<奈良、東大寺・大仏殿(1)>
京都府の神社仏閣数「約4700」まではいかないが、奈良県も約1800ヶ所の神社と、約1400ヶ所の寺、計「3200」の神社仏閣と、予想通り多い。(因みに全国で1番神社仏閣が多いのは愛知県で、約7800ヶ所)
ところで奈良の神社仏閣の人気ベスト5だが、1位「東大寺」、2位「長谷寺」、3位「法隆寺」、4位「大神神社」、5位「東大寺・二月堂」だそうだ。
いや~、参詣を主目的にとしてわたしが既に訪れた2ヶ所(長谷寺と大神神社)ともランクインしているとはなんとも嬉しい限りだ。
「あそこに見える、どデカイ門が南大門だな・・・」
時計をみると、もうすぐ朝の8時だ。 東大寺の拝観時間は、春から秋(4月~10月)が朝7時半から、晩秋から早春(11月~3月)が朝8時からとなっている。
南大門前へとつづく参道脇に並ぶ商店の営業は朝9時からである。
鹿たちも、餌待ちで暇を潰しているようである。鹿にあげられる“餌”として許されている“鹿せんべい”の販売は10時頃からだと、鹿はきっと腹時計でわかっているのだろう。
東大寺、春日大社など、奈良公園エリアには約1200頭の鹿がいるのだ。
天平創建時に東大寺の正門であった南大門は、平安時代に大風で倒壊した。
現在の南大門は鎌倉時代、東大寺を復興した重源上人が、新たに宋様式を採り入れた大仏様によって再建したものである。
正治元年(1199)に上棟し、建仁3年(1203)に竣工した。
入母屋造、五間三戸二重門で、下層は天井がなく腰屋根構造となっている。また屋根裏まで達する大円柱18本は21メートルにも及び、門の高さは基壇上約26メートルもある、いかにも大仏殿にふさわしいわが国最大級の重層門である。
南大門にある金剛力士像は、仏教の守護神である天部(てんぶ=仏の守護神である多くの神々の総称)のひとつで、一般には「仁王像」の名で親しまれている。
金剛力士は古代インドの武器に由来する「金剛杵(こんごうしょ)」と言う法具を持ち、激しい忿怒(ふんぬ)の相で表現され、寺院の門に一対で安置され、仏敵が寺内に侵入するのを防ぐ役割を担う。
二体一組で「阿形(あぎょう)像」と「吽形(うんぎょう)像」から構成され、阿形像の「阿」は宇宙の起源を、吽形像の「吽」は物事の終わりを意味し、二体で世界の始まりと終わりを示しているとされる。
通常は向かって右側に口を開いた「阿形像」、左側に口をへの字に結んだ「吽形像」を配置するが、東大寺南大門の金剛力士像は<左右が逆>の配置で門の内側に向かい合わせに安置されている。
「阿形像」の作者は、慶派一門の「運慶」と「快慶」で、運慶と快慶は鎌倉時代に活躍した仏師であり、鎌倉彫刻の代表作とされている。
この金剛力士像だが、一体を約3000個の部材(パーツ)からなる寄木造(よせぎづくり)で作られているという。
眉間の彫りの深さや法令線、浮き出た血管や筋肉の凹凸、木目を活かした指紋などが細部にわたって表現されており、これらすべては組み立てる前に計算して彫られているのだ。
また、顔だけで110もの数の部材で組み立てられ、強烈な目力を放つ瞳には水晶が入っている。目玉や毛細血管を描きこんだレンズを内側から仏像に嵌めこみ、まるで生きているかの様な印象を造り上げた。
驚くべきことに設計図は存在しせず、斬新な技法を用いて仏像界に革命を起こしたといわれる運慶の、その頭の中だけに存在している設計図を元に組み立てられたのである。
「吽形像」は、定覚(運慶の弟)と湛慶(運慶の長男)が主に担当して造られた。
さらにもうひとつ、「金剛力士立像」には天才「運慶」の知恵による技が施されている。
参拝客が下から像を見上げるということを計算して、阿形像と吽形像は、腰の位置を低くして「5頭身」の短足にわざと作られている、というから凄すぎる。
南大門の金剛力士像は鎌倉時代初期の建仁3年(1203年)7月に造立が始まり、わずか69日間で造られたというから凄い。高さは約8.4メートル、重量が「阿形像」6.7トン、「吽形像」が6.9トン、いずれも写実的で躍動感あふれる威容で参拝客を惹きつけている。
慶派一門の迫力ある「金剛力士像」だけでも、見ごたえ充分だな・・・。まるで絶世の美女ばりに飽かずに見とれてしまったぜ。
さすがは、人気ナンバーワンの東大寺だ。
「オイオイ君たち、なんだ、なんだよ!」
思わず呟いてしまった。
両方の金剛力士像の足元には、鹿たちがだらけてぐだぐだと寝そべり、まるで楽屋で出番を待つベテラン師匠のようだ。
― 続く ―
→「奈良・三輪、大神神社(1)」の記事はこちら
→「奈良・三輪、大神神社(2)」の記事はこちら
→「奈良・三輪、大神神社(3)」の記事はこちら
京都府の神社仏閣数「約4700」まではいかないが、奈良県も約1800ヶ所の神社と、約1400ヶ所の寺、計「3200」の神社仏閣と、予想通り多い。(因みに全国で1番神社仏閣が多いのは愛知県で、約7800ヶ所)
ところで奈良の神社仏閣の人気ベスト5だが、1位「東大寺」、2位「長谷寺」、3位「法隆寺」、4位「大神神社」、5位「東大寺・二月堂」だそうだ。
いや~、参詣を主目的にとしてわたしが既に訪れた2ヶ所(長谷寺と大神神社)ともランクインしているとはなんとも嬉しい限りだ。
「あそこに見える、どデカイ門が南大門だな・・・」
時計をみると、もうすぐ朝の8時だ。 東大寺の拝観時間は、春から秋(4月~10月)が朝7時半から、晩秋から早春(11月~3月)が朝8時からとなっている。
南大門前へとつづく参道脇に並ぶ商店の営業は朝9時からである。
鹿たちも、餌待ちで暇を潰しているようである。鹿にあげられる“餌”として許されている“鹿せんべい”の販売は10時頃からだと、鹿はきっと腹時計でわかっているのだろう。
東大寺、春日大社など、奈良公園エリアには約1200頭の鹿がいるのだ。
天平創建時に東大寺の正門であった南大門は、平安時代に大風で倒壊した。
現在の南大門は鎌倉時代、東大寺を復興した重源上人が、新たに宋様式を採り入れた大仏様によって再建したものである。
正治元年(1199)に上棟し、建仁3年(1203)に竣工した。
入母屋造、五間三戸二重門で、下層は天井がなく腰屋根構造となっている。また屋根裏まで達する大円柱18本は21メートルにも及び、門の高さは基壇上約26メートルもある、いかにも大仏殿にふさわしいわが国最大級の重層門である。
南大門にある金剛力士像は、仏教の守護神である天部(てんぶ=仏の守護神である多くの神々の総称)のひとつで、一般には「仁王像」の名で親しまれている。
金剛力士は古代インドの武器に由来する「金剛杵(こんごうしょ)」と言う法具を持ち、激しい忿怒(ふんぬ)の相で表現され、寺院の門に一対で安置され、仏敵が寺内に侵入するのを防ぐ役割を担う。
二体一組で「阿形(あぎょう)像」と「吽形(うんぎょう)像」から構成され、阿形像の「阿」は宇宙の起源を、吽形像の「吽」は物事の終わりを意味し、二体で世界の始まりと終わりを示しているとされる。
通常は向かって右側に口を開いた「阿形像」、左側に口をへの字に結んだ「吽形像」を配置するが、東大寺南大門の金剛力士像は<左右が逆>の配置で門の内側に向かい合わせに安置されている。
「阿形像」の作者は、慶派一門の「運慶」と「快慶」で、運慶と快慶は鎌倉時代に活躍した仏師であり、鎌倉彫刻の代表作とされている。
この金剛力士像だが、一体を約3000個の部材(パーツ)からなる寄木造(よせぎづくり)で作られているという。
眉間の彫りの深さや法令線、浮き出た血管や筋肉の凹凸、木目を活かした指紋などが細部にわたって表現されており、これらすべては組み立てる前に計算して彫られているのだ。
また、顔だけで110もの数の部材で組み立てられ、強烈な目力を放つ瞳には水晶が入っている。目玉や毛細血管を描きこんだレンズを内側から仏像に嵌めこみ、まるで生きているかの様な印象を造り上げた。
驚くべきことに設計図は存在しせず、斬新な技法を用いて仏像界に革命を起こしたといわれる運慶の、その頭の中だけに存在している設計図を元に組み立てられたのである。
「吽形像」は、定覚(運慶の弟)と湛慶(運慶の長男)が主に担当して造られた。
さらにもうひとつ、「金剛力士立像」には天才「運慶」の知恵による技が施されている。
参拝客が下から像を見上げるということを計算して、阿形像と吽形像は、腰の位置を低くして「5頭身」の短足にわざと作られている、というから凄すぎる。
南大門の金剛力士像は鎌倉時代初期の建仁3年(1203年)7月に造立が始まり、わずか69日間で造られたというから凄い。高さは約8.4メートル、重量が「阿形像」6.7トン、「吽形像」が6.9トン、いずれも写実的で躍動感あふれる威容で参拝客を惹きつけている。
慶派一門の迫力ある「金剛力士像」だけでも、見ごたえ充分だな・・・。まるで絶世の美女ばりに飽かずに見とれてしまったぜ。
さすがは、人気ナンバーワンの東大寺だ。
「オイオイ君たち、なんだ、なんだよ!」
思わず呟いてしまった。
両方の金剛力士像の足元には、鹿たちがだらけてぐだぐだと寝そべり、まるで楽屋で出番を待つベテラン師匠のようだ。
― 続く ―
→「奈良・三輪、大神神社(1)」の記事はこちら
→「奈良・三輪、大神神社(2)」の記事はこちら
→「奈良・三輪、大神神社(3)」の記事はこちら
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