傍らの新聞の文化欄が、バイエルン放送協会の放送オーケストラ解散を報じている。アメリカ占領下で文化促進として発足した。兄弟組織の交響楽団に対して、ミュンヘンの土地柄、オペレッタや大歌手の伴奏などを専門として放送やレコード録音で世界的にも有名である。聴視料の値上げを避けるための処置としての解散といわれると大多数は納得する。可も不可もない文化行政は淘汰されていく。記事は、バイエルンの文化行政や趨勢にこれでなんら変化がない事について言及する。大指揮者チェルビダッケを政治家が奉りたて、君臨した時のことを揶揄する。歴史ある民間交響楽団ミュンヒナー・フィルハーモニカーに非効率の凡才巨匠を迎え、ただ彼が作品を物に出来るまでの練習時間を与えていただけだと手厳しい。
文化行政は、納税者には分かりにくい。全ての人が文化を享受していても、伝統的であればあるほど空気のように意識させないからだ。文化の定義など高尚なことは云うまい。公的な資金が使われる限り納税者を納得させるだけの説明が必要である。そこに文化の恒常性が議論されたり(もしくは言及されなかったり)、権威付けが行われるとき眉に唾をつけなければならない。経済的・商業的に成り立たないからこそ公的援助が必要となる。援助の必要な文化は全て二極間に位置するだろう。一つは有形無形の伝統的な文化を博物館に陳列する行政、一つは将来の発展ために嘗ての王侯貴族のように庇護する行政となるだろうか。ユネスコの文化遺産指定などは前者で、人材育成や同時代芸術・文化の振興などは後者に当たる。
援助の正否の判断は難しいが、「文化的な主張」無しに容易に町興し的な地域促進案や只伝統への回帰が叫ばれるとき注意をしなければならない。何故経済的援助が必要なのか、将来的展望はあるのか等、仔細な好発想よりも大局的な見解が明確に主張されるべきである。再び記事に目をやると、統合後ベルリンだけで二桁に上る楽団の解散と統合、そしてそれぞれの楽団員の幼少時代からの修行に合致しない給与と非経済性と、ここ半世紀云われて久しい非能率な形態の大管弦楽団の存在意義と博物館展示への潮流が示される。ミュンヘン、バイエルン、ドイツ、欧州において、その伝統文化の意義の見直しと将来への展望が新たに必要とされている。