Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

とてもいい演奏会とは

2023-02-04 | 
とてもいい演奏会だった。よく考えれば大管弦楽演奏会はそんなに出かけない。以前はバロックや室内楽が中心だったが、最近はオペラも増えている。最後の演奏会は11月のベルリナーフィルハーモニカーの壮行演奏会だった、その前は9月のルツェルン、その前はバーデンバーデンである。要するに選りすぐりの催し物しか出かけない。下手な管弦楽団で有名曲等は一切聴かない様に心掛けている。最低歴史的な名盤の録音に匹敵するものでなければ意味がない。

今回は、新シーズンからバーゼルの世界最大の現代音楽管弦楽団のシェフになるティテュス・エンゲル指揮であり、既に後任人事が決まっている同地シュトッツガルトの放送交響楽団の演奏で世界初演の三曲が演奏されるので出かけた。

初演の演奏会や作曲家が臨席する演奏会は数多く出かけているのだが、そのなかでも大管弦楽演奏会はそれ程数多くない。更に三曲とも初演となると有名なドナウエッシンゲンの音楽祭ぐらいでしか機会はなく、その場合も今回のように三曲揃えて大管弦楽を使い切るというのは珍しい。

なるほど今回も初演された三曲のその音のパレットの使い方は異なり、その出来も一様ではなかった。しかし、一晩のプログラムとして90分ほどの内容が、実験的なものを越えて演奏会として成立する例はそれ程多くはない。曲の出来によって限られた練習時間をどのように区割りしてとかの都合をつけるのは指揮者の仕事でもあろう。

そのようなわけで、一曲目のトルコ人女性ゲディヂズィルオグルの作品「ラウフ」は保守的な意味での演奏し甲斐がないもので、その分即興などの要素または不安定な音程を求められていた。内なる響きというか独自の世界観の曲であって中々掴みどころがなく、月並みなモダーンに依る所もあったのだが、なによりも曲全体を通しての曲想が上手に劇場空間のように描かれていて、流石に音楽劇場の第一人者の指揮だと思った。

エンゲル指揮で所謂現代の音楽会を生で聴くのは二十年ぶりぐらいになるのだが — 昨春はハースのオペラ「血の家」を観た ―、そしてその当時は大管弦楽団はまだ振っていなかった、しかしその時の「面影」を感じるとともに、当時感じていた「片鱗」と共にそこを聴きとった。

ある意味、指揮甲斐もあまりない曲だと感じたが、何とか音化して適当に纏めて出す以上の勘が働いていたのを感じた。当時からあった歌に合わせる歌謡性の一つの才能でもあり、空気感の出し方が上手い。それがその後の音楽劇場での経験を通して助長されているのだろう。音の向こうで何かが起こっている表現としての雰囲気の表出が巧い。

兎に角、あまり経験した事の無いようなバスクラリネットからアルトフルートなど、そして八艇のコントラバス。これだけの楽器編成を鳴らし切る為に使っていないというとても贅沢であり、若しくは浪費している創作なのだが、そうした非経済性や効果の為の効果を感じさせない演奏としたのは演奏力であり、その指揮の腕の確かさである。(続く



参照:
支援者としての心付け 2023-01-06 | 文化一般
とても保守的な仕事着 2023-02-02 | ワイン
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする