4月の末、朝ケイタイが鳴って、出ると鼻にテイッシュを当てた娘が画面に映った。
「母さん、父さんと離婚したの何歳の時?」藪から棒に聞いてきた。
「えーーと、22で結婚して7年めだから、、29さい」「へ~そんな年だった、」
そういいながら、テイッシュで鼻を拭き拭き泣いている。(どした、どした?、、、)
「コンサート行って、最後の曲に泣かされた。次の日違う場所で、また同じ曲聞かされて泣いた。」
あらま、この娘泣かすような曲、いったい何だ?数日たってもまだ思い出しては涙が溢れ出る曲って?
話から推測すると、「父さんの子守歌」という曲だった。30年も昔にいつも口ずさんでいた。
私の子どもたちへ ---父さんの子守唄--- 詩・曲 笠木 透
①生きている鳥たちが 生きて飛び回る空を あなたに残しておいてやれるだろうか父さんは
目を閉じてごらんなさい 山が見えるでしょう 近づいてごらんなさい 辛夷の花があるでしょう
②生きている魚たちが 生きて泳ぎ回る川を あなたに残しておいてやれるだろうか 父さんは
目を閉じてごらんなさい 野原がみえるでしょう 近づいてごらんなさい リンドウの花があるでしょう
③生きている君たちが 生きて走り回る土を あなたに残しておいてやれるだろうか 父さんは
目を閉じてごらんなさい 山がみえるでしょう 近づいてごらんなさい 辛夷の花があるでしょう
平成元年9月、7歳の娘を連れて三重県津市のヤマギシの村に参画した。
4年生の息子は絶対行かない!と抵抗し、やむなく、しかしこの人にしか頼めないと別れた夫に託した。
「嫌だったけど母さんがひとりになると思ったから村に行くって決めた」あとから娘がつぶやいたっけ。
名古屋に向かう新幹線の中で、娘は持っていた歌集を開き、この歌を歌ってと母にせがんだ。
「母さん、泣いて、泣きながら歌って、ボロボロ泣いて、、それを突然思い出した。。」と言い泣いている。
「え~~~!!全然覚えてない!」 しかし、今、娘を泣かせているのは、その場面の記憶だと知り驚く。
7歳の娘はその日から大好きな兄と別れて暮らすことになる。その前には大好きな父とも離れてしまった。
あの頃、東京の学校は荒れていた。バブル崩壊前の社会も混迷の中だった。
子供達に健全な未来を残さなければ、と強く思った時期に知った村に参画したのは必然だった。
新しい社会を顕現しようと試みる村の理念に深く共鳴し、同じ思いで参画した仲間との日々は充実していた。
ワタシを含めたスベテノ人が幸福になる未来社会の顕現ばかりを夢中で研鑽し模索した10年だった。
だが、振りかえれば未来を思うがあまり、肝心な”今”の娘や息子の胸の内に寄りそい歩むことを怠った。
7歳の娘が胸に仕舞いこんだ様々な思いが、30年の時を経てこの歌で溢れ出て涙になって流れていく。
新幹線の中で流れ続けた自分の涙がどこから来たのかまったく思い出せないが、少し安心した。
あの頃は泣いている暇はなく、前しか見ていないと思っていたけれど、そうじゃなかったんだ、、、、、
娘よ、母の我儘に付き合ってくれてありがとう。息子よ、母は君を胸に思い切り生きることができたんだよ。
二人とも目の前の家族とすごす「今」を大切に、愛に満ちた美しい人生を送ってほしい。願いはそれだけ。
平成31年4月 娘の涙で浄化した平成に別れを告げ愛と感謝をささげる。
令和が清々しく安らかな時代でありますように。
実現のためには、じいさんの暴言・理不尽にも、心をサラサラと清々しく調え、ヘラヘラ生きる訓練あるのみだ。。。
「母さん、父さんと離婚したの何歳の時?」藪から棒に聞いてきた。
「えーーと、22で結婚して7年めだから、、29さい」「へ~そんな年だった、」
そういいながら、テイッシュで鼻を拭き拭き泣いている。(どした、どした?、、、)
「コンサート行って、最後の曲に泣かされた。次の日違う場所で、また同じ曲聞かされて泣いた。」
あらま、この娘泣かすような曲、いったい何だ?数日たってもまだ思い出しては涙が溢れ出る曲って?
話から推測すると、「父さんの子守歌」という曲だった。30年も昔にいつも口ずさんでいた。
私の子どもたちへ ---父さんの子守唄--- 詩・曲 笠木 透
①生きている鳥たちが 生きて飛び回る空を あなたに残しておいてやれるだろうか父さんは
目を閉じてごらんなさい 山が見えるでしょう 近づいてごらんなさい 辛夷の花があるでしょう
②生きている魚たちが 生きて泳ぎ回る川を あなたに残しておいてやれるだろうか 父さんは
目を閉じてごらんなさい 野原がみえるでしょう 近づいてごらんなさい リンドウの花があるでしょう
③生きている君たちが 生きて走り回る土を あなたに残しておいてやれるだろうか 父さんは
目を閉じてごらんなさい 山がみえるでしょう 近づいてごらんなさい 辛夷の花があるでしょう
平成元年9月、7歳の娘を連れて三重県津市のヤマギシの村に参画した。
4年生の息子は絶対行かない!と抵抗し、やむなく、しかしこの人にしか頼めないと別れた夫に託した。
「嫌だったけど母さんがひとりになると思ったから村に行くって決めた」あとから娘がつぶやいたっけ。
名古屋に向かう新幹線の中で、娘は持っていた歌集を開き、この歌を歌ってと母にせがんだ。
「母さん、泣いて、泣きながら歌って、ボロボロ泣いて、、それを突然思い出した。。」と言い泣いている。
「え~~~!!全然覚えてない!」 しかし、今、娘を泣かせているのは、その場面の記憶だと知り驚く。
7歳の娘はその日から大好きな兄と別れて暮らすことになる。その前には大好きな父とも離れてしまった。
あの頃、東京の学校は荒れていた。バブル崩壊前の社会も混迷の中だった。
子供達に健全な未来を残さなければ、と強く思った時期に知った村に参画したのは必然だった。
新しい社会を顕現しようと試みる村の理念に深く共鳴し、同じ思いで参画した仲間との日々は充実していた。
ワタシを含めたスベテノ人が幸福になる未来社会の顕現ばかりを夢中で研鑽し模索した10年だった。
だが、振りかえれば未来を思うがあまり、肝心な”今”の娘や息子の胸の内に寄りそい歩むことを怠った。
7歳の娘が胸に仕舞いこんだ様々な思いが、30年の時を経てこの歌で溢れ出て涙になって流れていく。
新幹線の中で流れ続けた自分の涙がどこから来たのかまったく思い出せないが、少し安心した。
あの頃は泣いている暇はなく、前しか見ていないと思っていたけれど、そうじゃなかったんだ、、、、、
娘よ、母の我儘に付き合ってくれてありがとう。息子よ、母は君を胸に思い切り生きることができたんだよ。
二人とも目の前の家族とすごす「今」を大切に、愛に満ちた美しい人生を送ってほしい。願いはそれだけ。
平成31年4月 娘の涙で浄化した平成に別れを告げ愛と感謝をささげる。
令和が清々しく安らかな時代でありますように。
実現のためには、じいさんの暴言・理不尽にも、心をサラサラと清々しく調え、ヘラヘラ生きる訓練あるのみだ。。。
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