いいヴァレンタインデイを過ごせた。何もプレゼントしたりでも何でもないのだが、一般的な祝福を交わすだけでもとても意味がある。そうした愛情表現は苦手なのである。文学や舞台や、オペラなどでも劇進行が止まるのでかったるくなるというのはよくあることだと思う。その背景にある心理や感覚的なものの表現が中心主題であり乍ら意外にとても難しいのと同じことであろう。
情を交わすとか様々な表現があるのだが、当日のバイエルン放送協会では様々なオペラの場面を挙げていた。「ラボエーム」や「カルメン」、「アラベラ」など様々をである。要するにそれがキッチィクになるかどうかという場面である。
やはり忘れてはいけないのは「コシファンテュッテ」であり、音楽ゆえの芝居ゆえの最高に洗練された表現がそこあるだろう。荒唐無稽な舞台設定にコケットでとてもエロティックな音楽がそこにある。流石に音楽劇場の最上質の表現を様々に体験してくると、その洗練がよく分かるようになる。伊達にお月謝を払っていないのである。
再演「ジュディッタ」の劇場の呟きに、「この制作は国立劇場向きではなく、絶対ガルテナープラッツ劇場向きではない。趣味が悪い。」と書き込んでいるおばさんがいた。実際に観たのかと問われて、初日は全部通っていると書いている。要するに常連さんなのだが、マルターラー演出には全く不理解のようで面白くなかったのだろう。やはりレハールのオペレッタに期待するところが違っていたに違いない。今回改めて新聞評などが出ると嬉しい。68年世代のマルタ―ラーファンも少なくないだけでなく、反戦テーマの明確化は決して現在場違いな感じがしない筈だからで、そして様々に挿入された音楽も効果満点な筈なのだが。
車中でドイツの管弦楽団の中でコロナ期間を越えて最大の成功をした楽団の話しがなされた。それ以前から二割も定期会員が増えたという異例の楽団である。ラインラントプファルツの州立管弦楽団である。原因は幾つもあるようだが、支配人はコロナ期間にご挨拶を送った。そこには地面に差し込めば芽が出るという棒が入っていて、その都度が皆が繋がりを思い出すという。その他幾つもの工夫が実ったらしい。キーワードは繋がりらしい。プログラムにおいてもなにも解説などで説明し過ぎるというよりも、その繋がりを大切にして、人の繋がりへとなるようだ。
ある一連の事に対して人によってその見える繋がりも変わるであろう。例えば上のマルタ―ラー制作「ジュディッタ」においては、作曲家のその社会的な視線から反戦の文学を繋げて、更にその当時の音楽へとレハールのオペッレッタの位置づけを見せた。しかし人によってはそのオペレッタはそれでしかない人もいるであろう。エンターティメントを享受する人もコロナ期間に引いた大きな客層である。しかしそれが大劇場で催される謂れはないのである。そもそもそれは30年代のヴィーンの国立劇場で初演された謂れでもあった。
恐らくこれらをして上の趣味が悪いと感じた女性は、「ボエーム」のミミが鍵を開ける時に突然蝋燭が吹き消されてしまうところはキッチュとは感じないのであろう。そういう趣味の相違というのは必ずある。そいうところを面白いと思うかどうかであって、多かれ少なかれ音楽劇場作品の創作や制作というのはそうした視線がないと成立しない。
参照:
賞味期限を早める試み 2022-11-03 | 文化一般
音楽劇場を担う幸福の手 2023-01-12 | 音
情を交わすとか様々な表現があるのだが、当日のバイエルン放送協会では様々なオペラの場面を挙げていた。「ラボエーム」や「カルメン」、「アラベラ」など様々をである。要するにそれがキッチィクになるかどうかという場面である。
やはり忘れてはいけないのは「コシファンテュッテ」であり、音楽ゆえの芝居ゆえの最高に洗練された表現がそこあるだろう。荒唐無稽な舞台設定にコケットでとてもエロティックな音楽がそこにある。流石に音楽劇場の最上質の表現を様々に体験してくると、その洗練がよく分かるようになる。伊達にお月謝を払っていないのである。
再演「ジュディッタ」の劇場の呟きに、「この制作は国立劇場向きではなく、絶対ガルテナープラッツ劇場向きではない。趣味が悪い。」と書き込んでいるおばさんがいた。実際に観たのかと問われて、初日は全部通っていると書いている。要するに常連さんなのだが、マルターラー演出には全く不理解のようで面白くなかったのだろう。やはりレハールのオペレッタに期待するところが違っていたに違いない。今回改めて新聞評などが出ると嬉しい。68年世代のマルタ―ラーファンも少なくないだけでなく、反戦テーマの明確化は決して現在場違いな感じがしない筈だからで、そして様々に挿入された音楽も効果満点な筈なのだが。
車中でドイツの管弦楽団の中でコロナ期間を越えて最大の成功をした楽団の話しがなされた。それ以前から二割も定期会員が増えたという異例の楽団である。ラインラントプファルツの州立管弦楽団である。原因は幾つもあるようだが、支配人はコロナ期間にご挨拶を送った。そこには地面に差し込めば芽が出るという棒が入っていて、その都度が皆が繋がりを思い出すという。その他幾つもの工夫が実ったらしい。キーワードは繋がりらしい。プログラムにおいてもなにも解説などで説明し過ぎるというよりも、その繋がりを大切にして、人の繋がりへとなるようだ。
ある一連の事に対して人によってその見える繋がりも変わるであろう。例えば上のマルタ―ラー制作「ジュディッタ」においては、作曲家のその社会的な視線から反戦の文学を繋げて、更にその当時の音楽へとレハールのオペッレッタの位置づけを見せた。しかし人によってはそのオペレッタはそれでしかない人もいるであろう。エンターティメントを享受する人もコロナ期間に引いた大きな客層である。しかしそれが大劇場で催される謂れはないのである。そもそもそれは30年代のヴィーンの国立劇場で初演された謂れでもあった。
恐らくこれらをして上の趣味が悪いと感じた女性は、「ボエーム」のミミが鍵を開ける時に突然蝋燭が吹き消されてしまうところはキッチュとは感じないのであろう。そういう趣味の相違というのは必ずある。そいうところを面白いと思うかどうかであって、多かれ少なかれ音楽劇場作品の創作や制作というのはそうした視線がないと成立しない。
参照:
賞味期限を早める試み 2022-11-03 | 文化一般
音楽劇場を担う幸福の手 2023-01-12 | 音