いつも訪問している 「 おばさん 」 のブログで見た “ やぶれ万十 ” 。
今日、隊員カレーを買いに行ったので、
「 買ってみるか! 」 と手にしたわけである。
中身のあんこが押すな押すなの満員列車のわりに、
見た目ほど甘ったらしくない “ 美味しいまんじゅう ” であった。
このところ暑い中の労働で疲れていたので、久し振りにほど良い糖の補給となった。
熊本に住んでいたときに最初に練習に行った場所が御船町である。
その当時から 「 永山盛弘の戦没の地 」 は気になるものだった。
今でも石橋の探訪などで御船を訪れることが多いが、その度にこの場所を通った。
以前は御船の街中を通る国道445号線に面した場所に建っていたが、
一時はこの路標が無い時期があった。
少し場所が移動したが、こうして建っていると安心する。
確かな記憶ではないが、僕が熊本に行った当時は、
御船クリニックではなくて、個人病院の名前だったような気がする。
永山( 弥一郎 )盛弘、戦没の地は、
御船クリニックの駐車場に建てられている。
永山は薩軍三番大隊長として従軍。
衝背軍が日奈久、洲口に上陸したとの報が入ると、
一隊を率いて応戦したが衆寡敵せず敗走した。
そして4月12日の御船の戦いにおいて、薩軍の敗北が決定的になると、
民家を老婆から譲り受け、家に火を放って自刃。
当時40歳だったと云われている。
碑の説明文には大小荷駄を務めていた税所篤信も永山に殉じたと云われている。
この自決の地から300mほどの場所にある妙見坂を登って行くと、
右手に薩軍兵士の墓がある。
おそらく西南の役が終結し、時が経ってから生き残った薩軍兵士か
地元の人がひとつひとつ弔い建てたものだろう。
御船の辺田見から甲佐へ抜ける妙見坂トンネルが30年ほど前に開通してから
兵士たちが眠る妙見坂を通る車も少なくなった。
永山が下野したのは征韓論はなく、明治8年の樺太・千島交換条約の時であった。
鹿児島に帰郷後も私学校とは深く関係を持たず、
政府を批判する輩に 「 お前達は政府のことを知ってのことか?
我々が思っていることが全て正しいとは言えぬぞ 」 と述べ、
さらに 「 彼ら ( 明治政府 ) は日々進歩している 」 と彼らを諭したと云う。
これらの発言が永山では無く、ほかの者が公言したら斬られていたかも知れぬ。
しかし、永山は血気盛んな者達にも信頼されており、
城下の老若男女からも慕われていた。
これも永山の人柄であろう。
私学校が暴発した時も永山は出兵に反対し、自宅に待機していたが、
桐野利秋 ( 中村半次郎 ) の説得により立ち上がった。
永山は薩軍の戦況が危うくなってきた時でも 「 だから出兵に反対したのだ 」 とは一切言わず、
指揮を執り続けた。
彼の死後、薩軍は熊本から撤退し、巻き返しの策も実らずに鹿児島の城山で敗戦を迎えた。
鹿児島の南州墓地にある 「 永山盛弘の墓 」
築上町のメタセの杜から、ほんの少し森の中に入ると森の精に出会うような場所に遭遇する。
毎年、この時季に防衛施設庁の草刈りをする。
約20町歩の面積を刈るのだが、
移転跡地に植えられたメタセコイアの中と、その周囲を中心に刈る。
それは大の大人が泣きそうになるくらいキツくて辛い作業である。
今年は、デイサービスの基礎工事をしているので、草刈りの仕事を落札しなかったが、
「 あの草刈りを今年もしなければならない 」 と思っただけでもゾッとする。
メタセコイア スギ科 アケボノスギ属
原産地 : 中国
一昨日、テレビで紹介されていた築城基地「隊員食堂カレーの牛すじ入り」が発売された。
昨日は夕方まで仕事だったので、今日メタセの杜まで買いに行って来た。
レトルトのカレーに手づくりカレー以上の味を求めるのはタブーだが、
今までの隊員カレーに比べて牛すじが入っただけで、
ボリュームもコクも出ていて、美味しいと思った。
値段は市販のカレーよりもやや高めだが、それでもたまに買って食べてみたいと思う。