「 九州 ・ 沖縄 ぐるっと探訪 」

九州・沖縄・山口を中心としたグスク(城)、灯台、石橋、文化財および近代土木遺産をめぐる。

沖縄県那覇市壷屋 / うちなー茶屋 「ぶくぶく茶」

2015-01-14 04:59:41 | 沖縄
















































那覇市壷屋の「すーじー小(ぐわ)」を抜けて突き当たると、
そこに「うちなー茶屋ぶくぶく」がある。

ぶくぶく茶は沖縄にしかないお茶であり、
ソフトクリームのような泡を飲む、珍しいお茶です。
古くから歴史のあるお茶ですが、戦後40年以上姿を消していたため、
「幻のお茶」と呼ばれていました。


○ ぶくぶく茶の名前の由来

ぶくぶく茶という名前は、泡がぶくぶくしていることから付けられたようです。
ちなみに、沖縄の方言では泡のことを「アーブク」といいます。

さらに調べてみますと、安次富順子先生著書の「ブクブクー茶」では、
鹿児島徳之島の振り茶である、「フィチャ」を徳之島では「ブク」と呼ぶことから
振り茶の一種であるぶくぶく茶の名前が沖縄で変容したのか…などと書かれています。

○ ぶくぶく茶はいつどこで、どのように飲まれていたのか

ぶくぶく茶は、明治時代から昭和の戦前まで、沖縄県の那覇だけで飲まれていました。
那覇の東町の布売り市場で、頭にチリデー(お盆)をのせたぶくぶく茶売りが、
ぶくぶく茶を売り歩いていました。とくに夏場は人気があったそうです。

また、中流以上の家庭において、家族の誕生日祝いや出産祝い、
新築祝いなどといった 内輪のお祝いに、ぶくぶく茶が飲まれていました。

「旅立ちの日に ぶくぶくのお茶や旅の嘉利(かり)なむん 立ててみぐらしばもとの泊」 という歌もあり、

船で旅立つときには、ぶくぶく茶を立てて再会を願ったそうです。
嘉利(かーりー)とは、縁起が良いという意味です。

ぶくぶく茶を立てる「ブクブクタティヤー」という専門家もいて、
床にタライをおいて そのなかにブクブクー皿をおいて、泡立てることもありました。
ぶくぶく茶を立てるには、時間がかかり疲れるので、
右足をたてて、右ひざの上に手を乗せてぶくぶく茶を立てていました。

ぶくぶく茶には、油っぽい食事の消化を助ける働きもあります。
多い人では、ぶくぶく茶を10杯、20杯とおかわりしたそうです。

第二次世界大戦前はよく飲まれていたぶくぶく茶でしたが、戦後はすたれてしまいました。
ぶくぶく茶がすたれてしまったのは、ぶくぶく茶を作る道具が戦争で焼けてしまったり、
ぶくぶく茶を立てる水を選ぶのが難しかったり、
煎り米を作るのに時間がかかるなどの理由があげられています。

○ 復活したぶくぶく茶

第二次世界大戦後、姿を消していたぶくぶく茶が復活したきっかけとは、
今は亡くなってしまったのですが沖縄に住んでいたAさん(仮名)が、
ブクブクー皿と茶せんを東京の知人にプレゼントしました。
その後、ブクブクー皿と茶せんが戦争で焼けてなくなってしまったことを知り、
知人がAさんに返してくれたそうです。
そして、Aさんがぶくぶく茶を家で 立てて楽しんでいたのを、
のちに沖縄伝統ブクブクー茶保存会の会長となる方が知り、
研究や情報収集を重ねて、ぶくぶく茶を復興させたそうです。

たった一つ残っていたブクブクー皿と茶せんを同じ寸法で復元させたり、
茶せんの振り方やお米、水のことなどたくさんの研究を重ね、
ついに沖縄のさんご礁(琉球石灰岩)が含まれた硬度の高い水でないと
良い泡がたたないことが分かりました。

日本の名水百選に選ばれた、玉城村の垣花樋川(かきのはなひーじゃー)の水が
とくに良い泡が出るそうです。
ぶくぶく茶は泡が命なので、この発見はとても大きなものだったでしょう。
沖縄の硬度が高い水のほかにも、市販の高度が高いミネラルウォーターも利用できるそうです。
沖縄伝統ブクブクー茶保存会の方がおっしゃっていましたが、
フランスのエビアン(硬度250以上)などのミネラルウォーターが合うと話されていました。

こうして、ぶくぶく茶は再び沖縄で広まることになったのです。


沖縄県今帰仁村 「 ウッパマビーチの夕方と夜 」

2015-01-14 04:58:41 | 沖縄











朝日が昇る古宇利大橋の夜明け







向こうに古宇利島を望む








































今帰仁村のホテル・ベルパライソの前に古宇利島との間に広がるウッパマビーチは
プライベートな空間である。
このホテルは北部のグスクや伊平屋や伊是名に行くときによく利用するが、
オーシャンビューで眺めが良いのが特徴である。




1月13日 「 それぞれの空 」

2015-01-13 19:03:41 | 朝の風景とその他の風景



現場からの帰りに見た空








昼休みに見た海







出勤する時に見た空







4時の休憩で見た 「 ひこうき雲 」

















今日は春のような天気だった。
1月なのに 「 これでいいのか? 」 って思うくらい陽気な天気だった。
それで作業中は暑くて上着を一枚ずつ脱いでいった。

昼休みに弁当を食べて車内でウトウトとしていたら、
気の所為か?夢の中で天使の声が聞こえたような気がした。



大分県耶馬渓町 「 長岩城跡 ・ 二之城戸 」

2015-01-13 04:58:41 | 歴史 ・ 墓 ・ 城 ( 本土 )





































ニ之城戸は、一之城戸から沢伝いに150mほど登った所に築かれており、
その手前に三日月塹壕がある。
城戸の石積みの根石は上の方まで残っている。
また、規模は小さいが沢を挟んだ対岸にも石積みを見ることが出来る・


長岩城は、川原口にある山岳城で、
下毛郡の支配者であった豪族野中氏22代390年間の居城であった。
初代城主野中重房が、建久9年(1198年)創築し、
南北朝、戦国時代に増改築された。
天正16年(1588年)黒田長政の大軍に攻め落とされ、以後廃城となった。

城は、急峻な円錐形をした扇山(標高530m、比高230m)と、
その一帯の支峯や谷窪などに築かれている。
この一帯は、険阻な断崖絶壁地帯で、このような天然の要害を巧みに取り入れ、
断崖の合間などの敵の侵入し易い所には人工的に石塁や、
砲座、塹壕などの防備施設を補完した独創的にして要害堅固な山岳城である。


本城(本丸)は、主峰扇山の頂上にあり、
この山は、7合目所を高さ4~10m位の斬石が東、北、西の3面を取り巻き、
南面は深い谷窪となり、後方は、尾根続きで岩山の連山に連なっている。
西方の支峯に西出城(西之台)、東方の中腹に東出城(東之台)、
これと谷を隔てて相対する岩山にも出城を設けてある。
谷川に沿って一之城戸、二之城戸、三之城戸の3段構えで防備を固めていた。
陣屋跡や馬場の跡も残っている。

長岩城の特色は、地方豪族の中世山城としては規模も大きく、
石塁や砲座などの優れた石積みの構造物が多いことである。
石積みの類は、20余か所で延べ700余メートルに及びる。
特に石積櫓「楕円型砲座」は、石造の櫓としても、構造的にも大変めずらしいもので、
全国に類例を見ない貴重な遺構である。

また、石積みの石が扁平な鉄平石状のものに統一してあるのも特徴である。
なお、城址は、昭和59年に地元保存会などにより一部修復工事が行われた。


【 大分県指定史跡 ( 平成23年3月29日指定 ) 】


沖縄県渡名喜島  「 沖縄で一番短い県道188号線 」

2015-01-13 04:57:41 | 沖縄



沖縄で一番短い25mの県道188号線








島で唯一の信号機







渡名喜村役場






渡名喜ターミナル






渡名喜港





沖縄県道188号渡名喜港線は
沖縄県島尻郡渡名喜村渡名喜西の渡名喜村役場と渡名喜港とを結ぶ一般県道で、
総延長は25mと短く、沖縄県内を通る国道・県道ではもっとも短い路線である。

また、たった一つある信号機は沖縄本島や内地に出た人が
信号機を戸惑うこと無く使えるようにしたものである。


沖縄県糸満市 「 南山グスクあたり・・・ 」

2015-01-13 04:56:41 | 沖縄



嘉手志川 ( カデシガー ) から見た高嶺小学校から真壁に向かう道




南山グスクがある高嶺小学校から、
真壁方面に向かって坂道を登っていると、
自分の身体がスーッと軽くなって、
魂が抜けたようになった。
抜け殻だけが運転をしている状況だった。
こういう体験は後にも先にもこの時だけだった。




1月12日 「 晴れのち雨 」

2015-01-12 14:04:41 | 朝の風景とその他の風景







今朝は5時前に散歩に行った時も冷えたが、出勤する時も冷えた。
そして朝陽は煌々と輝いて眩しいくらいだった。
それなのに10時くらいから雨がポツポツと降り出した。
今日はチップなどの砕石をユンボで積んで、
ダンプで運ぶだけだったので濡れずにすんだが、
土場の下が練って状態が悪くなるので午後から休みになった。

家に帰るとまだ息子がいたので一緒にコーヒーを飲んだが、
息子とは犬の話をしたくらいで、特別な話をしないまま席を立った。

何かあるときは、こちらがあえて聞かなくても自分から言うものだと思っている。




沖縄県粟国島 「 長浜ビーチ ( ウーグぬ浜 ) とモンパの木の群生 」

2015-01-12 04:53:41 | 離島めぐり






























































長浜ビーチ ( ウーグぬ浜 ) は、粟国島随一のビーチで、
トイレもシャワー室も完備しているので、テントを持ち込んでキャンプをする人も多い。
ビーチ自体はとてもきれいだが、
「 防波堤のせいでウミガメが産卵できないだろうな~ 」 って思うと、なおさら悲しいです。
寄せ来る波音を聞きながら ” ぼぉ~っとする ” にはいいビーチである。
海水浴には向いているが、素潜りには向いていないような気がする。


鹿児島県奄美大島宇検村 「 ヒカンザクラ 」

2015-01-12 04:52:41 | 花・鳥・虫・魚・猫















一昨日だったか?テレビで奄美大島の龍郷町で
ヒカンザクラが咲いたというニュースが流れていた。

そういえば・・・
瀬戸内町の西古見から林道を宇検村の名柄へ抜けたヘアピンに
ヒカンザクラが咲いていた。
最初は通り過ぎかけたが、その場所で写真を撮っている人が居たので
わざわざ引き返してボクも写真を撮った。

色が濃く下を向き健気に咲く姿は、
とりわけサクラというよりも梅に近い気がする。



福岡県築上町 「 綱敷天満宮 ・ 鏡開き 」

2015-01-12 04:51:41 | 日記 ・ イベント



誰一人居なかった境内







ガランガランでスッキリしていた






参道沿いの店も無く・・・






ムサシの散歩コース






もちろん浜辺もガラガラだった




昨日、 「 鏡開き 」 だったので朝早くから掃除をして、
去年までお世話になった御札やしめ縄などをまとめて
綱敷天満宮内にあるお祓い所に持って行った。
まだ松の内の11日の日曜日だというのに参拝者は誰もおらず、
海辺同様に貸切状態だったので、落ち着いてお参りが出来た。

お参りを済ませてから車内に待たせているムサシを連れて散歩に出ると、
風は冷たかったが、お構いなしにムサシは進んだ。


20歳 ( ハタチ ) の思い出 「 熱かったあの夏の日 」

2015-01-11 05:07:41 | 競輪・オートレース








息子が今日 「 成人式 」 を迎えた。
今日から大人の仲間入りだ。
これからは一人の大人としての自覚を持って生きて行かなければならない。
今までの教育の義務から、これから勤労の義務。そして納税の義務も出てくる。
今はまだ学生だが、同年代の者がその意識を持って生活していることを忘れてはならない。

自分の頃の成人の日は、1月15日だった。
その日を日本競輪学校で迎えた。
同期でハタチになる皆はニコニコしながら修善寺の成人式の会場に向かって行った。
その同期たちを格納庫で見送りながら笑顔で大きく手を振った。

師匠から 「 成人式には行くな! 」 と、鶴の一声である。
だから、当日は風邪を理由に成人の式典を欠席した。
だからボクの成人式の思い出は、
誰もいない自転車の格納庫でひとり訓練用のジャージで
ウエスを手にレーサーを掃除していたことである。

当然のことながら成人の日の記念写真も無ければ、祝ってくれる人も誰も居なかった。
ガランとした格納庫での誰も居ない、たった一人の成人の日である。
だからではないが、息子にはちゃんと成人式の思い出を作って欲しかった。


でも今、神さまが 「 何歳の時に戻りたいか? 」 と訊ねたら、
迷わず 「 19、ハタチ 」 と答えるだろう。
あのギラギラしていた19、ハタチだ。

苦しくて苦しくて逃げ出したかった19、ハタチだ。
なのにどうして?って思われるだろうが、
毎日の1分1秒が充実していたからである。
大勢のファンの前で風を切って逃げる。
そして逃げ切った時のスタンドの 「 どよめき 」 と歓声。
選手冥利に尽きる瞬間であった。






広島で行われた新人戦の表彰式前の記念撮影




「 熱かったあの夏の日 」


私は今年で競輪選手生活25年になる。
今までの選手生活で色んな思い出が残っているが、
その中でも特に思い出に残っているのは、
新人でデビューした3戦目での広島競輪場で行なわれた新人戦だ。
この時優勝したのは同期の中でも一番仲の良かった地元広島の木村一利である。

私は連日果敢に逃げて、初日特選から④②で優出し、
優勝レースも地元の木村を連れて逃げて、2着となった。
この一戦がとても思い出深い。

広島の夏は暑く、広島の夕凪といって、
宇品港のすぐそばにある競輪場はまるで蒸し風呂のようであった。
現在、故人となってしまった木村は、現役時代はウルフと異名を持つ選手だったが、
本当はその異名とは裏腹にとても優しく思いやりのある男だった。

彼が引退する前に電話があり、「今度、熊本に行くんじゃけど、逢えんかなー」ということだった。
生憎、私は観音寺競輪に参加だったので、その旨を彼に伝えて電話を切った。
木村は残念がっていたが、仕方ないと思った。
これが木村と交わした最後の言葉だった。

木村は、同期生の中でも競輪学校入校時から群を抜いていて、
東の尾崎雅彦、西の木村一利と謳われたつわものだった。
デビューして一気にスターダムに伸し上った木村だったが、
引退するまで実にあっけない幕切れだったように思う。

木村は私よりも一才年下であったが、18歳にしては気の利いた大人びた態度の男だった。
昭和54年の小倉競輪祭、新人王の準優勝戦の前夜、木村が私の部屋に来て
「明日はお願いします。一生懸命頑張りますから・・・」ということだった。
その結果決勝レースに進出し、木村は第17代の新人王の栄誉に輝いた。
その木村がどこでどう屈折し、ズレたか私には分からないが、
それから10年足らずで選手を辞めてしまった。

思い出すのは、いつもあの広島の暑い夏の日、スーパーカーブームのなか、
広島競輪場の表彰台に上った日のことだ。
あの日が青春だったことに間違いはない。
それから2、3年して彼が広島の三原で結婚式をあげたときに、
わざわざ豊橋競輪からの帰りにその席に駆けつけたのも、
今となっては忘れえぬ思い出である。
私はエレクトーンの伴奏で吉田拓郎の『結婚しようよ』を唄ったことも憶えている。
酔ってヘベレケになって三原駅のベンチで寝ていたことも・・・

あれから23年、私は現役に執着して走り続ける。
だけど、木村はもうこの世にいない。

久留米から中野浩一が出て、世界戦のスプリントで世界一になり、
競輪をメジャーなものにした。
その同世代が同じ土俵の上で競い、相まみえたことを懐かしく思う。
今は競輪選手としての中野浩一もいなければ、木村一利もいない。
だけど私は走る。あの広島の暑かった夏の日、
同期のみんなも熱く燃えていたし、私もギラギラと熱く燃えていた。

もう一度あの頃に戻りたい気もする。


このエッセイはまだ現役で走っていた当時、同人誌に寄稿したものだが、
その気持ちは今も変わらない。

内弟子時代の苦しかったあの時の基盤があるからこそ今があると思う。
師匠からしっかりした人生の躾をして頂いたことを心から感謝している。


中津郵便局~武蔵屋~魔法の樹、 そしてHOLZ

2015-01-11 05:06:41 | 日記 ・ イベント
























































ボクは田舎に住んでいるので、地元の郵便局では土日祝の郵便物は受付けていない。
だから昨日、受付けをしている中津郵便局まで行って来た。
ドサッと10人分の郵便物の発送である。
ボクはLINEどころか、メールすらしないので疎遠になっているが、
たまにこうして手紙を同封して送ることもいいだろうと思う。
そして、忘れた頃に届き来る手書きの便りもいいものである。


郵便局の後は、武蔵屋の 「 蛤しるこ 」 を東京の友だちに送りに行き、
帰りに 「 魔法の樹 」 で息子の成人祝のケーキを買い、
山国川を渡ってホルツ・ベッカライでパンを買って帰った。

中津滞在わずか30分足らずだったが、
あまり中津に行かないボクにとっては新鮮だった。



大分県中津市 「 八面山から・・・ 」

2015-01-11 05:04:41 | 探訪 ・ ドライブ



八面山の頂上手前にある大池付近の景色







霞んでいるがここから中津市内が一望できる





先日、玖珠町の 「 角牟礼城跡 」 の帰りに八面山に寄った。

「 八面山 」 といえば・・・
「 八面山賞 」 という中津競馬の賞典レースの冠名を思い出す。
その次に、そのカタチが船をひっくり返したような形状をしているので、
「 船底山 」 とか 「 軍艦山 」 とか聞いたことがあるが、
こうして登るのは初めてであった。

春。森を見るとあちこちに桜の木があったので、
桜の季節に来てみたいものである。

そうそう、この八面山の麓にある金色温泉のギャラリーでの個展も考えているが、
時間的に厳しいかも・・・




鹿児島市 「 高麗橋の薩摩切子 」

2015-01-10 05:05:41 |  滝 ・ 名所 ・ 神社仏閣







































































高麗橋は明治の英傑を数多く輩出した加治屋町と高麗町を結ぶ甲突川に架かる橋で、
現在はコンクリートの橋として架かっている。
また水害で流出した石橋は、現在は石橋記念館の横に復元されて架かっている。

維新ふるさと館から大久保利通の生誕地に行くのにこの橋を渡ったと言われている。
この橋の四隅の親柱には、20個の巨大な薩摩切子が取り付けられている。
底の直径は20cm以上もあって、これだけの薩摩切子ならばかなり高価な街灯である。
できれば、切子に明かりが灯った夜の景色も観てみたかった。

今から15年ほど前であるが、
一時期、伊集院 静さんの影響で薩摩切子に凝った時期がある。
切子で飲む日本酒が粋に感じていた時期である。


沖縄県那覇市壷屋 「 すーじ小 ( ぐぅわ ) 」

2015-01-10 05:04:41 | 沖縄






すーじー小やその路地を写した写真があったが、
どこのフォルダに入っているか捜し出せないので、、
雰囲気を味わいたい方は、動画をご覧になっていただきたいと思っています。


壺屋やちむん通りから迷路のような細い路地を歩いてたどり着いた、
『茶屋 すーじ小(ぐわ)』。
築100年近い古民家を改装した趣のあるお店を経営するのは
國吉(くによし)翔子さん、まだ30代前半の若い女性オーナーです。

翔子さんがお店を経営することになったのは12年ほど前。
お母さんが病気で亡くなったことがきっかけでした。
「この店はもともと、私がやる予定ではなかったんですよ。
瓦屋根の古民家で茶屋をするのが、
母と親友の玉城(たまき)万里子さんの昔からの夢だったので。
それに、事情を知っている建物の持ち主が、
私以外の人にはこの土地は貸せないって言ってくれてて…それで、
私が玉城さんと2人でお店をやる決心をしたんです。」
その頃、成人式を向かえたばかりだった翔子さん。
今の素敵なお店からは想像もつかないほどの荒屋を親戚や知り合いの力を借りて、
1年がかりで改装したそうです。
「業者さんにお願いしたのはクーラーの取り付けくらいですかね。
お店を通してはじめて“ゆいまーる”の意味を実感しました。」


周りのたくさんの人の協力に支えられ、お母さんの生まれ育った壺屋で、
お母さんの誕生日にオープンした茶屋は、
12年を経て地元の人から観光客までが訪れる壺屋の風物詩になっている。


店名の 「 すーじ小 ( ぐゎ ) 」 とは沖縄の方言で「路地」のこと。
壺屋の路地のように細く長くお店を守り続けていきたいという思いが込められているとか。
リクエストすれば、翔子さんの三線と民謡を聴けることも。



茶屋 すーじ小 ( ぐわ )

沖縄県那覇市壺屋1-15-23
TEL:098-863-9040
11:00~18:00 日曜休