Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

調査と云う似非文化問題

2008-03-10 | SNS・BLOG研究
鯨などにはあまり興味がない。それでも日本のネット情報からみるに、かなり熱い議論となっているようだ。過去二十年間の捕鯨に関する推移はよく知らない。だから、日本政府が調査捕鯨と称して、過去二十年間に七千頭近くの鯨を捕獲して、それを市場に流すことで、従来の捕鯨産業を保護している様子はただ驚きでしかない。

南極海での阻止活動もあの手の狂信的な自然保護団体の常套手段ではあるが、今後とも粘り強く妨害が続けられるのは充分に予想される。広範な世論から集められる寄付金で潤沢な資金が確保されればされるほど、遠く南極の海での調査と称する捕鯨活動には勝算はないであろう。恐らく、現在のような妨害を掻い潜っての捕鯨では、商業的には採算が合わないに違いない。それともそれほど商業的に面白い産業なのであろうか?

初めて、水産庁捕鯨班HPを覗いてみて、予想以上のいかがわしさが知れた。結局、調査捕鯨の建前に、科学やら統計やら文化やらの御託が並べられて、誤字脱字が示すようなこじつけた下手な独善的な文章で主張されているのは、広範な商業捕鯨とその貿易による従来の水産産業の復活でしかない事が一目瞭然なのである。

逐一、その滑稽さに触れる気もしないが、公海での商業捕鯨のみならば、IWCを 脱  退 することで即可能に違いないが、それを日本の国内市場で捌くのみならず、否応無しに収穫を輸出することを旨としていることから、脱退をも是とせずに、調査という「科学」を持ち出してきている。まさにG8の一つの政府の其処の偽りこそが現在国際世論の批判の的となっている。そのゴリ押しの論理は、ブッシュ政権によるイラク侵攻にもどことなく似ている。

そればかりか、伝統文化・食文化というような高尚な概念を持ち出しているのが大変場違いである。それに対して少数民族保護の立場からの譲歩しているにも拘らず、表向きは「人種差別に繋がるので反対」とする詭弁を用いている。本来ならば伝統文化としての食文化や既に廃れつつある捕鯨文化を、文化として保護すれば良いのであるが、其処で割り当てられる予想される二桁台の捕獲割り当てでは、日本政府が意図している水産業保護の目的には至らないのであろう。そもそも重金属で汚染された沿岸捕鯨などでは産業にならないのだろう。

その一方、日本の新聞の社説やネットでの議論は、食文化と民族主義的な主張がその隠された意図以上に「日本民族の被害妄想意識」を刺激する世論形成のために強調されているようにしか思われない。その論調はエルドガン政権のトルコの状況をさえ想起させる。現在、鯨を日常的に食用とするのは世界でもまた日本でも少数派であることから、少数派保護には相違ないと思われるが、否応にも南極まで船団を連ね其処で捕獲した鯨を国内市場で大々的に捌き、あの不味く今でも思い出すだけで吐き気を催させる鯨肉給食を復活させ、希少価値をもった鯨を海外へと高く売る叩こうとする魂胆はどうにも隠しようがない。

日本国内での様々な情報操作とは一線を隔して、現在の熱を帯びる日本の捕鯨報道を客観的に見るとこうなる。犬を食することに対するのと同じで、鯨を食することを止めろと活動する者が存在することと、大規模の商業捕鯨を禁止することとは意味が異なる。だからこそ調査捕鯨という隠れ蓑を着込み、大規模の捕鯨を展開して、国内市場のみの流通では飽き足らず、それを大々的に貿易しようとするのは、全く解せない。

水産庁の主張を裏読みするとこうなるのだが、日本国内での一致した論拠は「民族主義的な文化問題」と政治的に故意に擦りかえられているところが大変危なっかしいように思える。捕鯨の問題は、あくまでも米問題に深く関わる食糧自給率問題と同じように国内産業保護政策なのだろう。



参照:
消化不良 (雨をかわす踊り)
環境テロリスト (夕暮れのフクロウ)
シー・シェパードの暴力行為 捕鯨問題 (JUNSKYblog2008)
二枚舌のパタゴニア日本支社公式見解を嗤う (月山で2時間もたない...)
若者の保守化とは何か? (モンゴルから見えるアジア)
物言わぬ国民性 (私の勝手な主張!!)
シー・シェパード (ヤマシログ)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする