<京都・七条烏丸通、東本願寺>
「『お東さん』は、家康ゆかりの寺なんだな・・・・。しかしここの山門もデカイなあ!」
木造建築の山門としては世界最大級、二重門としては日本一の高さと言われている東本願寺の「御影堂門(ごえいどうもん)」だ。
なお、東本願寺は通称で正式名称は「真宗本廟(しんしゅうほんびょう)」、愛称は「お東さん」という。JR「京都」駅からは徒歩7分くらい、と近い。
正直言って、京都駅のすぐ近くにある東本願寺と西本願寺には、露ほども行ってみたいと一度も思ったことはなかった。ところが、本願寺が二つに別れた理由を知るに至って、急に興味を持ってしまい訪れてみたのだ。(拝観料が無料というのもあるけどね)
それは、織田信長と「石山本願寺」との争い(1570年~1580年)まで遡る。
「石山(上町台地=現在の大阪城付近)」は戦国の世を平定するために重要な地で、織田信長はこの土地を何が何でも手に入れたかったのである。
宗祖・親鸞が長年修業した延暦寺がある比叡山を、ためらうことなく火の海にし、僧侶や女子供を見つけ次第首を刎ねた、あの魔王・信長の標的としてロックオンされたのだから緊急事態である。
石山本願寺では、宗主「顕如」と三男「准如」は信長との<和睦>を主張し、顕如の長男「教如」は<徹底抗戦する>という主張で意見が対立する。
顕如は最終的に和睦を決め、石山本願寺を信長に明け渡し、宗主の座を長男ではなく三男の「准如」に譲る。
信長が本能寺の変で討たれた後、和睦を決めた「顕如」は豊臣秀吉から七条堀川に土地の寄進を受け「西本願寺」を建立。
一方、徹底抗戦を主張した「教如」は、徳川家康より七条烏丸に土地の寄進を受けて「東本願寺」を建立した。
こうして<石山合戦>における宗門内の対立と跡継ぎ問題が複雑に絡み、徳川家康の時代に、本願寺は「東」と「西」に分裂してしまったのである。
御影堂門は東本願寺の正門で、門によく見られる木製の敷居がないことは、誰にでも開かれていることを表している。
門を入ると、正面には、宗祖・親鸞聖人の御真影が安置される「御影堂(ごえいどう)」。
こちらも世界最大級の木造建築で、堂内の畳の数は927枚あるというからだだっ広い。
「阿弥陀堂」は御影堂の南側、すぐ隣にあり、本尊の阿弥陀如来を安置している。こちらも大きな建物なのだが、御影堂があまりに巨大すぎるのでちょっと判然としない。
現在の両堂は明治28年(1895年)に再建されたもので、その際に巨大な用材を引き上げるため、門徒から寄進された毛髪と麻を撚り合わせて作った<毛綱>も残されているそうだ。
「阿弥陀堂門」は江戸時代には「唐門」と呼ばれていた、切妻造・唐破風付の四脚門形式の門で、幕末の火災による焼失後、明治期に再建されたものである。
御影堂門、御影堂、阿弥陀堂と、無料の拝観にしてはけっこう見ごたえがあったと満足する。
阿弥陀堂門を出て寺の北側を廻り込み、次の目的地である西本願寺へ向かおうと歩いていると、烏丸通側に門をもうひとつ見つけた。
門扉に金色の大菊花を浮き彫りにしているこの門は「菊門」といい、その昔には、朝廷からの勅使が使用したため「勅使門」とも呼ばれたそうである。
なんとも素敵なオマケじゃないか。
→「東本願寺別邸、渉成園(1)」の記事はこちら
→「東本願寺別邸、渉成園(2)」の記事はこちら
→「東本願寺別邸、渉成園(3)」の記事はこちら
→「京都・七条堀川通、西本願寺」の記事はこちら
「『お東さん』は、家康ゆかりの寺なんだな・・・・。しかしここの山門もデカイなあ!」
木造建築の山門としては世界最大級、二重門としては日本一の高さと言われている東本願寺の「御影堂門(ごえいどうもん)」だ。
なお、東本願寺は通称で正式名称は「真宗本廟(しんしゅうほんびょう)」、愛称は「お東さん」という。JR「京都」駅からは徒歩7分くらい、と近い。
正直言って、京都駅のすぐ近くにある東本願寺と西本願寺には、露ほども行ってみたいと一度も思ったことはなかった。ところが、本願寺が二つに別れた理由を知るに至って、急に興味を持ってしまい訪れてみたのだ。(拝観料が無料というのもあるけどね)
それは、織田信長と「石山本願寺」との争い(1570年~1580年)まで遡る。
「石山(上町台地=現在の大阪城付近)」は戦国の世を平定するために重要な地で、織田信長はこの土地を何が何でも手に入れたかったのである。
宗祖・親鸞が長年修業した延暦寺がある比叡山を、ためらうことなく火の海にし、僧侶や女子供を見つけ次第首を刎ねた、あの魔王・信長の標的としてロックオンされたのだから緊急事態である。
石山本願寺では、宗主「顕如」と三男「准如」は信長との<和睦>を主張し、顕如の長男「教如」は<徹底抗戦する>という主張で意見が対立する。
顕如は最終的に和睦を決め、石山本願寺を信長に明け渡し、宗主の座を長男ではなく三男の「准如」に譲る。
信長が本能寺の変で討たれた後、和睦を決めた「顕如」は豊臣秀吉から七条堀川に土地の寄進を受け「西本願寺」を建立。
一方、徹底抗戦を主張した「教如」は、徳川家康より七条烏丸に土地の寄進を受けて「東本願寺」を建立した。
こうして<石山合戦>における宗門内の対立と跡継ぎ問題が複雑に絡み、徳川家康の時代に、本願寺は「東」と「西」に分裂してしまったのである。
御影堂門は東本願寺の正門で、門によく見られる木製の敷居がないことは、誰にでも開かれていることを表している。
門を入ると、正面には、宗祖・親鸞聖人の御真影が安置される「御影堂(ごえいどう)」。
こちらも世界最大級の木造建築で、堂内の畳の数は927枚あるというからだだっ広い。
「阿弥陀堂」は御影堂の南側、すぐ隣にあり、本尊の阿弥陀如来を安置している。こちらも大きな建物なのだが、御影堂があまりに巨大すぎるのでちょっと判然としない。
現在の両堂は明治28年(1895年)に再建されたもので、その際に巨大な用材を引き上げるため、門徒から寄進された毛髪と麻を撚り合わせて作った<毛綱>も残されているそうだ。
「阿弥陀堂門」は江戸時代には「唐門」と呼ばれていた、切妻造・唐破風付の四脚門形式の門で、幕末の火災による焼失後、明治期に再建されたものである。
御影堂門、御影堂、阿弥陀堂と、無料の拝観にしてはけっこう見ごたえがあったと満足する。
阿弥陀堂門を出て寺の北側を廻り込み、次の目的地である西本願寺へ向かおうと歩いていると、烏丸通側に門をもうひとつ見つけた。
門扉に金色の大菊花を浮き彫りにしているこの門は「菊門」といい、その昔には、朝廷からの勅使が使用したため「勅使門」とも呼ばれたそうである。
なんとも素敵なオマケじゃないか。
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