1646年にライプチッヒの法学教授の下に生まれて、両親を早く亡くしながらも、自宅図書室で多くを学んだと云う。8歳にして絵付きの図書でラテン語を独学し、数年後にはギリシャ語もマスターしたといわれる。当然の事ながら15歳で地元の大学に学び、18歳で哲学のマスターを習得するという環境にも恵まれた早熟の大学者である。哲学、数学さらに法学においてその後に与えた影響は大きい。特に、数学の微分の方程式は、未だ大変多くの人が直接間接にお世話になり、数学の試験の重要な問題を提供して受験生の頭を悩ませる。
1996年に生誕350年を機に新資料の整理と再評価が行われたが、彼の多彩な経歴と膨大な資料から簡単にその人間像を掴みきることは難しそうである。中世風の博学者とは時代も違いどの研究部門も質が違い、学窓に留まらず精力的に多方面で最新の成果を吸収していくので、現代の専門の分化した研究者達を悩ますのかもしれない。外交官としてもルイ太陽王の下に駐在して、王のドイツへの覇権意欲をエジプトへ向けさせる任務を負った。そこで当時の錚々たる物理、天文、数学者と知り合い科学アカデミー会員となり、続いて滞在したロンドンでも王室アカデミーのニュートンなどの躊躇を受けながらもメンバーとなっている。そこでのボイルやホックとも知り合いさらにパリへ戻りファン・ヒューゲンスの勧めでカヴァリエ、デスカル、パスカルの業績に触れ、本格的に演繹法を習得する。さらにオランダでスピノザ等を訪ねて、当時の重要な学者思想家達とその後も書籍を取り交わすことになる。1676年には仕えていたマインツの伯爵の死で、パリ大学の教授ポストもとれずにハノーバーの宮廷に仕えることになる。そこでヴェルフ家の歴史などの調査の任務を受けて南国に調査旅行、ヴァチカン図書館で彼が非カトリックのため就職却下されるなどありながら、既に1675年に出来ていた微分の研究を自らの出版する雑誌に投稿するまで暫く待たなければならない。
微分の合成の法則等を三角法のタンジェントへと戻ってシコシコと計算するライブニッツの下書きや計算式も多数残されておりその一部は新たに資料に加えられて、以前はネットでも公開されていたように記憶している。それでもその法則の一般化や上の経歴から察せられるように、彼はドイツでは大変に異色な学者という印象は拭えない。その一般化された公式をもって自己満足をしている見解や新旧教の仲裁に入る宗教観などをみると、ヘレニズム的な幼少時からの文化体験とあくまでも抽象的な論理の取得がなされている。彼の無限大(小)の概念と虚数への関心と展開がよく取り上げられるが、タンジェントを用いての定理付けとその後の一般化の展開の段階で、既にその後を導くだけに十分な思考の飛躍が認められるのではないだろうか。その後の生前に出版された三冊の哲学書等は、むしろ肩の力を抜いて執筆したのではないか。1716年の埋葬には内輪のものしか集まらなかった様に、生前には学者としての業績は少なくある種のアマチュアリズムを尽いたお陰で、ニュートンなどの職業物理学者には出来なかった数学者らしい業績が見つかる。彼の近代性を指摘出来るかどうかは分からない。しかし抽象概念も悉く言語化するドイツ語文化圏からの輩出としては後年の一部物理学者などを含めて、極めて珍しい抽象家だと思う。