Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

三世紀を架ける思い出

2008-03-26 | 雑感
遠縁の日系二世が亡くなったと知らせを受けた。いつの間にかメールアドレスがなくなり、本人から直接音沙汰がなくなってから、三年ほどになる。その後は、三世の娘さんの家族とのメール交換が主な付き合いとなっていた。

そして、昨年のクリスマスメールには、娘さんの家庭のツリーの横にいる母親である奥さんしか写っていなかった。それから、もしやメールを見落としたのか、それとも敢えて連絡がなかったのかと、ご本人の消息が気になった。

あとから考えれば、思いきって聞けば良かったと後悔している。メールには、一月ほど体調を壊し、たった四日間の入院で安らかに亡くなったという。享年94歳とある。

消息を聞くのを躊躇ったのには訳があった。それは2001年に義理の娘さんの実家のあったコルマーに寄って、シュヴァルツヴァルトを案内したときにも本人が主張していたことが頭にあったからである。神経科医であった彼に言わせると、「うちの家系にはアルツハイマーは無い」となぜか好い加減に確信に満ちて断言していたからである。

なるほど本人が電子メールを打てなくなっても決して老人呆けが急激に進んだとは思わないが、発信するものが少なくなっていた感じはしていた。本人の名誉のために好い加減なことは言えないが、果たしてどうだったのだろう。

実は昨晩、久しぶりにホームグラウンドのワイン地所を散歩して、最後に会ったときのことを少し思い出していた。既にその時86歳になっていた彼は戦後日本から迎えた幾らか若い奥さんと共にとても元気だった。

あの観光地のトリベャークの滝に連なる急坂を息を弾ませ、休みながら登っていた情景を思い浮かべる。昔、京都で習ったと言うドイツ語を駆使して、店などで交流を図る様子は、日本人観光客のぎこちなさとは異なり、またそこいらの野放図な米国人観光客とは異なり、ある種の親近感に満たされたものであり且つその年齢故かなかなか含蓄に富んだものであった。

Ich habe Deutsch in Japan gelernt.

とか、なんとか話し出していたのを覚えている。こちらがまだ三週間ほどしか経っていない新車を試し試し運転しているのを見て、歩道に乗り上げるように路肩に停める時は長く斜めに乗せなさいとか、細かな指示をしてくれたのを覚えている。

お互いに共に過ごした時間はとても限られたものであったが、彼にとっては、百年以上前に太平洋を渡って南米の日本大使館に潜りこみ、その後合衆国に渡り、世界大戦中は兄弟二人を故郷に送り教育させた、亡き父親の面影を私に見たのであった。

と言うことで、どうしても共通の先祖は三代前に遡るがするとさらに分家となってからの五世紀に渡る歴史のようなものを考えて仕舞うのである。それはまさに、昨晩葡萄の生育とその土壌を見た時に感じた、循環する歴史なのであった。

兄の方は戦後米国に帰国して、弟の方は日本に残り医学部を退官後十年ほどして亡くなった。四半世紀ほど前のことである。

故人と最後に会った2001年9月11日は個人的にも忘れられない日付となり、そのとき貰ったちょっとしたものが彼の形見となったのである。
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