<伊賀の里、赤目温泉(3)>
胸を張っては言えないが、わたしは決して美食家などではなく、それに健啖家でもない。
だから旅先では、土地の居酒屋で地の肴をつまみながら酒盃を重ねられれば“御の字”で、近辺に飲食店もない離れ里で宿しか選択肢がないようであれば、夕餉はごく簡素なもので充分なのだ。なにしろわたしの旅の目的のメインは、温泉なのである。
小ぢんまりとしたフロントと、その前にあるロビースペースを横目に通り過ぎる。
フロントのある棟の奥、小川寄りの端っこに夕食の食事会場のレストランがある。
どうやらわたしが一番の到着のようだ。
テーブル上のセットされた料理も、オーソドックスな気軽な和定食といった感じでひと安心だ。
山間で冷えるので今日は水割りでなく、熱燗でももらうとしよう。
あれは房総の白浜だったか、<料理長渾身の新規開発メニューのお披露目>といったクスクス料理の一品を盛大に残してしまい、
「まあ! 美味しいのに、こんなに残して!」
と仲居さんに「素(本気そのもの)」で激怒されたことがある。<接客の基本など知ったことか!> くらいの勢いで叱られたが、あのときはもしかしたら、この姐さんは調理した人とのっぴきならない関係にあったんじゃなかろうかと邪推してしまったな。
昼をドライカレーの普通盛りで軽くすませたおかげで、夕食の儀礼はなんとか無事にこなせそうな腹具合である。
昼食の時間が遅かったり、たっぷりの量を食べてしまったときなどは、宿の夕食時に、
「あらァ、うちの料理はお口に合いませんでしたでしょうか?」
残した料理を前に、仲居にそれとなくチクリと厭味を云われたりして、言い訳にあれこれ苦労する。本当は“なまはげ”に豹変して「いったいどの口がナマ云ってるんだい、この悪い子のこの口か!」と、ギューッと捩りあげたいところなのだろう。
でも時に、厭味でなく心底こちらの体調を気遣ってくれているときもあって、そんなときはひたすら恐縮してしまう。
わたしから思い切り離れた二つのテーブルに、静かな母娘とカップルの二組がいて、どちらも伊賀牛のすきやきのコースのようである。
伊賀牛はこの宿の自慢料理ですきやきやしゃぶしゃぶ、ステーキなど客の好みで供される。伊賀牛は流通量が少ない希少な牛肉で「肉色鮮やか初霜の如し 食して柔らかく風味良し」と謳われている。
「この前“麻布十番”で初めて伊賀牛を食べて、とっても美味しかったものですから、今日は楽しみにして来たんですよ!」
カップルの男のほうが、卓で甲斐甲斐しくすきやきを調理している仲居におもねるように言うその声がやたら大きくて、和定食を食しているわたしの耳にも充分届く。
悪かったな、こっちはボタン鍋で。
舌で味わう美味しさ、というものはジャンルごとに常に更新される。いままで「一番」だったものは「二番」手に容赦なく追いやられる。別に消え去るわけでなく「(そのジャンルの標準的な味の)基準」という形で残って活き続けるのである。わたしの場合の「すきやきの一番」は、神戸六甲の神戸牛を二番手に追いやった丸の内「モリタ屋」で食べた鹿児島牛のすきやきである。
伊賀の味付けは濃いというが、楽しみにしていた希少な伊賀牛すきやきは麻布十番に比べて果たしてどうだったんだろうか。気になる。
さて、どうやら最後らしい天ぷらまで辿りついたぞ。よし、もうすぐ「上がり」だ。
ご飯をもらうとしようか。
いつもだと夕食後には必ず温泉に寄るのだが、加水・加温・循環濾過の魅力の無い温泉なので今夜は省略して、部屋でゆっくり呑み直すとするか。
― 続く ―
→「伊賀の里、赤目温泉(1)」の記事はこちら
→「伊賀の里、赤目温泉(2)」の記事はこちら
→「東京駅、天上の晩餐(1)」の記事はこちら
→「東京駅、天上の晩餐(2)」の記事はこちら
胸を張っては言えないが、わたしは決して美食家などではなく、それに健啖家でもない。
だから旅先では、土地の居酒屋で地の肴をつまみながら酒盃を重ねられれば“御の字”で、近辺に飲食店もない離れ里で宿しか選択肢がないようであれば、夕餉はごく簡素なもので充分なのだ。なにしろわたしの旅の目的のメインは、温泉なのである。
小ぢんまりとしたフロントと、その前にあるロビースペースを横目に通り過ぎる。
フロントのある棟の奥、小川寄りの端っこに夕食の食事会場のレストランがある。
どうやらわたしが一番の到着のようだ。
テーブル上のセットされた料理も、オーソドックスな気軽な和定食といった感じでひと安心だ。
山間で冷えるので今日は水割りでなく、熱燗でももらうとしよう。
あれは房総の白浜だったか、<料理長渾身の新規開発メニューのお披露目>といったクスクス料理の一品を盛大に残してしまい、
「まあ! 美味しいのに、こんなに残して!」
と仲居さんに「素(本気そのもの)」で激怒されたことがある。<接客の基本など知ったことか!> くらいの勢いで叱られたが、あのときはもしかしたら、この姐さんは調理した人とのっぴきならない関係にあったんじゃなかろうかと邪推してしまったな。
昼をドライカレーの普通盛りで軽くすませたおかげで、夕食の儀礼はなんとか無事にこなせそうな腹具合である。
昼食の時間が遅かったり、たっぷりの量を食べてしまったときなどは、宿の夕食時に、
「あらァ、うちの料理はお口に合いませんでしたでしょうか?」
残した料理を前に、仲居にそれとなくチクリと厭味を云われたりして、言い訳にあれこれ苦労する。本当は“なまはげ”に豹変して「いったいどの口がナマ云ってるんだい、この悪い子のこの口か!」と、ギューッと捩りあげたいところなのだろう。
でも時に、厭味でなく心底こちらの体調を気遣ってくれているときもあって、そんなときはひたすら恐縮してしまう。
わたしから思い切り離れた二つのテーブルに、静かな母娘とカップルの二組がいて、どちらも伊賀牛のすきやきのコースのようである。
伊賀牛はこの宿の自慢料理ですきやきやしゃぶしゃぶ、ステーキなど客の好みで供される。伊賀牛は流通量が少ない希少な牛肉で「肉色鮮やか初霜の如し 食して柔らかく風味良し」と謳われている。
「この前“麻布十番”で初めて伊賀牛を食べて、とっても美味しかったものですから、今日は楽しみにして来たんですよ!」
カップルの男のほうが、卓で甲斐甲斐しくすきやきを調理している仲居におもねるように言うその声がやたら大きくて、和定食を食しているわたしの耳にも充分届く。
悪かったな、こっちはボタン鍋で。
舌で味わう美味しさ、というものはジャンルごとに常に更新される。いままで「一番」だったものは「二番」手に容赦なく追いやられる。別に消え去るわけでなく「(そのジャンルの標準的な味の)基準」という形で残って活き続けるのである。わたしの場合の「すきやきの一番」は、神戸六甲の神戸牛を二番手に追いやった丸の内「モリタ屋」で食べた鹿児島牛のすきやきである。
伊賀の味付けは濃いというが、楽しみにしていた希少な伊賀牛すきやきは麻布十番に比べて果たしてどうだったんだろうか。気になる。
さて、どうやら最後らしい天ぷらまで辿りついたぞ。よし、もうすぐ「上がり」だ。
ご飯をもらうとしようか。
いつもだと夕食後には必ず温泉に寄るのだが、加水・加温・循環濾過の魅力の無い温泉なので今夜は省略して、部屋でゆっくり呑み直すとするか。
― 続く ―
→「伊賀の里、赤目温泉(1)」の記事はこちら
→「伊賀の里、赤目温泉(2)」の記事はこちら
→「東京駅、天上の晩餐(1)」の記事はこちら
→「東京駅、天上の晩餐(2)」の記事はこちら
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