BELVEDERE
モニカ・キス・ホルヴァート
2004年制作
美学と生態学を足して、何もこれはボードレールやベンヤミンの専売特許で無く、散策学として扱われるらしい。ヨゼフ・ボイスがカッセル市で制作した作品「カッセルの行政」と言うのがあるらしい。「森の代名詞として七千本の木を見る事が出来るか」と言う命題である。ボイスは、7000本の玄武岩のプレートを各々の木の横に一本つつ植えて行く。その最初に全ての玄武岩を町の中央の広場に積み重ねた。当然の事ながら、町中の物が皆其々の近所でこの玄武岩のプレートを発見して、こうした木が七千本ある事を知る。つまり、森の無い町中にも森があることを発見するのである。
このような知的で芸術的な考え方が現代の都会の森とするならば、一体自然の光景とは何なのであろうかと問う。18世紀の英国の資本家やルソーが将来に見たものは、ギリシャ神話やローマの牧童たちがまどろむ川辺の日陰でも無く、またしてもそこの奴隷たちの働く生産の園でも無かった。承知の通り、現代のツーリストが描く絵葉書通りの光景は、またそれとは違う。
このような喩えは、オランダの巨匠達が見て描いた光景は、我々がその絵画に見て取る光景とも違うという考えにも当て嵌まる。巨大な風車は、決して長閑で素朴な光景ではありえなくて、現代の原発の水蒸気塔にも当たるのかも知れない。
アルプスに目を向けるならば、フェルディナンド・ホドラーなどの「特別な目」を持った画家のみならず、ウイリアム・ターナーやぺーター・ブリューゲル、ジョヴァンニ・セガンティーニ、オスカー・ココシュカなど各々が個性的な視点を持っている訳で、それらの絵画の風景と絵葉書の風景の差異は明白である。
ツーリズムが求める典型的なアルプスの風景は、アルムの生活が含まれている場合もあり、発達した観光産業が写し込まれている場合もある。何れの場合も、地方行政はそれを観光行政として、自然景観を人工的に整備する。こうした風景が絵葉書の風景と定義出来るであろう。
ある直木賞作家が初めてアルプスを訪れて、「鋭いシルエットや威圧的な形状は、人を撥ね付けるようで…山は麓から見るに限る」と言う結論に達して、当時の日本の山岳雑誌などで反響があった覚えがある。これなども、特定の風土を舞台に独自の固定された文化の中で人間模様を描いて来た大衆小説作家がその絵葉書的な風景の「自然」に当惑して、なんとか自己の認識内でその主観との接点を求めようとする作業と見て取れる。勿論ここでは、麓の現在の生活などが目に入る余裕も理解出来る柔軟性も無かったのであろう。その一方、飽く迄もアルピニズムの幻想を追う当時の雑誌読者は、人工的な自然の風景などは目に入らずに、山岳ツーリズムなどを認める事すら出来なかったのだ。
これは散策における観察や感想が何らの意味を為さない良い例でもある。木を見て、頭上に降りかかる幹や梢を見る事が出来る。森から離れて、広がる木立を眺める事は出来る。それでも森の奥行きや大きさは一向に分からない。これを地図で以って確認したり、上空から一望する事は出来るかもしれない?
そのような一定しない風景を思い描いて見る。ウイリアムテルの舞台であるフィーアヴァルトシュテッター湖畔の町ベッケンリードに木枠に包まれたアクリルの鏡が設置されている。上の写真では対岸のゲルザウワーシュトックが黒く光を反射している。これが気に入ったのでその写真のコピーを作者から貰って来た。この写真を見た時は、何故かターナーの絵画をイメージした。コンスタンスブルでも無く、何故そう思ったのか。エンゲルベルクの谷に近いので、次回は是非自分でその日の風景を写して来たいと思っている。晴天であろうが、雪模様であろうが。
参照:
街の半影を彷徨して [ アウトドーア・環境 ] / 2005-12-11
デューラーの兎とボイスの兎 [ 文化一般 ] / 2004-12-03
開かれた平凡な日常に [ 文学・思想 ] / 2005-12-30
タウヌスの芸術家植民地 [ 文化一般 ] / 2006-02-01