本日はちょっと使い勝手のよさそうで、面白そうな2作品を入手したので紹介します。
一見すると伊万里の瑠璃釉と備前の陽刻の作品と思いますが、どうも古九谷系統の可能性があるらしい・・😍
伝古九谷(前期伊万里) 瑠璃釉金銀彩草花文楕円皿
金繕補修跡有 時代:江戸前期 合箱
裏銘:誉福(俗称:誉窯銘?) 幅171*奥行110*高さ26
古九谷と称するその作品群にひとつである色絵古九谷は初期伊万里のすぐ後の伊万里、日本初の色絵磁器と位置づけされています。
そこから驚異的な技術進歩により日本初の色絵磁器が発展しましたが、各々は「染付は藍九谷、錆釉は吸坂、青磁釉・瑠璃釉・白磁は古九谷に区分」とされ、いずれも1640年代?1670年代前後の作品です。
始まったばかりの色絵古九谷は、国内の一握りの富裕層、諸藩の藩主や豪商達による大量需要により、驚異的な進歩を遂げたと考えられます。様々な技術や様式が生まれ、淘汰され、後の時代に繋ぎました。伊万里における古九谷と称している作品群のすぐ後の柿右衛門様式は、延宝期に確立されたと言われています。柿右衛門様式の登場で古九谷は役目を終え終了します。
この江戸色絵古九谷と称する作品群には大別すると数種の分類があります。上手の五彩手古九谷を有する色絵古九谷(祥瑞手を含む)、特殊な色彩の青手古九谷、主に金銀彩と朱を使った金銀彩古九谷、南京赤絵を手本にした南京手古九谷です。
この中で特殊な色彩の青手古九谷は伊万里なのか、九谷なのかという産地の議論はありますが、主に金銀彩と朱を使った金銀彩古九谷と称する作品は古伊万里前期のものと考えらえらます。
本作品は金銀彩古九谷と分類される色絵古九谷という分類もありますが、藍九谷と同様に古伊万里前期ということです。古九谷と称する時代は、様々な技術や様式が生まれ、淘汰された興味深い時代(1640年?1670年前後)です。
本作品と同じ高台内の(銘誉福 俗称:誉窯銘?)は藍九谷(前期伊万里)の作品にも見られます。いずれにしろ有田で作られた作品で、初期伊万里のすぐ後で古伊万里とするのか、古九谷になるのかは各々の考え方次第ということになりましょうが、本来は古伊万里の分類で、さらに分類するなら前期伊万里というのが妥当な分類だと思います。
初期伊万里、初期古伊万里、初期色絵という時代は古九谷と言う呼称とともに非常に混同する作品群と言えるのでしょう。
本作品の同手の作品はときおり見かけますが、古伊万里と称するより古九谷と称しているのが多いようです。ただ瑠璃釉の発祥はやはり古伊万里からでしょうね。
瑠璃釉については下記の記事を本ブログに掲載しています。
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瑠璃釉:本焼用の透明釉の中に呉須を入れて作る瑠璃色の釉薬。単に瑠璃と呼ぶ場合は、釉薬を意味する場合と、瑠璃釉の掛かった作品を指す場合がある。陶器に用いられることはほとんどなく、磁器によく使われる。染付が作られている窯場は、同じ呉須を使うため基本的には瑠璃釉が用いられた可能性がある。
有田では17世紀前半の、いわゆる初期伊万里の時代から瑠璃釉が用いられている。初期の瑠璃釉は比較的淡い色調であり、17世紀後半以降には紺色の色調のものに移行する。ただし1650から60年代には淡い色調の瑠璃釉が多く見られる。この場合、薄く濃みをした染付と淡い色調の瑠璃を区別しにくい。染付によって薄く塗られたものを薄瑠璃と呼んでいるが、これは瑠璃釉の薄いものと混同されている。
瑠璃と薄瑠璃の区別は、釉薬そのものが瑠璃色であるものが瑠璃であり、染付で薄く濃みをしたあと透明釉を掛けたものを薄瑠璃と見なすことが出来る。断面を見れば、素地の上に藍色の釉薬があるのが瑠璃であり、素地の上に藍色の呉須がありさらにその上に透明の釉薬があるのが薄瑠璃である。薄瑠璃は染付の一種であり、瑠璃は色釉であるところに違いがある。しかし1650から60年代の有田磁器においては、淡い瑠璃釉を施したあとからさらに透明釉を掛けることが多いので難しいのである。藍色の瑠璃釉に赤や金の上絵付けをする作品も多い。地の色が濃いので上絵付けが目立たないが、白地に色絵とはまた違った趣がある。
「色の瑠璃釉に赤や金の上絵付けをする作品」に該当するのが本作品でしょう。
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さらにここで冒頭で記述した「錆釉は吸坂」という作品群もあります。下記の作品は吸坂手かどうかは不明で、最初は備前かと思いました。獅子の陽刻はまるで細工物の備前のようですから・・。
伝古九谷(前期伊万里) 伝吸坂釉獅子二牡丹図木葉型皿
時代:江戸前期 合箱
幅115*奥行115*高さ25
この作品が「古九谷(前期伊万里) 吸坂手」か否かはさておいて、この錆釉の作品も古九谷と称しています。実際は同じく古伊万里前期のものなのでしょう。
ただし九谷産吸坂手という作品群も存在ますので、分類は面倒くさくなります。それらは古九谷と等しく大聖寺城内(加賀市)において絵付されたと伝えられ、古九谷の着彩の一手に吸坂古九谷と称すべきものがあります。
吸坂産素地の全面に南京風の柿釉を施し、その中を円く抜き白地を露わしてその部分に色絵または赤だけで文様を描いたもの、柿釉と白磁を片身替りとし染付絵を加えたもの、柿釉と瑠璃とを染め分けて文様としたもの、またまれに備前風の妬器の上に絵呉須だけで黒絵を描いたもの、白磁に色絵を付けたものなどがあります。なおその継続年限にも諸説がありますが、元禄(1688-1704)初年の古九谷の廃絶以前あるいは同時に絶えているとされています。
以上のようなことも単に青手や再興九谷を論じて古九谷を理解していたつもりでいると意外に古九谷という分野は途方もなく広く広義に使われていることに気がつきませんね。
本作品は牡丹に獅子が陽刻で作られていますが、備前なら理解できますが、吸坂手にそのような作品は見たことがありませんね。
本ブログには以前に伝吸坂手の作品として下記の作品を紹介しています。この作品は技巧にも優れ、全体にも落ち着いた釉薬の趣です。
古九谷様式? 伝吸坂手錆釉山水文瓢形徳利
古箱入
口径約30*最大胴径105*底径*高さ195
吸坂窯も文献による記事は下記のとおりです。
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吸坂窯:江沼郡吸坂村(現在の加賀市吸坂町 大聖寺の東北約2キロメートルの丘陵地)にあったといわれていましたが、この窯に関しては不明なことが多く、今後、究明されることが必要とされています。この窯の興亡について、『秘要雑集』『大聖寺御算用場年代記』『茇憩紀聞』などから、まずは、貞享2年(1685)、久保次郎兵衛が吸坂村に築窯し製陶を始めましたが、窯がいつのまにか休止となったこと、元禄13年(1700)、製陶を再開するため燃料用の松木を購入したいと松奉行に願い出て許可されたものの、半年後に窯が閉じられたこと、そして、天保期に吸坂村の源太郎が瓦と陶器を焼きましたが、天保15年(1844)までには窯が閉じられたこと、などがわかります。窯跡は2基見つかったものの、耕地整理の行われたため破壊されています。
この技巧に優れた生掛け焼成による柔らかい釉調の鉄釉作品はこの石川県加賀市の吸坂地区で焼成されたとの説が唱えられ、その地名から「吸坂」と名付けられました。しかし、有田古窯跡の山小屋や百間窯等で、吸坂とされる鉄釉陶片が確認された事によって誤認である事が立証されました。鉄釉を主体とした吸坂は有田産という事が確定されていますが、 現在も「吸坂(すいさか)」という地名を冠した呼称は残っています。吸坂焼と称されるやきものは、釉は鉄釉・柿釉・錆釉・瑠璃釉・灰釉などが使われ、茶道具類や徳利・皿・鉢などの飲食器類などが伝わっています。
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同じ吸坂手と称る作品群でも「釉は鉄釉・柿釉・錆釉・瑠璃釉・灰釉などが使われ、茶道具類や徳利・皿・鉢などの飲食器類などが伝わっています。」と釉薬についても様々で「生掛け焼成による柔らかい釉調の鉄釉作品」だけではなさそうです。本日のような作品のように色艶にも違いのあるものも有り得るかもしれません。いずれにしても坂吸手の窯には陽刻に優れた陶工がいたようです。