
渡河布袋図 橋本雅邦筆
絹本水墨淡彩額装
全体サイズ:横*縦 画サイズ:横503*縦385
昨日は自転車で、近くの図書館まで行って来ました。
与野の図書館ということであまり蔵書はないだろうと思っていましたが、結構たくさんありました。すぐに登録、3冊借りてきました。もちろん、趣味の本・・苦手の中国絵画を含む
橋本雅邦の作品はその1、その2に引き続き3作目となりました。
私のブログ内でもリンクできる作品が増えてきました。
布袋で2作品、橋本雅邦で2作品、狩野芳崖で1作品、勝川院で1作品・・。
本印章は別号克己斎の「克」で明治35年頃の作品などに見られます。

どのような技法で描かれたか分らないような墨の濃意部分と淡いかすれた部分があり、筆の妙技と思われます。
愛嬌のある布袋さんを楽しめる作品です。
布袋様の絵も3作目になりました。
古画 布袋図 紙本水墨額装 画サイズ:横225*縦440
布袋之図 狩野常信筆 絹本淡彩絹装軸時代箱入 画サイズ:横362*縦305

布袋:中国四明山の僧で体が肥満して腹大きく、日用の一切を詰めた大きな袋と杖を持って、悠然と市中を歩いた。それを布袋和尚と呼んだ。
その円満な表情は古来より画題として好まれ多くの画家に描かれた。
布袋童子、眠り布袋、月見布袋、騎牛布袋、渡水布袋、踊り布袋などその画題は多い。また、江戸期になって七福神に数えられた。作品で有名なのは、梁楷筆「踊布袋」、伝牧谿筆「眠布袋」、伝李確筆「腹なで布袋」(妙心寺蔵)、因陀羅筆(根津美術館蔵)、黙庵筆(住友家蔵)、狩野元信筆「崖下布袋」がある
橋本雅邦:天保6年(1835年)~明治41年(1908年)、明治期の日本画家。
幼名は千太郎。号は勝園。父の橋本養邦(はしもとおさくに)は松平周防守の御用絵師であり、木挽町狩野家の高弟として同家の邸内に一家を構えていた。
12歳の時に正式に木挽町絵所の当主である狩野栄信(伊川院)に入門する。ただし栄信はこの一月後に没したため、実際には狩野雅信(勝川院)を師としたと見てよい。
またこの時同日に狩野芳崖も入門しており、生涯の親友となる。両者は早くに頭角をあらわし、「勝川院の二神足」と称されたとされている。
しかし当時既に絵画の需用は少なく、狩野派の絵師としての活動はほとんど出来なくなり、転機となったのはフェノロサによる伝統絵画の復興運動であり、フェノロサの庇護を受けていた芳崖と共に新しい表現技法を模索するようになる。
明治17年(1884年)にフェノロサが鑑画会を発足すると早い時期から参加し、盛んに制作を行うようになる。帝室技芸員制度が発足すると第一次のメンバーに選ばれ、これにより名実ともに当時の絵画界の最高位に登り詰めた。
しかし明治31年(1898年)には岡倉が罷免され(美術学校騒動)、雅邦も職を辞し日本美術院の創立に参加した。以後は在野でありながらも画壇の重鎮として重んじられ、美術院の活動の傍ら後続の指導などを行っている。明治41年(1908年)に死去。
絹本水墨淡彩額装
全体サイズ:横*縦 画サイズ:横503*縦385
昨日は自転車で、近くの図書館まで行って来ました。
与野の図書館ということであまり蔵書はないだろうと思っていましたが、結構たくさんありました。すぐに登録、3冊借りてきました。もちろん、趣味の本・・苦手の中国絵画を含む

橋本雅邦の作品はその1、その2に引き続き3作目となりました。
私のブログ内でもリンクできる作品が増えてきました。
布袋で2作品、橋本雅邦で2作品、狩野芳崖で1作品、勝川院で1作品・・。
本印章は別号克己斎の「克」で明治35年頃の作品などに見られます。

どのような技法で描かれたか分らないような墨の濃意部分と淡いかすれた部分があり、筆の妙技と思われます。
愛嬌のある布袋さんを楽しめる作品です。
布袋様の絵も3作目になりました。
古画 布袋図 紙本水墨額装 画サイズ:横225*縦440
布袋之図 狩野常信筆 絹本淡彩絹装軸時代箱入 画サイズ:横362*縦305

布袋:中国四明山の僧で体が肥満して腹大きく、日用の一切を詰めた大きな袋と杖を持って、悠然と市中を歩いた。それを布袋和尚と呼んだ。
その円満な表情は古来より画題として好まれ多くの画家に描かれた。
布袋童子、眠り布袋、月見布袋、騎牛布袋、渡水布袋、踊り布袋などその画題は多い。また、江戸期になって七福神に数えられた。作品で有名なのは、梁楷筆「踊布袋」、伝牧谿筆「眠布袋」、伝李確筆「腹なで布袋」(妙心寺蔵)、因陀羅筆(根津美術館蔵)、黙庵筆(住友家蔵)、狩野元信筆「崖下布袋」がある
橋本雅邦:天保6年(1835年)~明治41年(1908年)、明治期の日本画家。
幼名は千太郎。号は勝園。父の橋本養邦(はしもとおさくに)は松平周防守の御用絵師であり、木挽町狩野家の高弟として同家の邸内に一家を構えていた。
12歳の時に正式に木挽町絵所の当主である狩野栄信(伊川院)に入門する。ただし栄信はこの一月後に没したため、実際には狩野雅信(勝川院)を師としたと見てよい。
またこの時同日に狩野芳崖も入門しており、生涯の親友となる。両者は早くに頭角をあらわし、「勝川院の二神足」と称されたとされている。
しかし当時既に絵画の需用は少なく、狩野派の絵師としての活動はほとんど出来なくなり、転機となったのはフェノロサによる伝統絵画の復興運動であり、フェノロサの庇護を受けていた芳崖と共に新しい表現技法を模索するようになる。
明治17年(1884年)にフェノロサが鑑画会を発足すると早い時期から参加し、盛んに制作を行うようになる。帝室技芸員制度が発足すると第一次のメンバーに選ばれ、これにより名実ともに当時の絵画界の最高位に登り詰めた。
しかし明治31年(1898年)には岡倉が罷免され(美術学校騒動)、雅邦も職を辞し日本美術院の創立に参加した。以後は在野でありながらも画壇の重鎮として重んじられ、美術院の活動の傍ら後続の指導などを行っている。明治41年(1908年)に死去。
橋本雅邦というと仏画や竜虎のイメージですが、こんな愛嬌のある絵を描いていたとは、意外、Nice!!
孤島談義? …たぶん、骨董談義。
だいたい、ブログ投稿は夜間か朝方・・
人間ドック・・肝臓が弱っているらしい