バックストレッチの敢闘門からホームスタンドを望む
バックストレッチから3コーナーから4コーナーにかけて
バックストレッチから2コーナーから1センターを望む
広島競輪場は、3連勝の完全優勝を含め、
何度も優出した競輪場であるが、
その中でも特に記憶に残っているのが初めて参加した新人戦である。
その新人戦のことを書いた 「 熱かったあの夏の日 」 は、
現役時代に日本競輪選手会の会報誌に寄稿したもので、
その当時の思いが綴られている。
私は今年で競輪選手生活25年になる。
今までの選手生活で色んな思い出が残っているが、
その中でも特に思い出に残っているのは、
新人でデビューした3戦目での広島競輪場で行なわれた新人戦だ。
この時優勝したのは同期の中でも一番仲の良かった地元広島の木村一利であった。
私は連日果敢に逃げて、初日特選から④②で優出し、
優勝レースも地元の木村を連れて逃げて2着となった。
この一戦がとても思いで深い。
広島の夏は暑く、広島の夕凪といって、
宇品港のすぐそばにある競輪場はまるで蒸し風呂のようであった。
現在、故人となってしまった木村は、現役時代はウルフと異名を持つ選手だったが、
本当はその異名とは裏腹にとても優しく思いやりのある選手だった。
彼が引退する前に電話があり、
「 今度、熊本に行くんじゃけど、逢えんかなー 」 ということだった。
生憎、私は観音寺競輪に参加だったので、その旨を彼に伝えて電話を切った。
木村は残念がっていたが、仕方ないと思った。
これが木村と交わした最後の言葉だった。
木村は、39期生の中でも競輪学校入校時から群を抜いていて、
東の尾崎雅彦、西の木村一利と謳われたつわものだった。
デビューして一気にスターダムを駆け上がった木村だったが、
引退するまで実にあっけない幕切れだったように思う。
木村は私よりも一歳年下であったが、
18歳にしては気の利いた大人びた態度の男だった。
昭和54年の小倉競輪祭、新人王の準優勝戦の前夜、木村が私の部屋に来て
「 明日はお願いします。一生懸命頑張りますから・・・ 」 ということだった。
その結果決勝レースに進出し、木村は第17代の新人王の栄誉に輝いた。
その木村がどこでどう屈折し、ズレたか私には分からないが、
それから10年足らずで選手を辞めてしまった。
思い出すのは、いつもあの広島の暑い夏の日、スーパーカーブームのなか、
広島競輪場の表彰台に上った日のことだ。
あの日が青春だったことに間違いはない。
それから2、3年して彼が広島の三原で結婚式をあげたときに、
わざわざ豊橋競輪からの帰りにその席に駆けつけたのも、
今となっては忘れえぬ思い出である。
私はエレクトーンの伴奏で吉田拓郎の 『 結婚しようよ 』 を唄ったことも、
酔ってヘベレケになって三原駅のベンチで寝ていたことも憶えている。
あれから23年、私は現役に執着して走り続ける。
だけど、木村はもうこの世にいない。
久留米から中野浩一が出て、世界戦のスプリントで世界一になり、
競輪をメジャーなものにした。
その同世代が同じ土俵の上で競い、相まみえたことを懐かしく思う。
今は競輪選手として中野浩一もいなければ、木村一利もいない。
だけど私は走る。あの広島の暑かった夏の日、
同期のみんなも熱く燃えていたし、私もギラギラと燃えていた。
もう一度あの頃に戻りたい気もする。