「 九州 ・ 沖縄 ぐるっと探訪 」

九州・沖縄・山口を中心としたグスク(城)、灯台、石橋、文化財および近代土木遺産をめぐる。

長崎県平戸市早福  「 神崎神社 」

2017-01-24 02:03:37 |  滝 ・ 名所 ・ 神社仏閣







































平戸島を縦断して右手に大佐志教会を見ながら山道へと入って行き、
峠のトンネルを抜けて下ると早福集落に行き着く。
その突き当りに早福漁港があり、船溜まりの左手にくぼみがある。
その岩陰に神様が祀られていた。
そこは独特な雰囲気が漂っていたので、
神前まで近づけなかった。



長崎県西海市  「 伏瀬灯標 」

2017-01-23 11:55:54 | 長崎の灯台



まるで 「 蜃気楼 」 のように見える灯標



















灯台表番号 / 6307
ふりがな / ふくせとうひょう
標識名称 / 伏瀬灯標
所在地 / 長崎県西海市 ( 大立島灯台の北方約6.6キロメートル )
北緯 / 33-04-35.9
東経 / 129-26-37.9
塗色 / 黒地に赤横帯2本塗
頭標 / 黒色球形頭標2個 ( 縦掲 ) 付
灯質 / 群閃白光 毎5秒に2閃光
光度 / 実効光度78カンデラ 
光達距離 / 閃光5.0海里
地上~頂部の高さ / 24.39m
平均水面上~灯火の高さ / 21.6m 
業務開始年月日 / 明治37年10月5日
現用灯器 / LED灯器 ( Ⅲ型白 )


この伏瀬灯標は、西海市の崎戸島と平戸の中間にあり、
フェリーからでも遠望になるため望遠で撮ったが、これが精一杯であった。
天気が良すぎてモヤっていたので、そのフォルムは鮮明ではないが、
それがかえって幻想的な雰囲気を醸し出していた。
何はともあれ、こうしてその姿を見れただけでも収穫であった。


「 木漏れ日の階段 」

2017-01-23 08:52:06 | 朝の風景とその他の風景








  灰炭色の雲の間から
  パッと散り開いたような
  木漏れ日が
  寒々しい景色に
  あかりを射した

  それは
  「 天国への階段 」 と
  誰かが言った

  だとしたら
  人も犬も猫も
  あの階段を昇って
  天国へと向かったのだろうか

  愛してやまなかった人たちを
  この世に残して・・・




第6位 みずがめ座 今日のラッキーポイント 「 黒ゴマ 」

2017-01-23 06:01:36 | 今日の占い ・ 二十八宿とコトバ

昨夜から今朝はよく冷えた。
散歩に出ると道路の水気を含んだ部分が凍って
ツルツルと滑った。
この時期の禁句だが、かなり危険な状態だった。

昨日の夕方から吹雪いて寒さは一段と増したが、
風が強いので積もることはなかった。
それでも家の中も外も変わらないくらい冷えている。
そんな今日の順位は6位で、
ラッキーポイントは、
「 黒ゴマ 」 である。

思わぬ場面で実力を発揮!
新たな発見が成功のカギかも?


映画 「 沈黙 - Silence 」   おろくにん様 と 中江ノ島 と ガスパル西

2017-01-23 01:24:46 | 教会



おろくにん様が葬られている聖地・ウシワキの森





「 映画 ・ 沈黙 - Silence 」 は、
遠藤周作が書いた外海のキリシタン時代の小説を映画化したものだが、
未だ映画を観ていないので何とも言えない。
ただ、禁教令後は平戸や五島、大村などでの徹底した弾圧で、
多くの殉教者を出している。

これまで 「 おろくにん様 」 や 「 中江ノ島 」 。
その他にも「 八体龍王 」「 ガスパル様 」のことを書いてきたが、
平戸、生月には、それ以外にも
「 ダンジグ様 」 や 「 パブロー様 」 などの殉教の聖地がある。


平戸島の切支丹資料館と根獅子浜との間にある聖地
それが「おろくにん様」を弔う「うしわきの森/ウシワキの森」です。

永禄9年 ( 1566年 ) のこと、
両親と娘3人が暮らす家に男が住み込みで働くこととなり、
やがて長女の婿養子となります。
娘が身ごもったため、両親は一家が潜伏キリシタンであることを男に告白すると、
男はどこかに行ってしまい、代わりに捕縛の役人たちがやってきました。

役人たちは村人全員が潜伏キリシタンであることを白状するよう一家に強要しますが、
村人たちをかばい、信者は家族の五人だけと告げて、
根獅子の浜で処刑されてしまいました。

「おろくにん様」とは長女のお腹の中にいた赤ちゃんを含めて6人の呼び名で、
根獅子の海に投げ捨てられた遺体は「うしわきの森」に埋葬され、
聖地として大切に守られています。

かつて「うしわきの森」の敷地内に入る際、真冬でも靴を脱いでいました。
今でも石の祠にお供えする際は、靴を脱いでお参りする神聖な場所です。

ちなみにウシワキとは、もともとこの森が 「 おおいしわき 」 と呼ばれ、
それが訛まってウシワキと呼ばれるようになったという。







波が光っている場所の浜から50mが、パライソ(天国)へと向かう根獅子浜の「昇天石」





根獅子浜は「日本の快水浴場百選」に選ばれた白砂の美しい遠浅のビーチで、
夏には数多くの海水客で賑わいます。
その浜の沖にある岩場が「昇天石」と呼ばれている聖地です。

「おろくにん様」が根獅子浜で処刑され、
海に打ち捨てられると曇天であったにも関わらず岩場に日があたり、
パライソへと招魂される様子が見えたと伝わっています。

その後も弾圧は続き、寛永12年 ( 1635年 ) には
70名もの信徒たちが根獅子の浜で処刑され、
海岸は血で真っ赤に染まったといいます。
「 おろくにん様 」 に続き、この浜で殉教した者は、
この岩からパライソへ向かうと信じられるようになり、
「 昇天石 」 と呼ばれて大切にされています。
海水浴をする子どもたちは、この岩には腰掛けないよう、
今も大人たちから言い聞かされるとのことです。







中江ノ島(サン・ジュワン)殉教地




中江ノ島 ( なかえのしま ) は、長崎県の平戸島と
生月島双方から約2キロの沖合にある長さ400m、幅50mの無人島で、
キリスト教が禁止された17世紀前半に
平戸藩によってキリシタンの処刑が行われたことから、
いわゆる隠れキリシタンの聖地となった。

1612年 ( 慶長17年 ) の江戸幕府による
禁教令後となる1622年 ( 元和8年 ) に平戸や生月で宣教し、
現在の田平町で火刑に処せられたカミロ・コンスタンツォ神父に協力した
ヨハネ坂本左衛門とダミヤン出口が、
次いでヨアキム川窪庫兵衛とヨハネ次郎右衛門、
さらに二年後には坂本と出口の子供三人を含む家族も中江ノ島で処刑された。
ヨハネ次郎右衛門は中江ノ島に向かう船の中で
「 ここから天国(パライソ)は、もうそう遠くない 」 と言ったと伝わる。
こうしたことから隠れキリシタンの間で、
中江ノ島は聖地 ( 天国への門 ) と見做されるようになり、
「 お中江様 」 「 お迎え様 」 「 サンジュワン様 」 などと呼ばれ、
島自体が信仰の対象となった。
神父がいないため隠れキリシタンは 「 お授け(洗礼 )」 の儀式を自ら取り仕切ってきたが、
その際に必要な 「 サンジュアンさまの御水(聖水) 」 を汲み取る
「お水取り」の行事が行われる場所となり、
平戸・生月のみならず西彼杵半島の三重村樫山からも授かりに来ていた。

中江ノ島は隠れキリシタンのオラショにも謡われている。


平戸以外にも 「 五島崩れ 」 といわれた久賀島の 「 牢屋の窄 」 など、
各地に牢屋が造られ、想像を絶する迫害が行われた。







大きな十字架が立つ 「 黒瀬の辻 」 殉教の地




生月島の山田教会のそばの道路から見上げる場所に
ひときわ大きな十字架がある。
そこが、ガスパル西が処刑された 「 黒瀬の辻 」 殉教の地である。

188福者のひとりガスパル西は、1609 ( 慶長14 ) 年に処刑され、
生月最初の殉教者となった。
十字架がたつ墓地 「 クルスの辻 」 での処刑を望んだという。
クルスが 「 黒瀬 」 となったらしい。

ガスパル西は、1556年 ( 弘治2年 ) 、生月島にて誕生。
2歳の時にガスパル・ヴィレラからカトリックの洗礼を受けた。
未亡人であったウルスラ・トイと結婚し、
その連れ子であったガスパル・トイと、
ウルスラとの間に生まれた息子3人、娘1人を育てた。

ところが、娘・マリアの嫁ぎ先の父であり、
キリシタンの取り締まりを行っていた近藤喜三が、
松浦鎮信に訴えたことにより捕らえられ、1609年 ( 慶長14年 ) に死罪となった。
その際にイエス・キリストと同じ磔刑を望んだが認められず、
生月島の黒瀬の辻で斬首に処せられた。
望んだ地での処刑であった。
また、妻ウルスラ、長男ジョアン ( ヨハネ ) 又一も同じように斬首された。

なお、次男・トマス六左衛門 ( トマス西 ) は、マニラでドミニコ会の司祭となり、
長崎に戻り潜伏しながら布教活動を行っていたところを捕らえられ処刑された。
三男・ミカエル加左右衛門は、広島の教会で奉仕を行っていたが、
兄であるトマス西をかくまったことを理由に、妻や子供と共に死罪となった。

ガスパル西とともに、妻ウルスラ、長男ジョアン又一は、
2008年 ( 平成20年 ) 11月24日に
日本で初めて長崎市で行われた列福式でカトリック教会の福者に列せられた。
また、次男トマスは1987年 ( 昭和62年 ) に
「 聖トマス西と15殉教者 」 として聖人に列せられている。



長崎県佐世保市小佐々町  「 西川内橋 」

2017-01-22 09:31:41 | 長崎の石橋
















































































所在地  / 長崎県佐世保市小佐々町西川内
架橋  /  大正9年  ( 1920年 )
橋長 / 15.5m 幅員  / 3.5m
小佐々町指定文化財(4号)


現在の県道18号 ( 佐々ー鹿町ー江迎線 ) を佐々から、
日本本渡最西端の地である小佐々町楠泊方面に向かって走っていると、
小佐々浦から入り込んだ場所に石橋が架かっている。
それが 「 西川内橋 」 である。

西川内橋は、大正9年(1920年)7月にアーチ橋として架橋されたもので、
この堤防沿いの道路は、県道が開通されるまでは小佐々町の幹線道路であった。
ちなみに、この橋の建設費は4、630.5円であったという。
人夫賃が一日2円、石工が3円の時代である。


想い出のAJC杯  「 ホワイトストーン 」

2017-01-22 04:06:46 | 競馬・ボート







この時代はメジロマックイーンやハクタイセイといった芦毛ブームで、
ホワイトストーンもその一翼を担っていた。
ホワイトストーンはシービークロスとワイングラスの間に生まれた芦毛の牡馬で
中央競馬で32戦4勝の成績を残し1995年に種牡馬入りしたが、
1998年に小腸癒着のため、12歳の若さで死亡した。
残した産駒の中から2000年の東京王冠賞を制したアローウィナーが出ている。


父 シービークロス
母 ワイングラス
生年月日  / 1987年4月2日
調教師  / 高松邦男 (美浦)
馬主  / 安藤 博
生産者  / 大川幾男
産地  / 厚真町
通算成績  / 32戦4勝  [ 4-3-6-19 ]
主な勝鞍  / アメリカジョッキークラブカップ 


音速の青い戦士 ・ JR九州 「 青いソニック 」

2017-01-22 02:22:22 | 汽車・電車・駅・廃線路










































































客車内の床に刻印された 「 SONIC 883 」 











その青い精悍な顔つきは、騎士のフルフェイスマスクを思わせ、
颯爽と風を切って走る 「 青いソニック 」 。

東九州自動車道の延伸とそれに伴う高速バスの利便性向上に対抗するため、
特急 「 にちりん 」 ( 速達型の 「 ソニックにちりん 」 ) 用として
1995年 ( 平成7年 ) 4月20日から運用を開始した。
「 ワンダーランドエクスプレス 」 や 「 SONIC 883 」 の愛称がある。

最高速度を130km/h ( 7両編成の速度種別はA48 ) とし、
カーブの多い線形にあわせて振り子式車両としたことで
博多駅 - 大分駅間の所要時間を20分ほど短縮した。
車両デザインは787系に引き続き、水戸岡鋭治が手掛けている。
1995年にはグッドデザイン商品に選定され、
1996年 ( 平成8年 ) にはブルーリボン賞およびブルネル賞を受賞した。

振り子式車両の導入はJR九州では初であるが、
電化方式で見た場合、営業用交流電車としては日本初の振り子式車両でもある。

ちなみにSONICには、英語で 「 音速の 」 という意味がある。



稀勢の里 「 念願の優勝おめでとう! 」

2017-01-21 18:18:52 | 相撲



初優勝を成し遂げた稀勢の里








貴ノ岩が白鵬を破った瞬間に座布団が乱れ飛んだ








白鵬を破った貴ノ岩の勝ち名乗り







優勝インタビューで右の頬を涙がつたった







腰高と言われた稀勢の里は、ただひたすらにすり足を繰り返す





 「 長い冬のあとに・・・ 」  稀勢の里 寛 



  長い冬のあとに
  雪解けがあるように
  優勝の呪縛が解けていった

  日本人力士で
  一番 優勝に近く
  そして横綱に近い
  そう言われ続けて5年以上
  その間に
  琴奨菊が優勝し
  豪栄道も優勝して抜いていった

  悔しい思いもしただろう
  焦りもあっただろう
  だけど寒い冬を耐えたからこそ
  春の喜びも大きい

  いっぱい いっぱい耐えた
  牛久の萩原 寛が 
  故郷に錦を飾る




平成29年初場所14日目より


今までずっと応援してきたから、
優勝が決まった瞬間に涙が出た。
本当に良かった。おめでとう稀勢の里

福岡県朝倉市  『 綾の鼓 』  後藤明生

2017-01-21 13:31:04 | 文学・文化・映画作品



謡曲 「 綾の鼓 」 の悲恋の地、桂の池跡碑








桂の池跡にある 「 綾の鼓 」 の説明板







桂の池跡に建つ「 綾鼓演能記念 」







桂の池跡は公園になっている





後藤明生は、戦後に朝鮮半島北部の永興から福岡に引き揚げ、
高校卒業まで甘木で暮らした。
早稲田大学在学中の昭和30年 ( 1955年 ) に、
『 赤と黒の記憶 』 で学生小説コンクールに入選、
その後、創作活動を続けた。

後藤明生の作品には 「 朝倉物 」 と呼ばれるいくつかの作品がある。
その一つの 「 綾の鼓 」 は、謡曲が好きだった父と、
父の故郷を振り返る作品で、昭和53年 ( 1978年 ) に、
文芸誌 「 海 」 に発表された。
本籍地は朝倉郡朝倉町だが、
そこに一度も住んだことがない 「 わたし 」 が、
父の友人からの手紙をきっかけに朝倉を訪れる。
そこで朝倉の伝説をもとにした謡曲 「 綾鼓 」 の存在を知った 「 わたし 」 の、
父への回想が主題となっている。


「 昔、百済の国を援けるために九州に向かわれた斉明天皇という女の天子様は、
ヨソンシュク ( 現・恵蘇宿 ) の仮御所でお亡くなりになった。
それで、その子の天智天皇様はヨソンシュクの山に木の丸殿を造って、
そこに籠もられ喪に服された 」


謡曲 「 綾鼓 」 は、世阿弥作で、
斉明天皇のころ、筑前の国木の丸御殿の庭掃きの源太老人が、
女御の御姿を見て恋慕の情に悩んでいた。
この老人に、廷臣が女御の言葉を伝えると、
それは、池辺の桂木に掛けた鼓を打って、
その音が御殿まで聞こえたら今一度会ってやろうと云う条件だった。

源太老人はその鼓を見つめ、打って音が出るならば、
そのときこそ恋心の乱れを静めることができるのだと、
唯一筋に心をこめて鼓を打ってみるが一向に鳴らない。
元より鼓は綾を張ったものなので鳴り響かないのは当然であった。
なぶられたと知った老人は、いたく嘆き悲しんだ末、
池に身を投げて恨んで死ぬ。

まもなく、女御の様子がおかしくなると、
老人の怨霊が髪を振り乱し、すさまじい形相で現れ、
今度はかえって女御に綾の鼓を打ちたまえと責めさいなむ。
そのために女御は物狂わしくなり、
そして、亡霊は無限の恨みを残したまま、再び池の中に消え失せたのだった。



後藤 明生(ごとう めいせい、1932年4月4日 - 1999年8月2日)本名は明正。

朝鮮咸鏡南道永興郡生まれ。
生家は植民地朝鮮の元山市で商店を営んでいたが、
彼が中学に入学した年に敗戦となり、日本に帰国した。
その引き揚げの途中で父と祖母を失った。
旧制福岡県立朝倉中学校に転入し、早稲田大学第二文学部露文学科を卒業。
大学在学中の1955年に『赤と黒の記録』で「文藝」の全国学生小説コンクールに入選。
博報堂を経て平凡出版(現・マガジンハウス)に勤務。
1962年に『関係』で文藝賞佳作。
1967年、「文學界」に発表した『人間の病気』で芥川賞候補となる。
1968年には『S温泉からの報告』と『私的生活』で候補となり、退社。
1969年に『笑い地獄』で4度目の芥川賞候補となるが、受賞はしなかった。
1977年に『夢かたり』で平林たい子文学賞、
1981年に『吉野大夫』で谷崎潤一郎賞、
1990年に『首塚の上のアドバルーン』で芸術選奨文部大臣賞を受賞した。


福岡県朝倉市  「 源太の墓 と 地蔵尊 」

2017-01-21 08:01:37 | 歴史 ・ 墓 ・ 城 ( 本土 )



源太老人の供養のために建てられた 「 陰陽地蔵尊 」









源太の墓







源太の墓と地蔵尊の説明板







源太の墓と地蔵尊がある 「 福成バス停 」





今から約1300年前、斉明天皇が朝倉橘広庭宮に遷られた頃、
天皇にお供してきた女官に、庭掃きの 「 源太老人 」 が思いを寄せていた。
しかし、身分の違いからこの恋は実らず、
源太老人は 「 桂の池 」 に身を投げて自殺してしまった。

一方女官は、毎晩源太老人の亡霊になやまされ、
とうとう気が狂い池に身を投げてしまったのである。
そこで、源太老人の供養のためにこの陰陽地蔵尊が建てられ、
隣には源太の墓が建てられたのである。



第11位 みずがめ座 今日のラッキーポイント 「 博物館 」

2017-01-21 07:00:19 | 今日の占い ・ 二十八宿とコトバ

昨日あれだけ吹雪いた風も収まり、
今朝は静かな朝だった。

昨日は朝の散歩の時はそうでもなかったが、
時間が経つに連れて風が強くなり、
午後から吹雪いて気温が下がり寒さが増してきた。
朝のうちは 「 大寒 」 をナメていたが、
暦は正確なもので、それなりの気候になってきた。
これから2月4日の立春まで寒さが続くのだろうな。
そんなことを思う今日の順位は11位で、
ラッキーポイントは、
「 博物館 」 である。

ささいなことでケンカに?
柔らかい言葉選びが重要になるぞ。


想い出の東海ステークス  「 13番人気 」  ヤマトマリオン

2017-01-21 00:59:44 | 馬の詩 ・ それぞれ...

 「 13番人気 」  ヤマトマリオン



   直線に入って
   叩き合う馬群から
   どの馬が抜けるのか分からなかった
   そんな叩き合いを制して
   アタマに抜けた
   13番人気のヤマトマリオン
   約2年ぶりの勝利に
   驚いたのは配当だけではなく
   ファンも調教師も
   この馬の快挙に驚かされた






父 オペラハウス
母 ヤマトプリティ
主な勝ち鞍 フローラステークス

第25回 東海ステークスより


長崎県五島市  「 奥浦慈恵院跡 」

2017-01-20 14:23:59 | 教会



奥浦慈恵院跡に残る 「 マルマン神父 ( 右 ) とペルー神父 ( 左 ) と子どもの像 」









「 自由と愛の使者 マルマン神父とペルー神父と子どもたち 」 と書かれた碑







敷地内に残るマリア像





今は更地になった奥浦慈恵院・・・

1904年から2006年まで奥浦慈恵院があった場所に
マルマン神父とペルー神父と子どもの像と、
マリアさまの像が残されている。


堂崎教会に赴任した宣教師たちは福祉事業に乗り出した。
五島には貧しさゆえに育てることができない子どもたちが数多くいた。
フランス人宣教師マルマン神父らはその子どもたちを育てるため、
女性信徒たちと協力して大泊の民家に
「 子部屋 ( こべや ) 」 という養護施設をつくった。

次第に子どもの数が増えて手狭になると、
堂崎の教会に隣接する形で移転した。
教会堂の建て替えなどに伴って場所を転々としながら、
この施設は 「 奥浦慈恵院 」 として多くの子どもたちの命を救い育んできた。
現在もこの精神は引き継がれ、
キリスト教が説く愛をしっかりと実践している場所となっている。

明治の初め貧しさ故に闇に葬られようとしている赤ちゃんを集めて育てようと
奮闘する若い娘さんたちが自給自足をしながら必死に育てても、
捨てられた子供たちは体が弱く、
対岸にある診療所まで舟の櫓をこいで子供を連れていかねばならない毎日・・・・
そこで、 「 自分たちの仲間内から医師を育てよう 」 と、
優秀な女子を医者になるための学校へと進学させた。

そして、 「 女が3人がかりなら男1人前の仕事ができるだろう 」 と、
売りに出されていた精米所を購入して精米・製粉業をして資金源としたり、
日々の農作業や機織り、二人一組で、
しかも結婚した女性に見えるよう歯を黒く染めて行ったという行商・・・・。
行商の目的は現金収入、というのはもちろんのこと、
その時に捨てられた赤子がいれば再び連れて帰り、
家々を回りながら子供の里親を探したり、
はたまた貰われて行った先での里子の様子を確認したり、
そういう目的もあったのだそうです。

一人は子供を抱えて、二人は櫓を漕ぎ、奥浦から福江まで海を渡る小さな舟が目に浮かぶ。


日本に3機しかない 【 無線機能点検機 U-125 】

2017-01-20 09:31:14 | 戦闘機 ・ 自衛隊関係

































































電波により航空機の航行を援助するための施設である、
自衛隊の 「 航空保安無線施設 」 の
機能の状態を点検するのが 「 飛行点検機 」 です。
U-125は平成2年度の予算で1機の調達を開始し、計3機を取得しました。
その特徴は、低高度から高高度までの飛行点検が可能で、
自動飛行点検装置 ( 米国製のAFIS ) を搭載していることです。
原型は英国ブリティッシュ・エアロスペース社の 「 BAe125-800 」 です。


【 主要スペック 】

分類  / 飛行点検機
乗員  / 7人
全幅  / 約15.66m
全長  / 約15.60m
全高  / 約5.36m
自重  / 約6,860kg

【 エンジン 】

搭載数 / 2基
名称  / TFE731-5R-1H
推力  / 1,950kg/1基
型式  / ターボファン
運用自重  / 約8.1t

【 性 能 】

最大速度  / マッハ約0.8( 約860km/h )
巡航速度  / 約740km/h
実用上限限度  / 約13,100m
航続距離  / 約5,500km