温泉クンの旅日記

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庄内藩校 致道館 山形・鶴岡

2019-08-25 | ぶらり・フォト・エッセイ
  <庄内藩校 致道館>

 表御門の手前、左側にあった案内所らしき簡易な建物に入館料を払おうと入っていった。

「えっ、無料なんですか」
 いかん、京都や鎌倉の観光地で入館料・拝観料を毟り取られているので、なんか嬉しくなって思わず笑顔で口にしてしまった。
 そのかわりに、備え付けの観覧票の項目の記入をしてくれという。もちろん、喜んで記入した。

 

 庄内藩校「致道館(ちどうかん)」という名は、論語の一節「君子学ンデ以テソノ道ヲ致ス」に由来する。

 庄内藩酒井家九代忠徳(ただあり)が士風を刷新して藩政の振興を図るために文化二年(1805年)に創設した。当初は鶴岡駅近くにあったが、十代忠器(ただかた)によって鶴ヶ岡城三の丸に位置する現在の場所に移された。
 寛政異学の禁(1790年)以後、諸藩が幕府の方針に従い朱子学を藩学とするなかで、庄内藩は藩主忠徳が評価した荻生徂徠の提唱する徂徠学を教学として明治六年(1873年)の廃校まで堅持した。

 

 藩主の御成りの門、表御門から入る。

 

 

 表御門を入ってすぐ左の廟門の先には、学校の中枢であり教育の源ともいえる聖廟があり、孔子と、孔子の高弟である顔淵の聖画が祀られている。

 

(孔子といえば<足利學校>を思いだすなあ・・・)

「致道館」の額は、大宝寺地内にあった旧学校時代からこの講堂に掲げられてきた。

 

 文化三年(1806年)、当時、侍医であり致道館の助教兼司業であり、書家でもあった重田道樹が揮毫した。

 
  
 講堂は広間型で三十畳敷き、生徒が一堂に会して講義を受けたところである。学校には令條(法度=きまり)があり、鳴物、飲酒、煙草、碁・将棋、言い争い、席順を乱すことなどは禁止されていた。堂内には、西郷隆盛が書いた「敬天愛人」の額も掲示されている。

 

 庄内藩は西郷隆盛に恩がある。
 戊辰戦争で庄内藩は東北三十一藩と同盟を組み新政府軍と戦うが、やがて降伏。厳重な処罰を覚悟するが、なんと西郷隆盛は寛大な措置を指示したのだった。
 戊辰戦争後、庄内藩士たちは西郷隆盛(南州)と親交を深め、教えを請う。庄内藩の重鎮であった菅実秀(臥牛)は、西郷から「学問は堯舜(ぎょうしゅん=中国古代の伝説の帝王)を手本とし、孔子を教師とせよ」との教えを受け、廃藩置県で藩校廃止となっても、四書五経などの中国古典に西郷の教えを加えて学び続けた。
 明治期の政治家副島種臣に「庄内はもはや徂徠学ではなく庄内学」と、昭和期に農業青年の人材育成に尽くした菅原兵治に「この地の学道は庄内学というべきであろう」と評された。

 講堂の奥に、藩主臨校の御居間がある「御入りの間」。

 

 致道館にはじまり受け継がれている教学、「論語」は、最も学ばれている教書で「庄内論語」と呼ばれ親しまれている。

 

 

 講堂東側には、詰所・養老堂・句読所・御台所など現存しない当時の校舎の間取りや位置を平面的にたくさんの礎石で表示している。敷地には他に馬場、矢場、武術稽古所もあったそうである。

 

 遺構の向こうに見える、隣接する施設は大規模なコンサートなどのイベントも催せる「荘銀タクト鶴岡(鶴岡市文化会館)」である。
 ホテル「水田テラス」といい、鶴岡には滅法斬新で瀟洒なデザインの建築物が多いと感心する。


  →「足利學校(1)」の記事はこちら
  →「足利學校(2)」の記事はこちら
  →「足利學校(3)」の記事はこちら
  →「鶴岡、庄内ホテル水田テラス(1)」の記事はこちら
  →「鶴岡、庄内ホテル水田テラス(2)」の記事はこちら
  →「鶴岡、庄内ホテル水田テラス(3)」の記事はこちら


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