冷たい雨のカーフライタークである。日蝕の空である。ヴァチカンでの昨晩の教皇の復古調儀式は大問題となっている。一貫した復古主義は、現在のカトリックの政治文化的な位置付けを考えれば必ずしも悪くはないと思われる。
今回のラテン語によるミサでは、「ユダヤ人への改心の促し」は宗教としては当然の行ないに違いない。しかし、ヒトラーユーゲントの過去をもつベネディクト16世がこれを行ない、ドイツのアウグスブルクなどの教会がこれを儀式とするとやはり大問題となるのである。
キリスト処刑の加害者ユダヤ人の日蝕の記載を大分修正してあると言うが、ユダヤ教会にとっては「放っておいてくれ」ではなく「許されない」事となるのである。年に一度の祈りの儀式的言葉であるが、ユダヤ人を屈辱したとされる。
この問題に対して、教皇のアドヴァイザーが記事を投稿している。それをみると若きラッチンガーが1962年から取り組んでいたテキスト改正の詳しい進展が分かるのだが、何よりもユダヤ人迫害の歴史が強制改宗としての過剰反応を起こさせているとするのは間違いなかろう。
ローマ人の使徒への手紙11章が根拠とされ、そこの「イスラエルの再興」に示されているように、「この計画とは、一部のイスラエル人がかたくなになったのは、異邦人全体が救いに達するまでであり、その後全イスラエルが救われると言うことです」。聖書に次のように書いてある。
「救うかたがシオンから来て、
ヤアコブから不信人を遠ざける。
これこそ、わたしが、
彼らの罪を取り除くときに、
彼らと結ぶわたしの契約である」。
要するにキリスト教信仰におけるユダヤ人と異邦人の関係はそのドグマに定められているので、容易には切り除くことはできないが、一神教内での対話が道を開くとするものである。
余談ながら、メルケル首相のイスラエル訪問は成功理に終わったようであるが、イスラエルとドイツ連邦共和国との歴史的な契約とは別に、偽りのない強いプロテスタント心情がこの女性宰相の胸には確信を持って隠されているだろう事も見逃せない。
今後の反響によっては、謝罪や訂正などに追いやられる可能性もあるが、所詮カトリックの教義自体が現代からすれば大きな問題を抱えていることであり、ドイツカトリックのヴァチカンに対する批判も、なにもこの問題だけに留まらないのは事実である。
反対に高度な議論を尊ぶ教皇とは言えども、最近になって出揃ってきたラッチンガーの私書「ナザレのイエス」に対する反論とは異なり、こうした儀式に関しては強い指導性を示していかなければならないに違いない。
カトリック教会自体がそうした微妙な伝統感覚のなかでしか生き残れないだろうから、こうした態度は仕方ないように思うのだがどうだろう。そして、チベット弾圧に関して中共政府を非難した教皇の発言に、「内政干渉だ、放っておいてくれ」と反論する中共政府がある。問題は、同じように対話を繰り返して理解して行くだけの共通の素地があるかどうかである。もし、そうしたものの存在に否定的な見解を支持するとすれば、そもそも各々が国際協調どころか平和や友好などという言葉を使うのも馬鹿馬鹿しい。
各々のドグマから容易に解き放たれる訳ではなく、ひっそりと仕舞われて各々の立場が出来上がっていることは確かなのである。聖金曜日の天候は、一時間おきに、霙交じりの悪天とカンカン照りが繰り返されている。
今回のラテン語によるミサでは、「ユダヤ人への改心の促し」は宗教としては当然の行ないに違いない。しかし、ヒトラーユーゲントの過去をもつベネディクト16世がこれを行ない、ドイツのアウグスブルクなどの教会がこれを儀式とするとやはり大問題となるのである。
キリスト処刑の加害者ユダヤ人の日蝕の記載を大分修正してあると言うが、ユダヤ教会にとっては「放っておいてくれ」ではなく「許されない」事となるのである。年に一度の祈りの儀式的言葉であるが、ユダヤ人を屈辱したとされる。
この問題に対して、教皇のアドヴァイザーが記事を投稿している。それをみると若きラッチンガーが1962年から取り組んでいたテキスト改正の詳しい進展が分かるのだが、何よりもユダヤ人迫害の歴史が強制改宗としての過剰反応を起こさせているとするのは間違いなかろう。
ローマ人の使徒への手紙11章が根拠とされ、そこの「イスラエルの再興」に示されているように、「この計画とは、一部のイスラエル人がかたくなになったのは、異邦人全体が救いに達するまでであり、その後全イスラエルが救われると言うことです」。聖書に次のように書いてある。
「救うかたがシオンから来て、
ヤアコブから不信人を遠ざける。
これこそ、わたしが、
彼らの罪を取り除くときに、
彼らと結ぶわたしの契約である」。
要するにキリスト教信仰におけるユダヤ人と異邦人の関係はそのドグマに定められているので、容易には切り除くことはできないが、一神教内での対話が道を開くとするものである。
余談ながら、メルケル首相のイスラエル訪問は成功理に終わったようであるが、イスラエルとドイツ連邦共和国との歴史的な契約とは別に、偽りのない強いプロテスタント心情がこの女性宰相の胸には確信を持って隠されているだろう事も見逃せない。
今後の反響によっては、謝罪や訂正などに追いやられる可能性もあるが、所詮カトリックの教義自体が現代からすれば大きな問題を抱えていることであり、ドイツカトリックのヴァチカンに対する批判も、なにもこの問題だけに留まらないのは事実である。
反対に高度な議論を尊ぶ教皇とは言えども、最近になって出揃ってきたラッチンガーの私書「ナザレのイエス」に対する反論とは異なり、こうした儀式に関しては強い指導性を示していかなければならないに違いない。
カトリック教会自体がそうした微妙な伝統感覚のなかでしか生き残れないだろうから、こうした態度は仕方ないように思うのだがどうだろう。そして、チベット弾圧に関して中共政府を非難した教皇の発言に、「内政干渉だ、放っておいてくれ」と反論する中共政府がある。問題は、同じように対話を繰り返して理解して行くだけの共通の素地があるかどうかである。もし、そうしたものの存在に否定的な見解を支持するとすれば、そもそも各々が国際協調どころか平和や友好などという言葉を使うのも馬鹿馬鹿しい。
各々のドグマから容易に解き放たれる訳ではなく、ひっそりと仕舞われて各々の立場が出来上がっていることは確かなのである。聖金曜日の天候は、一時間おきに、霙交じりの悪天とカンカン照りが繰り返されている。