カーヴィンスキーによって、アルペンスキーは変わった。しかし欧州のスキー場での観察からすると、そのカーヴィングへの技術移行は道具の移行ほどに急激に進んでいない。今回も一本のスキーを脱いで、片足で練習をするグループが居た。これなどは、従来のアルペンスキーをこなして来たスキーヤーのリフレッシュの意思と見る事が出来る。若いスキーヤー層は、スノーボードやカーヴィンスキーが発達して大分に年数が過ぎたので、カーヴィンスキーで始めた層が主体となって来ているのは当然である。その反面、従来のアルペンスキーをある程度身に付けたベテランスキーヤーは、自らの滑りが時代遅れになるのを危惧しながらも、本格的なカーヴィング技術の習得には余り積極的で無いかもしれない。
今回の自らの体験を顧みると、先シーズン最終日に続いて内足過重で、二日間滑りを通す事が出来た。寧ろ前回よりも苦にならなかったのは、殆んどしなかったとは言え、イメージトレーニングが出来ていたお陰であろうか。内足過重に安定したスキー靴があれば更に楽に出来ると確信する。充分に内足の小指方向に乗り切れては居ないが、様々な斜面や距離を滑っても違和感は無くなって来た。最も大きな成果は、少々の荒地ならば、カーヴィングで乗り切って仕舞える事に気が付いた事である。つまり、どの様な斜面に置いても、このように雪面を切って行ける滑りが可能ならば、従来のベテランスキーヤーが崖の上で魅せる、落としながら降りてくる含蓄に満ちたスキーは余り必要で無くなる。
さてここで考えて措きたいのは、そのカーヴィンスキーの容易さであって、言えばスポーツとして体に身に付けると、比較的斜面状況に捕われずに切っていける用具の秀逸と技術の洗練である。従来アルペンスキーに措いて、斜面を見てルート取りなどを心に描いて居た者が、何も考えずに雪面を切ってテンポ良く降りてしまえる事は全く以って素晴らしい。スノーボードに近づいてかつ、それよりも速度が断然速い。初心者がスキーを習得するのも容易になって、アルペンスキーのように修行の年月が必要なくなった。その反面、スキーの原点であるテレマークスキーが近頃盛んになっている事を顧みると、修行によって摑んだ経験は一体何であったのだろうかと疑問が沸く。
その疑問は、経験の不足した者が深雪の斜面を滑り雪崩を引き起こしたり、ターンでスピードの落ちない高速カーヴィングで自他共に怪我をしたりと言う事にも繋がる。しかし、漫然と感じる疑問は、それとは違う次元で、このような物質的な恩恵が無ければ、更に多くの時間を有したであろう「憧れ」に容易に到達して仕舞った不安感でもある。パラグライダーの時にも感じたような容易さは何らかの不安にも繋がる。
とは言いながらも、カーヴィング技術を洗練させて行くのは課題である。初めは橇スタイルで内足に乗っていたが、急斜面では乗り切れない事に気が付いて、カーヴの内心を確りと絶えず頭に描くようにして、その内側へと体を倒して行くイメージを持つと、内エッジが切れ出して来る。兎に角、日頃の運動不足が祟って、高所の薄い空気で息が上がり、スピードを出せば咽喉の奥は凍り、ゼイゼイといわせねばならない。それも休憩後は落ち着くが、そのころには昨日の疲れが足に出てくる。そして驚くべき事に、寒冷下に係わらず筋肉痛が数時間後に出て、6日以内には殆んど引いている。運動の質によるのか、このところ新陳代謝が何かによって促進されているのか判らないが、生気が漲る思いである。
今回の自らの体験を顧みると、先シーズン最終日に続いて内足過重で、二日間滑りを通す事が出来た。寧ろ前回よりも苦にならなかったのは、殆んどしなかったとは言え、イメージトレーニングが出来ていたお陰であろうか。内足過重に安定したスキー靴があれば更に楽に出来ると確信する。充分に内足の小指方向に乗り切れては居ないが、様々な斜面や距離を滑っても違和感は無くなって来た。最も大きな成果は、少々の荒地ならば、カーヴィングで乗り切って仕舞える事に気が付いた事である。つまり、どの様な斜面に置いても、このように雪面を切って行ける滑りが可能ならば、従来のベテランスキーヤーが崖の上で魅せる、落としながら降りてくる含蓄に満ちたスキーは余り必要で無くなる。
さてここで考えて措きたいのは、そのカーヴィンスキーの容易さであって、言えばスポーツとして体に身に付けると、比較的斜面状況に捕われずに切っていける用具の秀逸と技術の洗練である。従来アルペンスキーに措いて、斜面を見てルート取りなどを心に描いて居た者が、何も考えずに雪面を切ってテンポ良く降りてしまえる事は全く以って素晴らしい。スノーボードに近づいてかつ、それよりも速度が断然速い。初心者がスキーを習得するのも容易になって、アルペンスキーのように修行の年月が必要なくなった。その反面、スキーの原点であるテレマークスキーが近頃盛んになっている事を顧みると、修行によって摑んだ経験は一体何であったのだろうかと疑問が沸く。
その疑問は、経験の不足した者が深雪の斜面を滑り雪崩を引き起こしたり、ターンでスピードの落ちない高速カーヴィングで自他共に怪我をしたりと言う事にも繋がる。しかし、漫然と感じる疑問は、それとは違う次元で、このような物質的な恩恵が無ければ、更に多くの時間を有したであろう「憧れ」に容易に到達して仕舞った不安感でもある。パラグライダーの時にも感じたような容易さは何らかの不安にも繋がる。
とは言いながらも、カーヴィング技術を洗練させて行くのは課題である。初めは橇スタイルで内足に乗っていたが、急斜面では乗り切れない事に気が付いて、カーヴの内心を確りと絶えず頭に描くようにして、その内側へと体を倒して行くイメージを持つと、内エッジが切れ出して来る。兎に角、日頃の運動不足が祟って、高所の薄い空気で息が上がり、スピードを出せば咽喉の奥は凍り、ゼイゼイといわせねばならない。それも休憩後は落ち着くが、そのころには昨日の疲れが足に出てくる。そして驚くべき事に、寒冷下に係わらず筋肉痛が数時間後に出て、6日以内には殆んど引いている。運動の質によるのか、このところ新陳代謝が何かによって促進されているのか判らないが、生気が漲る思いである。