<軽井沢、白糸の滝>
東御から国道十八号を走って信濃追分を過ぎ、中軽井沢まで来ると左折してロマンチック街道に入った。
さすがに避暑地だ、上田あたりで十五度くらいあった気温が半分くらいに下がっている。横浜では桜が満開だったが、こちらには春の訪れはまだ遠いようだ。
軽井沢は、上州と信州の境に位置していて江戸時代には中山道の重要な宿場町であった。
北国街道と中山道が分岐する追分宿、今の中軽井沢駅あたりを沓掛宿、旧軽銀座あたりを軽井沢宿、その三つを称して「浅間三宿」といって本陣・脇本陣・旅籠など多くの宿や茶屋が並び、旅人で賑わったそうだ。
江戸を発って険しい碓井峠を越えた旅人が「ああ、やれやれ」と草鞋を脱ぐ三宿であり、江戸へ向かう旅人も、立ち向かう峠の難所を前に心構えと気息を十分に整えるために、これまた草鞋を脱いだことだろう。手ぶらでないし、なにしろ徒歩で標高千メートルへの昇り、標高千メートルからの降りだからどちらもきつかった筈だ。
貝原益軒が、宝永四年(1707年)に書いた「木曾路之記」には、
『軽井沢・沓掛・追分の三宿は、浅間嶽の腰にて地形いよいよ高し、此三駅の間南北半星ばかり、東西二、三里が程たいらなる広野也、寒きこと甚だしくて五穀生せず、ただ稗(ひえ)・蕎(そば)・麦のみ多し。また果(くだもの)の樹もなし。民家には植木なし。』
と書かれていて、当時の軽井沢がいかにも寒村だったことが窺える。
「鬼押出し」の手前を右折して白糸ハイランドウェイに入り、白糸の滝を久しぶりにみていくことにした。
道にはないが、脇にはところどころにまだ眩しい白い雪がたんまり残っていた。白糸の滝の駐車場に止め、車を出ると予想以上の寒さにダウンジャケットの前のジッパーを締める。
白糸の滝は、地下水を源流とする潜流瀑(せんりゅうばく)である。
滝は「L字」の形をしていて、落差は三メートルほどと低いが、幅は七十メートルもある。
豊富な浅間山系の地下水なので、幾条もの無数の白糸のように流れ落ちる清水の量は安定しており、濁らずに、あくまで清冽そのものだ。
迫力ある静岡の白糸の滝もいいが、この森閑とした、心を洗うような静謐さもたまらなく捨てがたいものがある。きっと、この滝は紅葉の季節が最高だろう。
→「白糸の滝 静岡・富士宮」の記事はこちら
東御から国道十八号を走って信濃追分を過ぎ、中軽井沢まで来ると左折してロマンチック街道に入った。
さすがに避暑地だ、上田あたりで十五度くらいあった気温が半分くらいに下がっている。横浜では桜が満開だったが、こちらには春の訪れはまだ遠いようだ。
軽井沢は、上州と信州の境に位置していて江戸時代には中山道の重要な宿場町であった。
北国街道と中山道が分岐する追分宿、今の中軽井沢駅あたりを沓掛宿、旧軽銀座あたりを軽井沢宿、その三つを称して「浅間三宿」といって本陣・脇本陣・旅籠など多くの宿や茶屋が並び、旅人で賑わったそうだ。
江戸を発って険しい碓井峠を越えた旅人が「ああ、やれやれ」と草鞋を脱ぐ三宿であり、江戸へ向かう旅人も、立ち向かう峠の難所を前に心構えと気息を十分に整えるために、これまた草鞋を脱いだことだろう。手ぶらでないし、なにしろ徒歩で標高千メートルへの昇り、標高千メートルからの降りだからどちらもきつかった筈だ。
貝原益軒が、宝永四年(1707年)に書いた「木曾路之記」には、
『軽井沢・沓掛・追分の三宿は、浅間嶽の腰にて地形いよいよ高し、此三駅の間南北半星ばかり、東西二、三里が程たいらなる広野也、寒きこと甚だしくて五穀生せず、ただ稗(ひえ)・蕎(そば)・麦のみ多し。また果(くだもの)の樹もなし。民家には植木なし。』
と書かれていて、当時の軽井沢がいかにも寒村だったことが窺える。
「鬼押出し」の手前を右折して白糸ハイランドウェイに入り、白糸の滝を久しぶりにみていくことにした。
道にはないが、脇にはところどころにまだ眩しい白い雪がたんまり残っていた。白糸の滝の駐車場に止め、車を出ると予想以上の寒さにダウンジャケットの前のジッパーを締める。
白糸の滝は、地下水を源流とする潜流瀑(せんりゅうばく)である。
滝は「L字」の形をしていて、落差は三メートルほどと低いが、幅は七十メートルもある。
豊富な浅間山系の地下水なので、幾条もの無数の白糸のように流れ落ちる清水の量は安定しており、濁らずに、あくまで清冽そのものだ。
迫力ある静岡の白糸の滝もいいが、この森閑とした、心を洗うような静謐さもたまらなく捨てがたいものがある。きっと、この滝は紅葉の季節が最高だろう。
→「白糸の滝 静岡・富士宮」の記事はこちら
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます