パトリス・シェローの十三本目の映画「ガブリエル」が話題になっている。青年シェローは、バイロイトのヴァーグナーフェスティヴァルでの楽劇「リング」の演出でスキャンダルとなり世界的に有名となった。現在も超一流舞台芸術家として活躍中で、当時オペラ界では奇才とされた演出も、数年前のザルツブルクでの公演を見るとどちらかと言えば精緻で音楽的内容との同調が魅力となっている。ある種の人気オペラ演出家よりも音楽的かもしれない。
さて、今回の作品は、監督の存在に負けず劣らず、初顔合わせのイザベル・ユペールが四つに組んだと話題になっている。目下フランスでの大売れっ子で、評価も高く、最も仕事量の多い実力派の女優である。今回の映画に於いても新聞出版者の奥様役の演技が、その繊細さで絶賛されている。新聞評によると、ジョセフ・コンラードの原作が1912年のパリに舞台を移されている。主人は、毎週木曜日のサロンが開かれる自宅で、鏡の前に残された妻の別れの手紙を見付け、それを読んでコニャックのデキャンタとグラスを下に落とす。そして初めて、最初の序幕の11分間に続いて、一度出て行った妻が直ぐに帰還して登場。二つ並べ称される、夫婦の深い亀裂と将来への亀裂が、非現実的なオーラの中で破局へと向う。木曜の夜から金曜日の朝にかけてのインテルメッツォに続いて、生活の延長の中でのテロが今日も何時もの如く繰り返される。
数多の夫婦破局物とは多いに異なるとあり、是非観てみたい大人の映画である。インタヴューで監督は、雪溶けまでに日数を要したと言う女優との共同作業を振り返り、単純な俳優さんに利点は無いと、この女優を根底から揺り動かして反発してくるのを待ったと語る。一方、女優の方は元々映画は、クライミングのような劇場活動に比べれば、和気藹々とした散歩のようだとしながらも、この監督は人間を良く知っているので、その理に適った要求に抵抗があった訳がなく、劇場を知っている優秀な監督が手抜きをせずに推し進めた成果と回想する。
殆んど主演の80回に及ぶ映画出演の連戦練磨で見事に訓練されたこの女優は、三島由紀夫原作の映画「肉体の学校」でも大変存在感ある演技を見せていた。しかしその映画も残念ながら映画館での上映は配送が遅れて観れなくて、TVの吹き替えを観ただけである。1998年カンヌ映画際参加のこの作品は、大賞を受賞するには画像など今ひとつであったが、原作の華族出身のモードデザイナー妙子はパリで四十歳代の一流デザイナー・ドミニックと移しかえられて、若い野性的なバーテンダーのカンターンを引っかける。恋人との教育的な逢引を重ねるうちに、独占慾から何時しか自らの許に住まわせ、母親のように世話をしだす。そして愛の鞘当ての後、原作では女は勝負を賭けて熱海へと連れ出すが、この映画ではモロッコ旅行となり、若い恋人はパリの自分のブティックの顧客の娘と知り合う事になる。若き裕次郎風のヴィンセント・マルティネのカンターン役も良かったが、年増女のイザベル・ユペールの表情やら仕草は非常に良かった。面の造作が大まかでないので、大変細かな表情に見えて、原作を読むと如何してもこの手の表情を思い起こして仕舞う。
未だ観ぬ新作映画の新聞評を今暫し読み返すと、コンラードの原作の甘酸っぱいモラルを、肉体の色付けを好むシェローはこれを「愛の悲劇」にして、イザベル・ユペールが肉体付けしたとされる。一旦屋敷を後にして、その日の内に戻って来た妻は、最後に主人に有りの侭の姿を見せる、その時の精神の色相が、青く白ずんだ血の引けた皮膚によって、黴生して行く様な映像だけでも、この映画を観る価値があると言う。
映像表現も創る者が作ると、舞台表現に劣らないほどの、示唆に富んだスリリングな表現が可能のようだ。この新しい映画の「新聞出版者のご主人の上流模倣癖」は、なぜか上流模倣癖をふんだんに散りばめた三島の小説に於ける、妙子が千吉を誘った旅行先に熱海を選んだ理由を思い起こさせる。真っ黒な田舎の夜よりもネオンサインの夜を求める若い男を評して、「上流模倣癖がまるきり無いせいだ」と考えて中庸な候補地の選択をする。
インタヴューで、イザベル・ユペールは、「ガブリエルを遥かに攻撃的な女性として描く事が出来たろうが、私達はむしろ彼女の眼の力を持って夫を真綿で〆るとする表現へと傾いた。これは差し詰め、この女性が語る容赦ない過酷そのものであり、通常はこれもひっそりと内に秘める方が強力なのである。しかし、ガブリエルに於いてはそれを示す事を第一義にしているのだ。」と締めくくっている。
こうして、ミニマリスムと称されるこの一人の女優が描いた二人の女性の、不可逆な時間の流れの中での、撤回不可の一回限りの決断が示される。
参照:
スクリーンの中の史実 [ 文化一般 ] / 2006-01-10
経済成長神話の要塞 [ 文化一般 ] / 2005-10-13
多感な若い才女を娶ると [ 女 ] / 2005-08-22
デジャブからカタストロフへ [ アウトドーア・環境 ] / 2005-02-19
さて、今回の作品は、監督の存在に負けず劣らず、初顔合わせのイザベル・ユペールが四つに組んだと話題になっている。目下フランスでの大売れっ子で、評価も高く、最も仕事量の多い実力派の女優である。今回の映画に於いても新聞出版者の奥様役の演技が、その繊細さで絶賛されている。新聞評によると、ジョセフ・コンラードの原作が1912年のパリに舞台を移されている。主人は、毎週木曜日のサロンが開かれる自宅で、鏡の前に残された妻の別れの手紙を見付け、それを読んでコニャックのデキャンタとグラスを下に落とす。そして初めて、最初の序幕の11分間に続いて、一度出て行った妻が直ぐに帰還して登場。二つ並べ称される、夫婦の深い亀裂と将来への亀裂が、非現実的なオーラの中で破局へと向う。木曜の夜から金曜日の朝にかけてのインテルメッツォに続いて、生活の延長の中でのテロが今日も何時もの如く繰り返される。
数多の夫婦破局物とは多いに異なるとあり、是非観てみたい大人の映画である。インタヴューで監督は、雪溶けまでに日数を要したと言う女優との共同作業を振り返り、単純な俳優さんに利点は無いと、この女優を根底から揺り動かして反発してくるのを待ったと語る。一方、女優の方は元々映画は、クライミングのような劇場活動に比べれば、和気藹々とした散歩のようだとしながらも、この監督は人間を良く知っているので、その理に適った要求に抵抗があった訳がなく、劇場を知っている優秀な監督が手抜きをせずに推し進めた成果と回想する。
殆んど主演の80回に及ぶ映画出演の連戦練磨で見事に訓練されたこの女優は、三島由紀夫原作の映画「肉体の学校」でも大変存在感ある演技を見せていた。しかしその映画も残念ながら映画館での上映は配送が遅れて観れなくて、TVの吹き替えを観ただけである。1998年カンヌ映画際参加のこの作品は、大賞を受賞するには画像など今ひとつであったが、原作の華族出身のモードデザイナー妙子はパリで四十歳代の一流デザイナー・ドミニックと移しかえられて、若い野性的なバーテンダーのカンターンを引っかける。恋人との教育的な逢引を重ねるうちに、独占慾から何時しか自らの許に住まわせ、母親のように世話をしだす。そして愛の鞘当ての後、原作では女は勝負を賭けて熱海へと連れ出すが、この映画ではモロッコ旅行となり、若い恋人はパリの自分のブティックの顧客の娘と知り合う事になる。若き裕次郎風のヴィンセント・マルティネのカンターン役も良かったが、年増女のイザベル・ユペールの表情やら仕草は非常に良かった。面の造作が大まかでないので、大変細かな表情に見えて、原作を読むと如何してもこの手の表情を思い起こして仕舞う。
未だ観ぬ新作映画の新聞評を今暫し読み返すと、コンラードの原作の甘酸っぱいモラルを、肉体の色付けを好むシェローはこれを「愛の悲劇」にして、イザベル・ユペールが肉体付けしたとされる。一旦屋敷を後にして、その日の内に戻って来た妻は、最後に主人に有りの侭の姿を見せる、その時の精神の色相が、青く白ずんだ血の引けた皮膚によって、黴生して行く様な映像だけでも、この映画を観る価値があると言う。
映像表現も創る者が作ると、舞台表現に劣らないほどの、示唆に富んだスリリングな表現が可能のようだ。この新しい映画の「新聞出版者のご主人の上流模倣癖」は、なぜか上流模倣癖をふんだんに散りばめた三島の小説に於ける、妙子が千吉を誘った旅行先に熱海を選んだ理由を思い起こさせる。真っ黒な田舎の夜よりもネオンサインの夜を求める若い男を評して、「上流模倣癖がまるきり無いせいだ」と考えて中庸な候補地の選択をする。
インタヴューで、イザベル・ユペールは、「ガブリエルを遥かに攻撃的な女性として描く事が出来たろうが、私達はむしろ彼女の眼の力を持って夫を真綿で〆るとする表現へと傾いた。これは差し詰め、この女性が語る容赦ない過酷そのものであり、通常はこれもひっそりと内に秘める方が強力なのである。しかし、ガブリエルに於いてはそれを示す事を第一義にしているのだ。」と締めくくっている。
こうして、ミニマリスムと称されるこの一人の女優が描いた二人の女性の、不可逆な時間の流れの中での、撤回不可の一回限りの決断が示される。
参照:
スクリーンの中の史実 [ 文化一般 ] / 2006-01-10
経済成長神話の要塞 [ 文化一般 ] / 2005-10-13
多感な若い才女を娶ると [ 女 ] / 2005-08-22
デジャブからカタストロフへ [ アウトドーア・環境 ] / 2005-02-19