Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

映画監督アーノルド・ファンク

2004-11-23 | 文化一般
2004 02/14 - 02/15 編集

先に報告した映画「山との戦い-氷と嵐の中で」に関して調べると思いがけない発見がある。その世代やら時代が見えてくる。この映画の監督アーノルド・ファンク博士は、ワイン街道から8キロほどのフランケンタールに1889年、砂糖精製工場(砂糖大根からの精製技術の研究所が19世紀初頭にはワイン街道にも存在した)の息子として生まれる。結核など数々の病身で、トーマス・マンの「魔の山」のモンタージュモデルの様にダボースで過ごす。酷寒の山や湖のスケートなどアルプスの自然と出会う。父親の死去に伴ってブライスガウのフライブルクに転居してアビトゥーアを取る。そのころ、近辺の中低山やアルプスでの登攀や写真撮影を経験。その後ベルリン、ミュンヘン大で哲学を聴講後、チューリッヒで化学後に地質学を専攻。この間、モンテローザ登頂の際に映画と出会う。

1915年、「地殻圧力による崩壊無き化石の変形と性質の決定への影響」で学位を習得。志願して兵役。諜報活動部門でカメラ・撮影技術を習得。戦後、折からの就職難、絨緞商などを経て、1920年スキーヤーで物理学者のタウエルン博士と「山とスポーツ映画会社」を創立。そこで制作されたのが、二部作の「スキー靴の奇跡」と映画「山との戦い-氷と嵐の中で」である。その後の活躍は、1925年の会社譲渡を挿んで周知の事だ。1933年、ナチス宣伝省ゲッペレス博士からのオファーを受けたが、入党を拒んだため実現しなかった。それによって、ヒトラーの協力者として第三帝国を「記録」した女監督レニ・リーフェンシュタールが生まれた。昨年逝去した彼女は、ザルツブルク音楽際の創始者 ラインハルトに踊り子として見出され、更にファンクの作品に登場し、彼から多くを学んだのであった。才能ある貪欲な人間がチャンスをつかむのは、世の常だ。一方、ファンク自身は、公の支援が得られぬのみならず宣伝省からの攻撃で経済的にも困窮した。ゲッペルスに「モンブランとフランス人英雄」の映画について叱責された時、ファンクは言った。「閣下、私はこれまで4000メートル級の山で撮影してまいりました。その私がです、どうして急に高山地映画をツーグ・シュピッツェ*の上で撮れましょうか?」。そのような時、大日本帝国文化省から依頼がきた。同盟国日本での風景撮影に彼の経験と技術が駆使され、「侍の娘」(「新しき土」という邦題)が伊丹万作との共作で1936年に完成した。ここに子息の十三が、黒沢、小津、大島、たけしと並ぶドイツ国内での知名度を獲得する伏線がある。

彼の初期映画は、画期的で当時から熱狂的に受け入れられた。アドルノの師匠ジークフリード・クラカウワーも、「ドキュメンタリーとして比較の対象を越えた映画」と評する。ファンク自身、「大多数の観衆を20分も釘付けにさせる事」の不可能を語るように、脚本の重要さを認めている。この映画においても、ヴァリスの秀峰リスカムへの登頂の過程を描くというよりも、前半ではクレパス帯での氷河散策を、ある時はメルヘンの主人公のように、ある時は技術教習シーンのように、茶目っ気を交えて描く。アイス橋を越えたりシュルントを降りたりで可成危険度の高い撮影。しかしあくまでも、女性の同行者とユーモアを失わない。頂上シーンもロマンティックな高揚感は皆無。ハイライトは後半の下降シーンに置かれる。既に別項で触れたように、クラシックなテクニックのステップカットによる前向きのクライミングダウンのシーンは素晴らしい。この模範演技をしているのは何を隠そう、ザンクト・アントンのスキー学校の初代校長ハーネス・シュナイダーだ。シュテムボーゲン・テクニックの創始者のシュナイダー先生だ。彼の登山家としての技量は、殆ど語られていないが、技術的に世界のトップクラスであったのが目の当たりに確認できる。現在であれば、間違いなく各種室内クライミングやアイスクライミングなどで上位を狙える一流スポーツマンだろう。1930年、彼の長野県でのデモンストレーション時にも登山技術が紹介された資料は見つからない。さて、映画はこのあたかも模範演技を、八本指のアイゼンを大写しに緊張をもって描く。外爪過重や体重移動など綿密に繊細に、緊迫の中にも静まりかえる鼓動が聞こえる。第一級の芸術表現。ここからリーフェンシュタール女氏が何を学んだのかは、めいめいの判断にお任せする。その後のシーンでもマッターホルンのテオドールパスを左から右へと流れる雲を「低速写し」で表現する。制約もあろうが、影絵のように氷河に写る人物像のシーンと、ファンクが特写技術を強調したのはこれぐらいか。比較的短いカットでオムニバス風に進む。岩陰での緊急ビバークシーンでもシュナップスをぐい呑みする男女。巨岩から飛び降り雪上に突っ込む人と最後までユーモア満載である。作曲家ヒンデミットは、これらを試写しながら音譜をメモしていった。彼も、この即物的なまでの映像とユーモアに十分対応しながら、友人のために無料で作曲した。

「ヒンデミット賛」と謳ったこの企画、フランクフルトのヒンデミット研究所の支援、ボルボ社の後援でコンセプト的にも更にパワーアップして、今後各地での再演実現を希望する。


*ツーグ・シュピッツェ/Zugspitze 2962m:ドイツ共和国の最高峰。当時は頂上に、気象観測所員が越冬していた。オーストリー併合後も4000メートル級は、第三帝国には存在しなかった。
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涅槃への道

2004-11-23 | 文学・思想


我が積読文庫の中から登山家メスナーを諸氏が哲学した本を、夜中に思いついて探した。その中のインタヴューが面白い。

先ずはカール・ヤスパースの「人は孤独と不審感の意識を持って、自由のなかに潜在的な実存への飛躍をする」に従って、この意識と実現こそメスナーの極限への探訪ではないかと問い始める。彼は、「それは結局、人の限界と脆さを意識させる事」だとして、さらに「極限への追及は、只遊びの価値と可能性を表現するだけ」と模範的に取って返し問答は快調に滑りだす。

精神的活動の内に、満ち溢れる情報を遮断しての生活姿勢等、青年時代の彼を髣髴させる心理を裏づけする。そしてニーチェの超人思想の下、混沌とした現代において全て彼が自由意志で設定した経験の意味が分析される。定まった方向性も保証も無い現代に、その経験によってのみ具象化される「実験上の実存」の意味が定義される。ここまでは、北チロルの大登山家へルマン・ブールを継承したアルピニズムの現代性を示した内容である。

そしてミシェル・フーコの「人は経験の動物」を挙げて、彼は「聞いただけでは懐疑的で、経験してこそ初めて事実として受け入れられる」と答える。

しかし、同じオーストリーのハインリッヒ・ハラーがハリウッド映画「チベットでの七年間」の中で描かれたような飽く迄も西洋の自我として存在したのとは違い、この後継者は当時の高所での涅槃体験記が示すようにアルピニスムの終焉とともに新たな次元へと突き進んだ。マラソンなどのフロー・ステート「巡航状態」を、彼自身は瞑想による忘我の境地と理解する。これは、解脱に至る心頭滅却による転迷悔悟とみなされる。
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