朝四時過ぎに眼を覚ました。琵琶湖からの中継を観るためだ。先日からN響の放送も聴いてその世界的な視点での批評も纏めていたので、又NHKの放送で聴いた東フィルの演奏が素晴らしかったので、是非評判の芳しい琵琶湖の「指輪」を観たかった。今回はコロナ感染予防のための無観客中継ということで、世界からすれば居ながらにして島国でやっている上演を評価出来るまたとない機会となった。
先ず序幕からブリュンヒルデの声は突出していて、途中は森の中を走っていて観ていなかったが、戻って来てその死のフィナーレでも疲れなく歌っていた。スイス出身のステファニー・ミュッターというメゾソプラノから2016年になってソプラノに転向した若い歌手である。その為かなんといってもこれほどドラマティックなブリュンヒルデを聴いたことが無い。そのような背景もあって、それどころかエアフルトで恋人と寝ていて火災に遭って怪我をしたようだ。まるで大指揮者クレムペラーのような歌手である。
なるほど経歴からすれば共演のクリスティアン・フランツ程度で所謂ローカルな歌手なのだが、エアフルトでは前任のマルヴィッツ指揮で歌っていた。そしてブリュンヒルデを歌うようになって、これはこれで間違いなく需要がある。同様のキャリアではバイロイトでペトレンコ指揮で歌ったキャスリーン・フォスターよりは大分上である。少なくともだら下がりではない。そして調べると今年ヴァルトラウテでデビューするようだ。今年はテオリンが下りた歌手の代わりに入るが、この人ならブリュンヒルデを通して歌えるので、来年にはバイロイトのブリュンヒルデになる可能性が強い。アニヤ・カムペも役デビューするというが、この人の方が伸び代があるだろう。
あまり他人の悪口は得意ではないが、最初から演出はどうしようもなかった。ハムぺという演出家は嘗てカラヤンの頃に活躍していたようだが、今は誰も相手にしない演出家だとは知っていた。なるほど酷い。要するにト書きからそれを再創造するという事のようだが、美術の処理の問題もあってか何一つ語る者は無かった。空虚である。再創造以上に最初から虚無だ。そしてそれが日本では受けるのだ。なるほどドイツでも同じようなことを言う人はいる。しかし、この演出と舞台で手を叩く人は皆無である。あまりにも空虚なので皆が揃ってブーイングするだろう。対抗意見が存在しようないからだ。
そこで思い出したのが浅利啓太演出のザルツブルクでの「エレクトラ」初日である。ギリシャ悲劇を扱うということで背景には青い海があってと、まるで歌舞伎の割のようなものを作っていた。個人的には乾いたようなそれがマゼール指揮の演奏ともあっていたので悪くはないと思ったがブーが圧倒した。そして当時からすると音楽劇場を経験した今、そのことを思い出した。
少なくとも舞台上の芝居が練られていて、そこにドラマが発生していたならば大枠はどうでもよくなるのだが、ライン側かどこの急流下りか分からないようなべたな平面的な美術には恐れ入った。よくもこうしたプロダクションをDVDにしようとするなと思う。しかし全く演技指導もしておらず、学芸会になっていた。正直日本には新国立劇場というものが出来て、制作者は文化庁から本場に派遣されて皆学んできている筈なのだが、また観衆も嘗てのオペラ劇場の無かった日本人とは違うと思うのだが、未だにこうした上演がなされているのは驚愕でしかない。
こうしてようやく私の長年の謎が解けた。
「どうして指輪が日本であそこまで愛されているか?」
つまり、その回答はこの虚無のような演出と音楽による公演に見付かった。京響に関しては大昔の印象しかなかったが、これも大フィルやN響の半世紀前と殆ど変わらない。確かに関西で一番良い楽団なのかもしれないが、明らかに交響楽団であって東フィルのような劇場感覚が全くない。ヴェリサーメストの言うところの息も吸わぬ間に音が出る英米の交響楽団と変わらないが、更に指揮者が現在リューベックの監督らしいが息が取れない。これならあの大植と変わらない。すると言葉のニュアンスから創作されている音楽が鳴らない。その結果、上の演出と相まって創作の肝心なところがそぎ落とされてサクサクとMIDIの様に進むのである。そしてそうした音楽需要が日本では一般化していることを知るのである。
森から帰る車中のラディオは日本の教育についての日本で取材した教職者の為の番組が流れていた。つまり日本政府はある時から頭脳よりも身体を鍛えさせる教育に変えたというのだ。案の定、日本人の知性は低下している。それは底辺だけでなくてエリートと言われるような頂点にまで及んでいることは明らかなのである。そして音楽愛好家も他の分野に於けるのと同じように最早習うことは無いと盲目になっているようだ。それは島国であるからこそ通じる所謂ガラパゴス症候なのだが、こうした感性やその芸術文化と言われるところまではが腑抜けの抜け殻になっていても誰も気が付かないようになってしまっている。
「ニーベルンゲンの指輪」がまさしく「娘道成寺」のようなものならば、こんな面倒な音楽などやらずにグリム童話でも読んで置けばよいだろう。要するに舞台芸術など必要が無い。やはり日本にはオペラ劇場など不要な長物でしかないということだ。
参照:
ペトレンコのマーキング法 2018-07-17 | 音
ペトレンコの「フクシマ禍」 2015-12-21 | 音
先ず序幕からブリュンヒルデの声は突出していて、途中は森の中を走っていて観ていなかったが、戻って来てその死のフィナーレでも疲れなく歌っていた。スイス出身のステファニー・ミュッターというメゾソプラノから2016年になってソプラノに転向した若い歌手である。その為かなんといってもこれほどドラマティックなブリュンヒルデを聴いたことが無い。そのような背景もあって、それどころかエアフルトで恋人と寝ていて火災に遭って怪我をしたようだ。まるで大指揮者クレムペラーのような歌手である。
なるほど経歴からすれば共演のクリスティアン・フランツ程度で所謂ローカルな歌手なのだが、エアフルトでは前任のマルヴィッツ指揮で歌っていた。そしてブリュンヒルデを歌うようになって、これはこれで間違いなく需要がある。同様のキャリアではバイロイトでペトレンコ指揮で歌ったキャスリーン・フォスターよりは大分上である。少なくともだら下がりではない。そして調べると今年ヴァルトラウテでデビューするようだ。今年はテオリンが下りた歌手の代わりに入るが、この人ならブリュンヒルデを通して歌えるので、来年にはバイロイトのブリュンヒルデになる可能性が強い。アニヤ・カムペも役デビューするというが、この人の方が伸び代があるだろう。
あまり他人の悪口は得意ではないが、最初から演出はどうしようもなかった。ハムぺという演出家は嘗てカラヤンの頃に活躍していたようだが、今は誰も相手にしない演出家だとは知っていた。なるほど酷い。要するにト書きからそれを再創造するという事のようだが、美術の処理の問題もあってか何一つ語る者は無かった。空虚である。再創造以上に最初から虚無だ。そしてそれが日本では受けるのだ。なるほどドイツでも同じようなことを言う人はいる。しかし、この演出と舞台で手を叩く人は皆無である。あまりにも空虚なので皆が揃ってブーイングするだろう。対抗意見が存在しようないからだ。
そこで思い出したのが浅利啓太演出のザルツブルクでの「エレクトラ」初日である。ギリシャ悲劇を扱うということで背景には青い海があってと、まるで歌舞伎の割のようなものを作っていた。個人的には乾いたようなそれがマゼール指揮の演奏ともあっていたので悪くはないと思ったがブーが圧倒した。そして当時からすると音楽劇場を経験した今、そのことを思い出した。
少なくとも舞台上の芝居が練られていて、そこにドラマが発生していたならば大枠はどうでもよくなるのだが、ライン側かどこの急流下りか分からないようなべたな平面的な美術には恐れ入った。よくもこうしたプロダクションをDVDにしようとするなと思う。しかし全く演技指導もしておらず、学芸会になっていた。正直日本には新国立劇場というものが出来て、制作者は文化庁から本場に派遣されて皆学んできている筈なのだが、また観衆も嘗てのオペラ劇場の無かった日本人とは違うと思うのだが、未だにこうした上演がなされているのは驚愕でしかない。
こうしてようやく私の長年の謎が解けた。
「どうして指輪が日本であそこまで愛されているか?」
つまり、その回答はこの虚無のような演出と音楽による公演に見付かった。京響に関しては大昔の印象しかなかったが、これも大フィルやN響の半世紀前と殆ど変わらない。確かに関西で一番良い楽団なのかもしれないが、明らかに交響楽団であって東フィルのような劇場感覚が全くない。ヴェリサーメストの言うところの息も吸わぬ間に音が出る英米の交響楽団と変わらないが、更に指揮者が現在リューベックの監督らしいが息が取れない。これならあの大植と変わらない。すると言葉のニュアンスから創作されている音楽が鳴らない。その結果、上の演出と相まって創作の肝心なところがそぎ落とされてサクサクとMIDIの様に進むのである。そしてそうした音楽需要が日本では一般化していることを知るのである。
森から帰る車中のラディオは日本の教育についての日本で取材した教職者の為の番組が流れていた。つまり日本政府はある時から頭脳よりも身体を鍛えさせる教育に変えたというのだ。案の定、日本人の知性は低下している。それは底辺だけでなくてエリートと言われるような頂点にまで及んでいることは明らかなのである。そして音楽愛好家も他の分野に於けるのと同じように最早習うことは無いと盲目になっているようだ。それは島国であるからこそ通じる所謂ガラパゴス症候なのだが、こうした感性やその芸術文化と言われるところまではが腑抜けの抜け殻になっていても誰も気が付かないようになってしまっている。
「ニーベルンゲンの指輪」がまさしく「娘道成寺」のようなものならば、こんな面倒な音楽などやらずにグリム童話でも読んで置けばよいだろう。要するに舞台芸術など必要が無い。やはり日本にはオペラ劇場など不要な長物でしかないということだ。
参照:
ペトレンコのマーキング法 2018-07-17 | 音
ペトレンコの「フクシマ禍」 2015-12-21 | 音