おろくにん様が葬られている聖地・ウシワキの森
「 映画 ・ 沈黙 - Silence 」 は、
遠藤周作が書いた外海のキリシタン時代の小説を映画化したものだが、
未だ映画を観ていないので何とも言えない。
ただ、禁教令後は平戸や五島、大村などでの徹底した弾圧で、
多くの殉教者を出している。
これまで 「 おろくにん様 」 や 「 中江ノ島 」 。
その他にも「 八体龍王 」「 ガスパル様 」のことを書いてきたが、
平戸、生月には、それ以外にも
「 ダンジグ様 」 や 「 パブロー様 」 などの殉教の聖地がある。
平戸島の切支丹資料館と根獅子浜との間にある聖地
それが「おろくにん様」を弔う「うしわきの森/ウシワキの森」です。
永禄9年 ( 1566年 ) のこと、
両親と娘3人が暮らす家に男が住み込みで働くこととなり、
やがて長女の婿養子となります。
娘が身ごもったため、両親は一家が潜伏キリシタンであることを男に告白すると、
男はどこかに行ってしまい、代わりに捕縛の役人たちがやってきました。
役人たちは村人全員が潜伏キリシタンであることを白状するよう一家に強要しますが、
村人たちをかばい、信者は家族の五人だけと告げて、
根獅子の浜で処刑されてしまいました。
「おろくにん様」とは長女のお腹の中にいた赤ちゃんを含めて6人の呼び名で、
根獅子の海に投げ捨てられた遺体は「うしわきの森」に埋葬され、
聖地として大切に守られています。
かつて「うしわきの森」の敷地内に入る際、真冬でも靴を脱いでいました。
今でも石の祠にお供えする際は、靴を脱いでお参りする神聖な場所です。
ちなみにウシワキとは、もともとこの森が 「 おおいしわき 」 と呼ばれ、
それが訛まってウシワキと呼ばれるようになったという。
波が光っている場所の浜から50mが、パライソ(天国)へと向かう根獅子浜の「昇天石」
根獅子浜は「日本の快水浴場百選」に選ばれた白砂の美しい遠浅のビーチで、
夏には数多くの海水客で賑わいます。
その浜の沖にある岩場が「昇天石」と呼ばれている聖地です。
「おろくにん様」が根獅子浜で処刑され、
海に打ち捨てられると曇天であったにも関わらず岩場に日があたり、
パライソへと招魂される様子が見えたと伝わっています。
その後も弾圧は続き、寛永12年 ( 1635年 ) には
70名もの信徒たちが根獅子の浜で処刑され、
海岸は血で真っ赤に染まったといいます。
「 おろくにん様 」 に続き、この浜で殉教した者は、
この岩からパライソへ向かうと信じられるようになり、
「 昇天石 」 と呼ばれて大切にされています。
海水浴をする子どもたちは、この岩には腰掛けないよう、
今も大人たちから言い聞かされるとのことです。
中江ノ島(サン・ジュワン)殉教地
中江ノ島 ( なかえのしま ) は、長崎県の平戸島と
生月島双方から約2キロの沖合にある長さ400m、幅50mの無人島で、
キリスト教が禁止された17世紀前半に
平戸藩によってキリシタンの処刑が行われたことから、
いわゆる隠れキリシタンの聖地となった。
1612年 ( 慶長17年 ) の江戸幕府による
禁教令後となる1622年 ( 元和8年 ) に平戸や生月で宣教し、
現在の田平町で火刑に処せられたカミロ・コンスタンツォ神父に協力した
ヨハネ坂本左衛門とダミヤン出口が、
次いでヨアキム川窪庫兵衛とヨハネ次郎右衛門、
さらに二年後には坂本と出口の子供三人を含む家族も中江ノ島で処刑された。
ヨハネ次郎右衛門は中江ノ島に向かう船の中で
「 ここから天国(パライソ)は、もうそう遠くない 」 と言ったと伝わる。
こうしたことから隠れキリシタンの間で、
中江ノ島は聖地 ( 天国への門 ) と見做されるようになり、
「 お中江様 」 「 お迎え様 」 「 サンジュワン様 」 などと呼ばれ、
島自体が信仰の対象となった。
神父がいないため隠れキリシタンは 「 お授け(洗礼 )」 の儀式を自ら取り仕切ってきたが、
その際に必要な 「 サンジュアンさまの御水(聖水) 」 を汲み取る
「お水取り」の行事が行われる場所となり、
平戸・生月のみならず西彼杵半島の三重村樫山からも授かりに来ていた。
中江ノ島は隠れキリシタンのオラショにも謡われている。
平戸以外にも 「 五島崩れ 」 といわれた久賀島の 「 牢屋の窄 」 など、
各地に牢屋が造られ、想像を絶する迫害が行われた。
大きな十字架が立つ 「 黒瀬の辻 」 殉教の地
生月島の山田教会のそばの道路から見上げる場所に
ひときわ大きな十字架がある。
そこが、ガスパル西が処刑された 「 黒瀬の辻 」 殉教の地である。
188福者のひとりガスパル西は、1609 ( 慶長14 ) 年に処刑され、
生月最初の殉教者となった。
十字架がたつ墓地 「 クルスの辻 」 での処刑を望んだという。
クルスが 「 黒瀬 」 となったらしい。
ガスパル西は、1556年 ( 弘治2年 ) 、生月島にて誕生。
2歳の時にガスパル・ヴィレラからカトリックの洗礼を受けた。
未亡人であったウルスラ・トイと結婚し、
その連れ子であったガスパル・トイと、
ウルスラとの間に生まれた息子3人、娘1人を育てた。
ところが、娘・マリアの嫁ぎ先の父であり、
キリシタンの取り締まりを行っていた近藤喜三が、
松浦鎮信に訴えたことにより捕らえられ、1609年 ( 慶長14年 ) に死罪となった。
その際にイエス・キリストと同じ磔刑を望んだが認められず、
生月島の黒瀬の辻で斬首に処せられた。
望んだ地での処刑であった。
また、妻ウルスラ、長男ジョアン ( ヨハネ ) 又一も同じように斬首された。
なお、次男・トマス六左衛門 ( トマス西 ) は、マニラでドミニコ会の司祭となり、
長崎に戻り潜伏しながら布教活動を行っていたところを捕らえられ処刑された。
三男・ミカエル加左右衛門は、広島の教会で奉仕を行っていたが、
兄であるトマス西をかくまったことを理由に、妻や子供と共に死罪となった。
ガスパル西とともに、妻ウルスラ、長男ジョアン又一は、
2008年 ( 平成20年 ) 11月24日に
日本で初めて長崎市で行われた列福式でカトリック教会の福者に列せられた。
また、次男トマスは1987年 ( 昭和62年 ) に
「 聖トマス西と15殉教者 」 として聖人に列せられている。