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温泉クンの旅日記

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平泉・中尊寺 (2)

2010-08-25 | ぶらり・フォト・エッセイ
  <平泉・中尊寺 (2)>

 さて、中尊寺に来たからには金色堂にいかねば話にならない。
 登りが終わって平坦になったので、いくぶんか元気を取り戻して足を速めた。



 金色堂の近辺にいくと、どこか近くに観光バスの駐車場でもあるのだろう、いくつもの異国の団体客グループが脇道がゾロゾロと現れた。
 いきなり目玉の金色堂、それからゆっくり下りながらの観光コースのようだ。シンドイ坂を登らない楽ちんコースではご利益も薄かろう。

 讃衡蔵という建物のところで、金色堂と讃衡蔵共通の拝観券を購入した。
 考えるまでもない、まずは金色堂だ。
 ところで、よく「金色堂」といってみる写真は実は覆堂である。(そんなこと知っているひとには失礼しました)



 金色堂(光堂)は方三間の小型の仏堂で、現在はコンクリート造りの覆堂内にある。
 須弥壇には阿弥陀三尊を安置して、内部には藤原四代である清衡、基衡、秀衡の遺体が棺で安置されており、泰衡の首級も納められている。
 金色堂は許可がなければ撮影はさせてもらえない。だから金色堂として撮った写真の多くは金色堂がはいっている「覆堂」なのだ。



 覆堂脇にある経堂だが、二階が焼失したまま補修されて残された。



 新覆堂ができたのでそれまでの覆堂は移転された。
 その旧覆堂のそばに芭蕉の像がある。



 芭蕉が門人の曽良と江戸を発って「奥の細道」の旅に出たのが元禄二年だ。
 奥州藤原氏が滅亡して五百年目の年であった。中尊寺も藤原氏滅亡の影響により衰退が始まり、建武四年の火災で金色堂と経堂の一部を残しその殆どを焼きつくしてしまう。
 江戸時代にはいって伊達藩領になり、伊達家の代々にわたる手厚い保護によって中尊寺は復興され現在に至ったのである。
 
 荒廃した中尊寺の金色堂を参詣した芭蕉が詠んだ句が、
   「五月雨の 降残してや 光堂」

 現代の金色堂をみたわたしの感想はといえば、期待が大きかったせいかすこぶる微妙で感動はあまりなかった。

 あまりに暑かったので、共通券で入れる、冷房が効いていそうな讃衡蔵といういわゆる資料館にもはいった。正解である。ひととおり観終わるとだいぶ汗がひいた。

 珍しい、目にご利益があるという峯薬師堂だ。



 目のお守りというものを売っていた。
 堂のそばに池があり、たくさんの蛙が生息しているそうだ。



 この日も、池の傍の立ち木の枝に青々とした若い蛙が、周囲の観光客も気にせずに大きな目玉で睨みをきかせて器用に蹲っていた。その堂々ぶりからすると、群れの頭分格の蛙なのかもしれない。

 観音堂である。
 ああ、それにしても腹が減った。



 あまりの暑さに、自販機で買ったペットボトルを飲みつつ帰り道を下りながら、これから行くマルカンデパート大食堂のことばかりを考えているわたしであった。


  →「平泉・中尊寺 (1)」の記事はこちら
  →「マルカンデパート大食堂(1)」の記事はこちら


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