計画した。

ただこれらの領地拡大策などもあり、全国的な世情不安が続いたこともあり、805年(延暦24)に桓武天皇は「徳政相論」を出し、軍事(征討)と造作(造都)を中止することとしたため、第四次征討は行われなかった。

直後に、志波城周辺に和我(和賀)、稗縫(稗貫)、志波(斯波)の三郡を設置したが、この地域の安定化のため、811年(弘仁2)に文屋綿麻呂を征夷将軍としてその北方の蝦夷を攻撃した。この戦いで38年戦争が終結し、律令政府による蝦夷征討も終焉を迎えた。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

胆沢ツアー ②奥州市埋蔵文化財調査センター

2024-10-27 22:00:52 | 秋田古代史

先日の胆沢ツアーのメインイベント、奥州市埋蔵文化財調査センターは、奥州市北部、北上川の西岸近くにありました。ここに来た目的は、この場所が蝦夷の酋長、阿弖流為(アテルイ)の本拠地だったこともあり、展示が蝦夷側から見たものがあるかもということ。今年7月に多賀城や東北歴史博物館で探したものの見つからなかったため、ということでもあります。

入館料300円(9時~16時半)、常設展示は2階にありました。到着とほぼ同時に30分の映像上映が始まるとのことで、映像を見ることに。長大な歴史の中で少しつまみ食い的になっており、できるだけ蝦夷側に寄り添う形に仕上げようとしたことはよくわかりました。一方で蝦夷側に本格的に傾斜したものにできなかったのは、博物館という学術的な立場から、記録の残らないものを憶測で語ることが許されないということ、蝦夷が文字を持たず記録が残ってないこと、敗者の記録は残されないということ、などからどうしても中途半端さは拭えない出来になっていた感じでした。

その後展示物を見ましたが、多賀城周辺の資料館で見た漆紙文書というのが出てきました。これは当時漆を壺に入れて保存する際に、使用済みの紙を蓋代わりにして、漆が染みたことで紙が現在まで残り、そこにたまたま書かれていた文字が貴重な史料として残ったというもの。

映像を30分も見たことで、ついつい長居することになり、気が付けば1時間ほど施設内に居たことになりました。ある程度歴史に関心があり、予備知識があれば楽しめるでしょうが、何も知らずにふらっと行ってもあまり面白くないかもしれません。

のち

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2回目の食用菊(紫)の収穫

2024-10-26 22:57:55 | 畑・工作

昨日遠出をしたこともあり、本日は少し放置状態だった紫色の食用菊の2回目の収穫作業。お客様出発後、その勢いで作業を行い、最盛期となりましたが、夏の暑さの影響もあり、1時間弱で収穫終了。その後、解体作業から茹で、保存用パッキングまで一連の作業をどうにか午前中で終わらせることが出来ました。

2回の紫色の食用菊の収穫で80食分ほど。例年200食程度用意するので、半分以下の量でしかなく、これ以降まとまった量の紫菊の収穫は難しくなりそうですので、来春以降は在庫がなくなる可能性が強くなってきました。

さらにもう少しすると黄色の食用菊の収穫が出来そうですが、一方で例年初霜が11月上旬にあります。霜が降りると菊の花が痛み始めますので、収穫できる期間がわずかしかなさそうです。一気に咲いてくれればいいのですが、日当たりの状況や雑草の量などにムラがあるため、開花のタイミングは微妙にずれてしまいます。そう考えると、頑張らないと黄色の食用菊もかなり厳しくなりそうです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

胆沢城を見学に ①概要

2024-10-25 22:51:31 | 秋田古代史

本日はお客様も切れたタイミングだったので、思い切って奥羽山脈の東側、奈良時代に胆沢城があった地域の見学ツアーとなりました。横手から国道107号を通り、錦秋湖にかかる仮設橋を観ながら昼過ぎに胆沢城跡に隣接する奥州市埋蔵文化財センターに到着。

見学後、胆沢城(柵)跡をウロウロ。北側の胆沢八幡神宮まで足を延ばしたものの、一般のお客様にお勧めするには少し難しいかなと。城跡は一部復元して公園となっているものの、大半がすでに埋め戻されて、田畑や荒れ地となっており、当時の形跡がありませんでした。

次に埋蔵文化財センターにあった地図に載っていた古戦場後の巣伏公園を経由して奥州市の西側にある北限の前方後円墳、角塚古墳に。道の反対側に古墳公園があり、駐車場完備。サクっと見て、帰路につこうと思いましたが、せっかく奥州市まで来たのだからと、奥州市の北にある鳥海柵も見ておこうと逆戻り気味に北上。鳥海柵は学校の校庭のような場所にあり、案内看板は別な所との案内。

ほかにも小さな柵跡があるような地図がありましたが、たぶん行っても白い標柱程度があればいい方と思われたので、日没も迫っていたので、ここまでで帰路に。来た錦秋湖経由では芸がないと思い、奥州市を再び南下し、胆沢ダム脇を通る国道397号で東成瀬村に抜けるルートを選択。ダム手前で日没を迎え、徳水園の円筒分水工や胆沢ダムなどの写真も撮れず、その先の峠道はちょうど紅葉がきれいだったようですが、真っ暗な中動物の飛び出し注意状態で戻ってきました。

戻ってからニュースを見たら、本日大谷選手がメジャーリーグ優勝を決めたとのことで、街ではパブリック・ビューイングが行われていたとのこと。そちらによるべきだった?

さて、それぞれの詳細は、後日改めて。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

針葉樹と広葉樹

2024-10-24 22:31:12 | 畑・工作

植木の方もこの時期、冬支度。針葉樹はそのままですが、広葉樹は冬に向けて葉を落とし始めています。葉が落ちる前に雪が降ると、葉に雪が積もってしまい、枝が折れることが多くみられます。このため雪が降る前に葉を落としてしまうのかと考えてしまいますし、植物が数億年にわたる時間の経過の中で学んだ(進化した)ことなのでしょう。

さらに言えば、広葉樹より針葉樹の方が歴史が古いとも云われているそうで、葉を落とさなくとも冬を乗り切れる形に進化したということなのでしょうか。確かに寒い地方には針葉樹が多く、暖かい地方には広葉樹が多いと一般的には言われていますが、その場所の気候に適したためということと、雪の時期などに広葉樹が折れたりして減ったため、針葉樹だけが残ったということのようです。

一方で、葉が大きいことで、木の成長が早くなり、固い材木が必要なら針葉樹、安価な材木は広葉樹と一般的にはなっているようです。針葉樹は葉が小さい(細い)ため光合成による養分を作る量が少なく、成長が遅いため材木にした時に年輪が狭く締まった材木になるようです。

こんな話をもとに考えると、キンモクセイは常緑の広葉樹。やはり雪国に適したのではないのでしょう。

のち

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

そろそろ冬支度

2024-10-22 22:34:07 | 季節

気温の低下や山岳部の冠雪のニュース、白鳥の鳴き声などが聞こえてくると、周辺では早いところでは冬支度が始まります。今日、検便検査を持ち込んだ際に見ると、地域振興局では庭木の雪囲いが終わっていました。また近隣の家でも植木の雪囲いが出来上がり始めています。

冬支度の順番としては、最初に文句を言わない植木の雪囲い、次に建物の雪囲い、最後に車の冬支度や消雪パイプの準備となることが多いようです。当YHでは11月に入ってから行うことが多くなってきましたが、近くの方に云わせると、寒くなって外作業するのは難儀なのでこの時期から、とのこと。

植木の枝を落としたり、雪囲いで窮屈な思いをさせるのはかわいそうですが、厳しい冬を乗り切るため仕方がありません。これを怠ると、積雪や雪どけの時に枝が折れてしまうことが多く、そちらの方が無残なことになります。とはいえ植木は文句を言うことはありません。

当YHを始めて20年。来た当初に植え付けた桜や柿、その他の木も幹が太くなり、背も高くなったことから、当初雪囲いを取り付けていた大半の木が、雪囲い不要になり、ここ数年、雪囲いを立てるのはアジサイやサツキなどの低木だけとなってきましたので、作業も短時間で済むようになりました。

当YHの庭木でも紅葉が見られるようになりました。

のち

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

昨日は岩手山、今日は鳥海山が初冠雪

2024-10-21 22:32:47 | 季節

10月も後半に入り、昨日は岩手山(岩手県)や吾妻山(福島県)で初冠雪が観測(平年より7日遅く、昨年より3日遅い)、本日は酒田側がから鳥海山(秋田/山形)が初冠雪(平年より11日遅く、昨年より13日遅い)したとのこと。

今月月初には15℃を越えていた朝晩の気温も、今朝の最低気温は1℃台まで下がってきて、当然朝食時にはストーブが早くも稼働しています。こうなってくると、来られる方は冬の格好でお越し頂いた方がよいかと。もちろん車もそうで、万が一のために冬タイヤでお越しください。

また山岳部の道路の冬季通行止めは11月に入ってから本格化しますが、この時期でも雪が降る可能性が出てきており、そうなると臨時通行止めや夜間通行止めとなります。夜間通行止めは夕方5時から始まります。八幡平方面では通行止めの際、う回路がありませんのでかなりの遠回りになり、当YHに到着するのに数時間遅れることになりますので、予定は余裕をもって立てて、セカンドプランも用意しておく方が無難です。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする