演奏実践は予想を遥かに越えていた。受難曲公演としては珍しく、最上段席が閉鎖されるなど、作曲家ゲオルク・フィリップ・テレマン不人気か、これほど価値ある公演に充分な観客が集まらなかった。そのお蔭で二階席の四列目で、十年に何度も無いような画期的な演奏会を体験出来た意味は大きい。現代におけるテレマンの芸術の受容の限界を考えつつ、唯一無二の演奏実践を振り返ってみる。
この受難曲は、フランクフルトの有志の会のために、「パウルス教会」の前身「裸足教会」で1716年に初演された「ブロッケス受難曲」と呼ばれるものである。この当代随一のドイツの作曲家による受難曲の中でも、これの存在は、ヘンデル等の作曲があるに拘らず、恥ずかしながら全く知らなかった。残念ながら、当日のプログラムには、この受難曲の重要な作詞家であるハレで法学と哲学を修めたバルトールト・ハインリッヒ・ブロッケスのプロフェィールについて詳しいが、この受難曲オラトリオについては短くしか紹介されていない。そこには、当時のフランクフルトの市民貴族の団体に九年間務め、英国で名声を掴んだヘンデルと並ぶ大作曲家になるテレマンの毎週土曜日の入場料を取った演奏会と、そのシリーズでただテキストブック販売だけで催されたこの受難曲オラトリオの上演が記されている。そして招待客の太っ腹な寄付金が語られる。
そして、今回のフランクフルトのバッハ会員には、これがどのように受け止められたか?その前に、このオラトリオで女性ソリスツによって歌われる、主観性をもつ「シオンの娘達」を紹介しておかなければいけない。この二人は、旧約聖書でエルサレム市を意味するのだが、ここでも擬人化された形で、市民つまり依頼主であり創作活動の中心となっているフランクフルト市のパトリオリズム団体が「受難」に対峙していることになるのである。
先ずは、それが実際にはどのように響くかをみていこう。このオラトリオでは、リリックなソプラノとドラマティックなソプラノの二人が登場して、リリックな歌声はオーボエやブロックフルートのオブリガートに支えられて長いメロディーを切々と歌い上げ、ドラマティックな声はオペラで典型的なそれを適度のアクセントが加えられた管弦楽上で表現する。この二人が、各々信心Iと信心IIさらに乙女IIIと乙女IIを担当するように考え抜かれた配役マネージメントが施されている。
其処に三人目の女声である「イスカリオテのユダ」がキリストの死に直面して俄然重要性を増してくるのだが、このメゾソプラノの声は同じく、信心IIIと乙女Iを担当する。この役柄の意味深さは、例えばユダがタールや硫黄の気配が雷や地獄と共にテキストに暗示されるときのみならず、信心IIIが命の水の泉と歌う時のオブリガートの鮮烈さは、二百年以上後になってリヒャルト・シュトラウスが表現したそれ以上であり、その意味するところの効果は比較にならないほど深みを有している。モーツァルトのそれとテレマンにおけるそれを、「主観性の発露」と「環境への反照」として比べてみたくなるのである。
そしてそれは、一体何を示すかと言えば、まさにテレマンが死後急速にその名声を失って行ったのとは反比例して、啓蒙思想が異なる方向へと芸術が「疾風怒濤」の方へと向って行った社会背景の変化とすることが出来るのだろう。
つまり、ルイ王朝下に咲き放った「ヴェルサイユの芸術」のエッセンスを引き継いで、主観に容易に奔らない、高品質で最高に知的な芸術を具象化したドイツ最高レヴェルの知的文化人であったに違いないこの大作曲家は、英国で大成功をしたヘンデルのエンターティメントとは異なり、また中部ドイツの伝統的なルター教徒のバッハの至芸とも異なる、知的文化を体現していたのだろう。
その差は、批判されながらもドイツ音楽の伝統として組み込まれていくようになる、このオラトリオのシンフォニアにみる和声進行や、福音師家とキリストのレチタティーヴなどにみられる殆ど二十世紀のパロディーであるバッハ作曲「マルコ受難曲」の突き放した「ビックブラザー」に共通していて、テレマンが頭に描いた聴衆が、ロマン派時代や近現代の教養ある音楽大衆とは大きく異なり、如何に知的水準が高かったかが察せられる。
現代においてもこの作曲家の真意が今一つ広範に伝わらないのは、その客観的な視点を尚且つ多感様式と呼ばれるような繊細な表現で、それに相当する管弦楽法を駆使して声楽を支えていると言う技術的に高尚な卓越以上に、其処で描かれている一般的には啓蒙主義思想と呼ばれる「ライフスタイル」がエリート中のエリートの市民層から何時の間にか異なる支配層へと移って行った社会変動にあるとする仮説が成り立つ状況があるからではないだろうか。それをスノビズムの氾濫と呼んでも差し支えなかろう。
その仮説で議論されるエリート層の再構築こそが現在連邦共和国で教育問題として最重要視されている問題なのである。元来、王侯貴族から市民層へと芸術のパトロンは移って行った訳だが、その結果現在公費を費やして育成され助成される芸術文化活動は、大きな経済システムの中で娯楽以外の何物でもなくなってきている。だから本当の「教育価値」というものが見失われている中にあって、劇場文化を市民の教育の場として活かし、芸術を育んでいく必要がある。
それにも拘らず、「素晴らしかった」と歓声をあげるフランクフルトの良き聴衆は、有閑の高年齢層となってしまっていることが現在の問題なのであり、働き盛りの若い聴衆こそがこうした知的で感慨深い芸術に接してこそ、本当のエリート層が現代社会を支えることになるのである。
音楽芸術の化身となったバッハの受難曲オラトリオやエンターティメントの代弁者であるヘンデルの芸術が現代社会において広く一般的に受け入れられる一方、テレマンの芸術の価値が充分に知られない現代社会は、ますます何処かで履き違えた啓蒙主義を引きずっているとしても良いのかもしれない。
啓蒙思想家レッシングがこの作曲家の芸術を批判した言葉「テレマンにおいては、音楽が描くべからざるものまでを模倣するという悪趣味にしばしば陥っているのである」は、今日においてどのように読み解く事が出来るか。
敢えて言えば、こうした中庸な視点の芸術は数多くの優れた啓蒙思想家の創作にあるのみならず、おそらくエラスムスの思想などに共通するものをここにみる事が出来る。
ここまで書けば、その力強い合唱の力と繊細を極める音楽実践で、演奏者も想像がつくかもしれない。ルネ・ヤコブス指揮、三十人を越える古音楽アカデミーベルリンの演奏で、六人のソリストを加えてリアス室内合唱団が歌った。
参照:
それは、なぜ難しい? [ 音 ] / 2007-11-10
正統的古楽器演奏風景 [ 音 ] / 2005-11-13
企業活動という恥の労働 [ 雑感 ] / 2008-01-25
ケーラー連邦大統領の目 [ マスメディア批評 ] / 2008-01-02
襲い掛かる教養の欠落 [ 雑感 ] / 2007-07-27
周波の量子化と搬送 [ テクニック ] / 2007-02-26
地域性・新教・通俗性 [ 音 ] / 2006-12-18
漂白したような肌艶 [ 暦 ] / 2007-04-02
エロ化した愛の衝動 [ マスメディア批評 ] / 2007-01-04
楽のないマルコ受難曲評I(14.1-14.11) [ 暦 ] / 2005-03-22
楽のないマルコ受難曲評II(14.18-14.44) [ 暦 ] / 2005-03-24
楽のないマルコ受難曲評III(14.45-14.72) [ 暦 ] / 2005-03-25
楽のないマルコ受難曲評IV(15.14-15.47) [ 暦 ] / 2005-03-26
ヘンデルの収支決算 [ 歴史・時事 ] / 2005-03-20
滑稽な独善と白けの感性 [ 歴史・時事 ] / 2005-03-10
われらが神はかたき砦 [ 文学・思想 ] / 2005-03-04
この受難曲は、フランクフルトの有志の会のために、「パウルス教会」の前身「裸足教会」で1716年に初演された「ブロッケス受難曲」と呼ばれるものである。この当代随一のドイツの作曲家による受難曲の中でも、これの存在は、ヘンデル等の作曲があるに拘らず、恥ずかしながら全く知らなかった。残念ながら、当日のプログラムには、この受難曲の重要な作詞家であるハレで法学と哲学を修めたバルトールト・ハインリッヒ・ブロッケスのプロフェィールについて詳しいが、この受難曲オラトリオについては短くしか紹介されていない。そこには、当時のフランクフルトの市民貴族の団体に九年間務め、英国で名声を掴んだヘンデルと並ぶ大作曲家になるテレマンの毎週土曜日の入場料を取った演奏会と、そのシリーズでただテキストブック販売だけで催されたこの受難曲オラトリオの上演が記されている。そして招待客の太っ腹な寄付金が語られる。
そして、今回のフランクフルトのバッハ会員には、これがどのように受け止められたか?その前に、このオラトリオで女性ソリスツによって歌われる、主観性をもつ「シオンの娘達」を紹介しておかなければいけない。この二人は、旧約聖書でエルサレム市を意味するのだが、ここでも擬人化された形で、市民つまり依頼主であり創作活動の中心となっているフランクフルト市のパトリオリズム団体が「受難」に対峙していることになるのである。
先ずは、それが実際にはどのように響くかをみていこう。このオラトリオでは、リリックなソプラノとドラマティックなソプラノの二人が登場して、リリックな歌声はオーボエやブロックフルートのオブリガートに支えられて長いメロディーを切々と歌い上げ、ドラマティックな声はオペラで典型的なそれを適度のアクセントが加えられた管弦楽上で表現する。この二人が、各々信心Iと信心IIさらに乙女IIIと乙女IIを担当するように考え抜かれた配役マネージメントが施されている。
其処に三人目の女声である「イスカリオテのユダ」がキリストの死に直面して俄然重要性を増してくるのだが、このメゾソプラノの声は同じく、信心IIIと乙女Iを担当する。この役柄の意味深さは、例えばユダがタールや硫黄の気配が雷や地獄と共にテキストに暗示されるときのみならず、信心IIIが命の水の泉と歌う時のオブリガートの鮮烈さは、二百年以上後になってリヒャルト・シュトラウスが表現したそれ以上であり、その意味するところの効果は比較にならないほど深みを有している。モーツァルトのそれとテレマンにおけるそれを、「主観性の発露」と「環境への反照」として比べてみたくなるのである。
そしてそれは、一体何を示すかと言えば、まさにテレマンが死後急速にその名声を失って行ったのとは反比例して、啓蒙思想が異なる方向へと芸術が「疾風怒濤」の方へと向って行った社会背景の変化とすることが出来るのだろう。
つまり、ルイ王朝下に咲き放った「ヴェルサイユの芸術」のエッセンスを引き継いで、主観に容易に奔らない、高品質で最高に知的な芸術を具象化したドイツ最高レヴェルの知的文化人であったに違いないこの大作曲家は、英国で大成功をしたヘンデルのエンターティメントとは異なり、また中部ドイツの伝統的なルター教徒のバッハの至芸とも異なる、知的文化を体現していたのだろう。
その差は、批判されながらもドイツ音楽の伝統として組み込まれていくようになる、このオラトリオのシンフォニアにみる和声進行や、福音師家とキリストのレチタティーヴなどにみられる殆ど二十世紀のパロディーであるバッハ作曲「マルコ受難曲」の突き放した「ビックブラザー」に共通していて、テレマンが頭に描いた聴衆が、ロマン派時代や近現代の教養ある音楽大衆とは大きく異なり、如何に知的水準が高かったかが察せられる。
現代においてもこの作曲家の真意が今一つ広範に伝わらないのは、その客観的な視点を尚且つ多感様式と呼ばれるような繊細な表現で、それに相当する管弦楽法を駆使して声楽を支えていると言う技術的に高尚な卓越以上に、其処で描かれている一般的には啓蒙主義思想と呼ばれる「ライフスタイル」がエリート中のエリートの市民層から何時の間にか異なる支配層へと移って行った社会変動にあるとする仮説が成り立つ状況があるからではないだろうか。それをスノビズムの氾濫と呼んでも差し支えなかろう。
その仮説で議論されるエリート層の再構築こそが現在連邦共和国で教育問題として最重要視されている問題なのである。元来、王侯貴族から市民層へと芸術のパトロンは移って行った訳だが、その結果現在公費を費やして育成され助成される芸術文化活動は、大きな経済システムの中で娯楽以外の何物でもなくなってきている。だから本当の「教育価値」というものが見失われている中にあって、劇場文化を市民の教育の場として活かし、芸術を育んでいく必要がある。
それにも拘らず、「素晴らしかった」と歓声をあげるフランクフルトの良き聴衆は、有閑の高年齢層となってしまっていることが現在の問題なのであり、働き盛りの若い聴衆こそがこうした知的で感慨深い芸術に接してこそ、本当のエリート層が現代社会を支えることになるのである。
音楽芸術の化身となったバッハの受難曲オラトリオやエンターティメントの代弁者であるヘンデルの芸術が現代社会において広く一般的に受け入れられる一方、テレマンの芸術の価値が充分に知られない現代社会は、ますます何処かで履き違えた啓蒙主義を引きずっているとしても良いのかもしれない。
啓蒙思想家レッシングがこの作曲家の芸術を批判した言葉「テレマンにおいては、音楽が描くべからざるものまでを模倣するという悪趣味にしばしば陥っているのである」は、今日においてどのように読み解く事が出来るか。
敢えて言えば、こうした中庸な視点の芸術は数多くの優れた啓蒙思想家の創作にあるのみならず、おそらくエラスムスの思想などに共通するものをここにみる事が出来る。
ここまで書けば、その力強い合唱の力と繊細を極める音楽実践で、演奏者も想像がつくかもしれない。ルネ・ヤコブス指揮、三十人を越える古音楽アカデミーベルリンの演奏で、六人のソリストを加えてリアス室内合唱団が歌った。
参照:
それは、なぜ難しい? [ 音 ] / 2007-11-10
正統的古楽器演奏風景 [ 音 ] / 2005-11-13
企業活動という恥の労働 [ 雑感 ] / 2008-01-25
ケーラー連邦大統領の目 [ マスメディア批評 ] / 2008-01-02
襲い掛かる教養の欠落 [ 雑感 ] / 2007-07-27
周波の量子化と搬送 [ テクニック ] / 2007-02-26
地域性・新教・通俗性 [ 音 ] / 2006-12-18
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エロ化した愛の衝動 [ マスメディア批評 ] / 2007-01-04
楽のないマルコ受難曲評I(14.1-14.11) [ 暦 ] / 2005-03-22
楽のないマルコ受難曲評II(14.18-14.44) [ 暦 ] / 2005-03-24
楽のないマルコ受難曲評III(14.45-14.72) [ 暦 ] / 2005-03-25
楽のないマルコ受難曲評IV(15.14-15.47) [ 暦 ] / 2005-03-26
ヘンデルの収支決算 [ 歴史・時事 ] / 2005-03-20
滑稽な独善と白けの感性 [ 歴史・時事 ] / 2005-03-10
われらが神はかたき砦 [ 文学・思想 ] / 2005-03-04