先日体験したテレマン作曲のブロッケス受難曲においても、信心の三重唱などがあって、ややもするとその扱いによってはかなり誤解を招き易い描写となっている。それを後期バロックとカテゴリー付けしてしまえばそれで終わるが、その中身を覗きこむことが肝要なのである。
そうした観察を難しくしている時代の流れと、謂わば当然のように連なる反動的な文化的進展は、同じく反動的な立場で議論を展開するアドルノのシェーンベルク擁護などにも見られる。そこで図られているのはハイドン以降の欧州の芸術音楽の美学の総否定的決算である。
先日来幾つかの好事家のブログ等でも話題となっているのが、ヴァイオリン協奏曲がその終焉にあたって歴史上初めて構造的に完成したとされる、シェーンベルクが米国亡命後に完成させた協奏曲の新録音である。
該当録音は未聴であり、その機会はないが、先ずはその新聞評などを読んで、この名曲であると同時に難曲を観察してみる。
この曲はハイフェッツを脳裏に描いて創作されて結局その難解さから断わられたように、その本格的なヴァイオリン演奏にブラームスやマーラーを聞くとするのが、若いヴァイオリニスト・ヒラリー・ハーンが録音した制作に対する新聞評である。
この若い女流ヴァイオリニストはお写真しかみた事がないのでなんとも言えないが、この評にて大体の傾向は想像出来る。そして、其処で比較として挙げられているルイス・クラスナーとミトロプウーロス指揮のケルンとミュンヘンでの録音は知らなかったが、それらよりはヴァイオリンの技術は優れていると言う。
さて、当方のリファレンスレコーディングとの比較では、ピエール・アモワイヤル演奏でブーレーズが指揮したものよりも速いテンポで演奏されているようである。この女流自身が語るように、伝統を逸脱したポジション取りや早いアルペジオの稽古に年月をかけたと、正しく発音することがなかなか伝統的な教育を受けた器楽奏者には梃子摺る代物であることを示している。
それがアモワイヤルの演奏では、恐らく奏法の相違からももたされているであろうフランス人の十二分に「弾ききれていない発声」に違和感を感じつつ、軽いテンポのブーレーズの指揮と相俟って上手く流しているのとは対称的に、ラファエル・クーベリックの支えを受けたツヴィ・ツァイトリンの録音では、この新聞評でも動機的な明晰さが指摘される。
特にこの一楽章においては、楽曲分析で度々取り上げられるカデンツァ後のヴァイオリンの連続する三連音による管弦楽の受け渡しに、ヴァイオリンでは十二分な音の積み重ねとそれに対応する管弦楽の対位法的な展開が然るべきフィナーレを形成するのだが、その部分におけるクーベリックの指揮はその精妙な面白さを十二分に伝えていない。
後年のピアノの協奏曲ではあれほどの効果を挙げたラファエル・クーベリックの演奏が12音の音列作法の分析的な繊細を活かしきれていないのが驚くに値しないのは、器楽奏者がそうした伝統的な技術教育を受けているのと同じく指揮者においてもどうしてもその楽曲解釈のよりどころが古典ロマン派的な調性機能が基本になっているからだろう。
それと比較すれば、女流を支えるエサペッカ・サローネンは、ロンドマーチなどでも、鳴らない音列にダイナミックスを与える事に全てを懸けている風情が容易に想像出来る。
その点から、シェーンベルクの編曲で知られるヘンデルにおけるバロック技法とともにこうしてテレマンのそれを平行して考えてみる機会となったのである。それをフランスのリュリからラモーへのまた当時の楽典議論によりどころを見つけても、ただ単にオブリガートによるその旋法を見ても良いが、音楽愛好家としては何よりも出来る限り後年の価値観に侵されていない音感覚を取り戻したいと期待するであろう。
反対にシェーンベルクが、第四弦楽四重奏曲の作曲を挟みながら二年越しで完成させたこの音列による創作がヴァイオリンと言う宿命的な調性楽器のために作曲した意味を ― 後のいよいよ自由闊達な境地にその作曲家自身の境遇を垣間見せる12音平均率のピアノ協奏曲と比較して ―、考えるだけで、アカデミックな音列の分析をして府分けしていくよりもこの曲を理解する鍵を多く与えてくれるかもしれない。
今回の録音が、話題を提供して尚且つ、技術的な水準に達していることから、次世代の演奏実践に繋がる、それ以上に多くの音楽愛好家にこの創作の真価を少しずつ伝える契機になりそうである。
参照:
シェーンベルクとシベリウスのヴァイオリン協奏曲 (♯Credo)
バッハの無伴奏ヴァイオリンおよびチェロのための作品 (西部戦線異状なし)
同じ考えの人が他に6人もいた (4文字33行)
ハーンのシェーンベルク (ピースうさぎのお気楽クラシック)
ルソー、
ルソー (現象学 便所の落書き)
そうした観察を難しくしている時代の流れと、謂わば当然のように連なる反動的な文化的進展は、同じく反動的な立場で議論を展開するアドルノのシェーンベルク擁護などにも見られる。そこで図られているのはハイドン以降の欧州の芸術音楽の美学の総否定的決算である。
先日来幾つかの好事家のブログ等でも話題となっているのが、ヴァイオリン協奏曲がその終焉にあたって歴史上初めて構造的に完成したとされる、シェーンベルクが米国亡命後に完成させた協奏曲の新録音である。
該当録音は未聴であり、その機会はないが、先ずはその新聞評などを読んで、この名曲であると同時に難曲を観察してみる。
この曲はハイフェッツを脳裏に描いて創作されて結局その難解さから断わられたように、その本格的なヴァイオリン演奏にブラームスやマーラーを聞くとするのが、若いヴァイオリニスト・ヒラリー・ハーンが録音した制作に対する新聞評である。
この若い女流ヴァイオリニストはお写真しかみた事がないのでなんとも言えないが、この評にて大体の傾向は想像出来る。そして、其処で比較として挙げられているルイス・クラスナーとミトロプウーロス指揮のケルンとミュンヘンでの録音は知らなかったが、それらよりはヴァイオリンの技術は優れていると言う。
さて、当方のリファレンスレコーディングとの比較では、ピエール・アモワイヤル演奏でブーレーズが指揮したものよりも速いテンポで演奏されているようである。この女流自身が語るように、伝統を逸脱したポジション取りや早いアルペジオの稽古に年月をかけたと、正しく発音することがなかなか伝統的な教育を受けた器楽奏者には梃子摺る代物であることを示している。
それがアモワイヤルの演奏では、恐らく奏法の相違からももたされているであろうフランス人の十二分に「弾ききれていない発声」に違和感を感じつつ、軽いテンポのブーレーズの指揮と相俟って上手く流しているのとは対称的に、ラファエル・クーベリックの支えを受けたツヴィ・ツァイトリンの録音では、この新聞評でも動機的な明晰さが指摘される。
特にこの一楽章においては、楽曲分析で度々取り上げられるカデンツァ後のヴァイオリンの連続する三連音による管弦楽の受け渡しに、ヴァイオリンでは十二分な音の積み重ねとそれに対応する管弦楽の対位法的な展開が然るべきフィナーレを形成するのだが、その部分におけるクーベリックの指揮はその精妙な面白さを十二分に伝えていない。
後年のピアノの協奏曲ではあれほどの効果を挙げたラファエル・クーベリックの演奏が12音の音列作法の分析的な繊細を活かしきれていないのが驚くに値しないのは、器楽奏者がそうした伝統的な技術教育を受けているのと同じく指揮者においてもどうしてもその楽曲解釈のよりどころが古典ロマン派的な調性機能が基本になっているからだろう。
それと比較すれば、女流を支えるエサペッカ・サローネンは、ロンドマーチなどでも、鳴らない音列にダイナミックスを与える事に全てを懸けている風情が容易に想像出来る。
その点から、シェーンベルクの編曲で知られるヘンデルにおけるバロック技法とともにこうしてテレマンのそれを平行して考えてみる機会となったのである。それをフランスのリュリからラモーへのまた当時の楽典議論によりどころを見つけても、ただ単にオブリガートによるその旋法を見ても良いが、音楽愛好家としては何よりも出来る限り後年の価値観に侵されていない音感覚を取り戻したいと期待するであろう。
反対にシェーンベルクが、第四弦楽四重奏曲の作曲を挟みながら二年越しで完成させたこの音列による創作がヴァイオリンと言う宿命的な調性楽器のために作曲した意味を ― 後のいよいよ自由闊達な境地にその作曲家自身の境遇を垣間見せる12音平均率のピアノ協奏曲と比較して ―、考えるだけで、アカデミックな音列の分析をして府分けしていくよりもこの曲を理解する鍵を多く与えてくれるかもしれない。
今回の録音が、話題を提供して尚且つ、技術的な水準に達していることから、次世代の演奏実践に繋がる、それ以上に多くの音楽愛好家にこの創作の真価を少しずつ伝える契機になりそうである。
参照:
シェーンベルクとシベリウスのヴァイオリン協奏曲 (♯Credo)
バッハの無伴奏ヴァイオリンおよびチェロのための作品 (西部戦線異状なし)
同じ考えの人が他に6人もいた (4文字33行)
ハーンのシェーンベルク (ピースうさぎのお気楽クラシック)
ルソー、
ルソー (現象学 便所の落書き)