クラカウアーの名前が出てきたので、映画の古典的理論書を流し読みした。青髭公の台本作家でもあるベラ・バラージュの「フィルムの真髄」という1930年出版の本である。現代人にとっては余りピンとこない「映画は劇場の代用」という当時の思潮を思い起こした。映像表現としての「空間」と「時間」の理論は、残念ながらその成り立ちからしてどうしても絵画、写真、舞台表現へと立ち返らざる得ない。さらに、当時のイデオロギー上の議論を前提としたクラカウアーの皮肉と逆説に満ちた書評にたじろぐ。
マルチメディアの試みの中で、当時の無声映画からトーキー化における音響(振動)以外の付加要素は今でも一般化していない。人類にとって臭覚など空気を媒体として伝わる音以外の他の要素は、元来その物理的特性から方向性が認知され難いので、n次の空間表現に適していないと云うことのようである。厨房で物が焦げていても、それは間取りを知っているから即座に火を消しに行けるのであって、徐々に焦げていく物を順々に火から下ろすような芸当も不可能だ。そのベクトル表現どころか、未だにそのスカラーを記録再生する装置も一般化していない。現在の一般的表現媒体は、視覚、聴覚に加えて文字とバイナリーに限られる。恰も青髭公の若い新妻の好奇心を誘うかのように、更なる部屋は閉じたままである。
上述の新刊の付録についている後書きこそが読み物だろうが、どれ程多くの読者の興味を引くかは分からない。そこにフーゴ・ホフマンスタールのコメントが引用されている。この古き良き欧州文化の崩壊を嘆き、ザルツブルク音楽祭の創始者である文豪は、映画を「現実逃避としての映画館、大衆嗜好と全能感への錯覚をもたらす」と非難する。それを記した1921年から粗80年の歳月を経て、この映画をマルチメディアと置き換えるとき、PCを前にする我々には新鮮に響く。