Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

リベラリズムの暴力と無力

2004-11-06 | 歴史・時事


ジャスミンちゃんは、二十歳のトルコの女の子だった。彼女はムスリムながらトルコの中でも可也リベラルの社会層に属していた。だから彼女は、ムスリム以外の我々ともよく行動をともにした。彼女をドイツ料理に誘った時の事を急に苦々しく思い出した。

ムスリムの世界規模の西洋社会への激しい抵抗が毎日のように執拗に繰り返されている。先日も世界で最も進歩的な町アムステルダムで有名な画家ファン・ゴッホの末裔で映像作家のテオ・ファン・ゴッホ氏が原理主義者に射殺された。仕事場へ向かったところをモロッコ出身の若い男に路上で待ち伏せされ撃たれた。さらに儀式則って咽喉を切り裂かれた。犯人は警察との市中の銃撃戦を経て逮捕された。ムスリム原理主義者の凶暴性は、テロリストとして世界中で名高い。ムスリムの法自体が、現代の西洋の法秩序では断じて受け入れがたいものという。彼らのムスリム法に則った生活様式は、寛容をもってしても西欧では頻繁に軋轢を生んでいる。

殺害されたファン・ゴッホ氏は、ムスリム問題だけでなくリベラル左翼として嘗てテレフォン・セックスから死体愛好症までを題材としていたという。今回の悲劇は、二年前に起きたオランダの人気右翼政治家の暗殺と90年代初めに起きた「悪魔の詩」のルシュディ氏騒動の間に分類される。我々は、タブー無きリベラリズムが他者のナイーブな心情をずたずたに傷つけていることに気がつく。他者の精神を研ぎ澄まされた薄刃で音も無く、真綿で締めるごとく、罪の意識無く斬り付けているかもしれない。ある人々にとっては、彼の地で法に認める同性愛や中絶ですら耐えがたく不快なものである。権利を根拠に純粋培養された西洋リベラリズムは、新種の病原菌を持って免疫の無い人々に無差別に襲い掛かる。

ドイツ料理は、ムスリムの不浄の肉、豚肉無しにはなかなか成立しない。ジャスミンちゃんに豚肉で踏み絵をさせるような蛮行を、我々はしていないだろうか。表現や報道の自由が、そのまま暴力となって人々を傷つけてはいないか。決してお互いがお互いに受け入れられる事がないからこそ、十分な配慮が必要なのである。自他の葛藤という点では、男女関係にも似ている。そして今、上の事件の犯人の二重国籍のモロッコ人は、自由で寛容のオランダを追放されることに怯えていると言う。残念ながらリベラリズムでは対応のしようが無い。



参照:
固いものと柔らかいもの [文学・思想] / 2005-07-27
キッパ坊やとヒジャブ嬢ちゃん [ 歴史・時事 ] / 2004-11-06 
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キッパ坊やとヒジャブ嬢ちゃん

2004-11-06 | 歴史・時事
 2004 03/19 編集

フランス公立学校での、モスリム頭巾禁止が欧州共同体に与える影響は大きい。新学期から全ての宗教的な飾り(十字架、ユダヤ帽子キッパ、頭巾ヒジャブ等)を「観せて」の通学は禁止される。今回の決断が英断でありえるのは、これによって旧植民地出身者だけでなく経済難民などが社会に融和して、セクト間の対立を政治問題化させない時である。夫々が譲歩する事によって、夫々の信仰の自由を冒さないという理屈である。しかし譲歩を奨めていくと無菌室的な社会になりかねない。全ての宗教的装飾を外しても中立的な教育は事実上不可能であり、仮に可能でも教育の意味を根底から失う。

公用語はトルコ語とまでいわれたマンハイム市で立派なモスクが建造された。コーランを四六時中スピーカーで流す計画は、阻止された。もちろんモスク側は、キリスト教会の鐘を根拠に反論した。多数決の裁定にのみ準拠すれば、政治問題化の危険を絶えず孕む例であった。

政教分離の不十分なドイツ、イタリアでは、フランスのようなエレガントな決断は事実上不可能だ。ゆえにバイエルン州での公立学校での教室の十字架、バーデン・ヴュルテンベルク州の女性教師の頭巾問題は、「宗教の自由」憲法のもとに法律の憲法遵守裁定もしくは議会の立法を余儀なくさせる。現在も個人から教会税を徴収して、夫々の宗派に分ける。政府と教会とのこのような関係は両国ともファシズム政権下でヒトラーとムソリーニが直々にヴァチカンと協定した。連合国に敗戦した両同盟国である。さらにドイツの場合は、連合国占領政策下に「第三帝国から転職」した連邦政府役人が、行政を継続した。

宗教と文化と政治の結びつきが強い欧州においても、空想社会主義同様に、幸か不幸か理想郷は存在し難い。社会における信仰告白を伝統的に良しとしないフランスの今回の決断は、プライヴェートでの「信心」とパブリックでの「意志」を識別する意味において、今後欧州統一の基本ラインの中に止揚されるだろう。

欧州における文化は、宗教的にも多様な相互干渉によって発達した。共通意志の基に融和と団結が求められる。共通意志として求められるのがキリスト教的「寛容の精神」である。

最近、カトリック色の強いバーデン・ヴュルテンベルク州で帰化希望者への口頭試験が履行されている。基本的な日常会話に加えて、社会契約が質問される。もっとも社会システムなどの自国民でも答えられない知識や思想・宗教的なものは慎重に避けられる。要は、基本的権利・義務への認識と、「自由」、「団結」、「権利」への意志を基本理念とするドイツ連邦共和国歌に集約できる。これは、度重なる議論の末に「第三節のみ」が1991年に公認された。これは現実への意志であって、未来への理想や歴史の過去には触れない。



参照:リベラリズムの暴力と無力 [ 歴史・時事 ] / 2004-11-06
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此れはなるほどやはり名言だ

2004-11-06 | 雑感
ブログ開設にあたって、ホ-ムページと同じタイトルをつけた。そしてタイトルの意味を再び考えた。大宗教家ルターに決して親しみがあるわけではないが、此れはなるほどやはり名言だ。

ワインを愛しむには、心開いて先入観なしに受容しなければならない。

を愛しむには、心豊かにして虚心坦懐に表現しなければならない。

そして
を愛しむには、心安らかに許容して共鳴し合わなければならない。

これがこのブログのモットーである。
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