典型的なドイツ語にザッハリッヒという言葉があるが、これを即物的と記すと良くない。事象的、事物に即した、実務的な、要を得た、本質的ななどと解釈すると随分と聞こえが良い。名詞形のザッハリッヒカイトも、実際的、客観性、不偏不党と記されると良いが、即物性となるとあまり良く響かない。
二十世紀の芸術運動ノイエ・ザッハリッヒカイトについては改めて触れるとして、このザッハリッヒ自体は非常に肯定的な言葉である。即物主義と言われると血も涙も無いような無機的な感じがする。唯物や唯心などは所詮哲学ジャルゴンとしてどちらでも良いのだが、これが即物主義と訳されると救いようがない。
この言葉は、文化的に重要である。特にドイツプロテスタントの精神を一言で表したように、合理精神の牙城のような概念である。当然の事ながら、何処まで対象に迫り、客観的な視点を得られるかと言う疑問が噴出してくる事は言うまでも無い。ここで述べたドイツ批判は、全てここに凝縮されてくると言えよう。
二日間とはいえ、今週のように温度が高いとそのザッハリッヒな精神も萎える。それでも乾燥しているので、水に入って木陰にいると気持ちよい。それ程に白昼夢の世界に這入ってしまわないで済むのは、軽い空気のお陰のようである。こうして、詩人のマラルメなどとは違う文化は、その気候から生まれる。何れにせよ、久しぶりに水に入ると、普段の不摂生が祟って足首から足の付け根、上腕から肩まで水を二掻きしただけで壊れてしまった。結局、翌日の暑い午後も水に浸かりたかったのだが筋肉痛で断念した。抵抗の少ない泳ぎを追及しようとしたのが、逆に技術の未熟さを露呈させてしまった。
こうして、技術の練磨を目指して、「畳の上の水練」ならず「長いすの上の水練」をすることとなった。これをドイツ語でトロッケンユーブングと言う。乾いた練習である。前者は無駄な徒労を言い否定的な言葉だが、後者は所謂イメージトレーニングを意味して合理的で肯定的な言葉である。
分析への欲求や対象に迫ろうとする意志が、ザッハリッヒなトロッケンユーブングを可能にする。そういえば、カービンスキーのイメージトレーニングをするのを忘れていた。
二十世紀の芸術運動ノイエ・ザッハリッヒカイトについては改めて触れるとして、このザッハリッヒ自体は非常に肯定的な言葉である。即物主義と言われると血も涙も無いような無機的な感じがする。唯物や唯心などは所詮哲学ジャルゴンとしてどちらでも良いのだが、これが即物主義と訳されると救いようがない。
この言葉は、文化的に重要である。特にドイツプロテスタントの精神を一言で表したように、合理精神の牙城のような概念である。当然の事ながら、何処まで対象に迫り、客観的な視点を得られるかと言う疑問が噴出してくる事は言うまでも無い。ここで述べたドイツ批判は、全てここに凝縮されてくると言えよう。
二日間とはいえ、今週のように温度が高いとそのザッハリッヒな精神も萎える。それでも乾燥しているので、水に入って木陰にいると気持ちよい。それ程に白昼夢の世界に這入ってしまわないで済むのは、軽い空気のお陰のようである。こうして、詩人のマラルメなどとは違う文化は、その気候から生まれる。何れにせよ、久しぶりに水に入ると、普段の不摂生が祟って足首から足の付け根、上腕から肩まで水を二掻きしただけで壊れてしまった。結局、翌日の暑い午後も水に浸かりたかったのだが筋肉痛で断念した。抵抗の少ない泳ぎを追及しようとしたのが、逆に技術の未熟さを露呈させてしまった。
こうして、技術の練磨を目指して、「畳の上の水練」ならず「長いすの上の水練」をすることとなった。これをドイツ語でトロッケンユーブングと言う。乾いた練習である。前者は無駄な徒労を言い否定的な言葉だが、後者は所謂イメージトレーニングを意味して合理的で肯定的な言葉である。
分析への欲求や対象に迫ろうとする意志が、ザッハリッヒなトロッケンユーブングを可能にする。そういえば、カービンスキーのイメージトレーニングをするのを忘れていた。