Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

伝統文化と将来展望

2004-11-13 | 文化一般


傍らの新聞の文化欄が、バイエルン放送協会の放送オーケストラ解散を報じている。アメリカ占領下で文化促進として発足した。兄弟組織の交響楽団に対して、ミュンヘンの土地柄、オペレッタや大歌手の伴奏などを専門として放送やレコード録音で世界的にも有名である。聴視料の値上げを避けるための処置としての解散といわれると大多数は納得する。可も不可もない文化行政は淘汰されていく。記事は、バイエルンの文化行政や趨勢にこれでなんら変化がない事について言及する。大指揮者チェルビダッケを政治家が奉りたて、君臨した時のことを揶揄する。歴史ある民間交響楽団ミュンヒナー・フィルハーモニカーに非効率の凡才巨匠を迎え、ただ彼が作品を物に出来るまでの練習時間を与えていただけだと手厳しい。

文化行政は、納税者には分かりにくい。全ての人が文化を享受していても、伝統的であればあるほど空気のように意識させないからだ。文化の定義など高尚なことは云うまい。公的な資金が使われる限り納税者を納得させるだけの説明が必要である。そこに文化の恒常性が議論されたり(もしくは言及されなかったり)、権威付けが行われるとき眉に唾をつけなければならない。経済的・商業的に成り立たないからこそ公的援助が必要となる。援助の必要な文化は全て二極間に位置するだろう。一つは有形無形の伝統的な文化を博物館に陳列する行政、一つは将来の発展ために嘗ての王侯貴族のように庇護する行政となるだろうか。ユネスコの文化遺産指定などは前者で、人材育成や同時代芸術・文化の振興などは後者に当たる。

援助の正否の判断は難しいが、「文化的な主張」無しに容易に町興し的な地域促進案や只伝統への回帰が叫ばれるとき注意をしなければならない。何故経済的援助が必要なのか、将来的展望はあるのか等、仔細な好発想よりも大局的な見解が明確に主張されるべきである。再び記事に目をやると、統合後ベルリンだけで二桁に上る楽団の解散と統合、そしてそれぞれの楽団員の幼少時代からの修行に合致しない給与と非経済性と、ここ半世紀云われて久しい非能率な形態の大管弦楽団の存在意義と博物館展示への潮流が示される。ミュンヘン、バイエルン、ドイツ、欧州において、その伝統文化の意義の見直しと将来への展望が新たに必要とされている。
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文化の「博物館化」

2004-11-13 | 文化一般
2004 05/09 編集

ベルリナー・フィルハーモニカーがフォン・カラヤン音楽賞をとって、その授与がバーデンバーデンで昨日行われた。プレゼンターの作曲家リーム氏は小講演をした。いつもながらの殆ど哲学的表現ながら、今日の文化に対する見解を上手く示した。特に伝統とその今日における享受を、音楽の聴衆と演奏者さらに著作権者の「対話」に、そして歴史的発展と現状に注目させることで、的確に定義した。ここにおける伝統は、送信側の伝えられた技術とかではなく、受け止め側の社会に立脚しているというのだ。氏の言うヴィットゲンシュタインを引用しての「住所不定」の音楽における考察を文化一般に拡大していくと、文化の地域性や地域の国際化等の議論のひとつの見解となる。このベテラン作曲家の思考は決して最前衛を行くものでないかもしれないが、それだけにより多くの人を納得させる。

話題のエリート学校政策をリーム氏に非難された同席していた州大臣トイフェル氏が、英才教育の実績で反論もするが、「現在ベルリンで、唯一真っ当な機関はこの楽団だ」と会場を沸かすとき、文化行政の難しさを想起させた。

さて楽団は、すべてを完璧に掌握した恐ろしく真剣な監督ラトル氏の円熟した指揮のもと、その文化的意義を具象化するかのように近年にない充実を示した。リーム氏の謂わんとするコマーシャル化され朽ち果てた価値を、文化的な意味合いにおいて、危機感の中で取り戻したようだ。凄みや憑かれたとこのない、このような求心的で緻密な魅力を示すことはこの半世紀で殆どなかったのではないだろうか。アメリカ文化やハプスブルク文化に対抗して「保護すべき」存在価値を十分に示した。経済論理の中ですべてを捉えなければならない今日、このような「市場経済から逸脱する価値」を設定する危険と文化の「博物館化」を避ける義務を聴衆も政治家も担っている。
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