週明け早々要らぬ仕事に追われた。それでも一先ず終えて、不利にはならない筈だ。そして夕方のネット記事に目を通す。水曜日の午前中に記者会見のあるミュンヘンのフィルハーモニカーの後任人事発表だ。
既に日本でもオランダのニュースからイスラエルのシャニが後任と知られている。先週からミュンヘンの情報としていて出ていた。だからそのように予定されていた。しかしなぜ海外にも知られることになったか、その裏事情がそれを伝えたジャーナリストによって書かれている。
その指揮者本人が週末に、現在任にあるロッテルダムの楽団とイスラエルの楽団双方に、ビックリの情報が出るけど心配しないように、先にお知らせしますと書いたらしいのだ。要するに漏洩もとは本人であった。
ミュンヘンの楽団は市の決済で運営されていて、ベルリンのそれと南北ドイツを代表する十年程遅れて発足した欧州でも伝統ある近代的交響楽団の一つである。そして今回私がナガノ案で提案していたように二人のシェフ案も出ていたらしいのだが、最終的にひっこめられたという。如何に一人前の後継者がいないかを知らしめる裏話であろう。
今回のシャニの人選は悪くはないと思ったのだが、その人格がこうして露わにされると、名門を率いるだけの頭脳に欠けるのではないかと不安になる。その様な軽い人間には務まらない。
一仕事終えて古新聞を整理した。昨年分が溜まっている。保存するものを別けて、必要な記事に目を通して処分する。見出しを見て時間がないので中身は読まずに除けておいたものだ。どうしても溜まる。例えばそこには昨年のベルリンでの音楽祭で初指揮を披露したコンセルトヘボーの次期指揮者の姿が写っている写真が載っている。読む気もしなかったが、時間もなかった、それでも判断だけは知っておきたい。そういう記事である。
見出しを改めて見ると、「新シェフが求められる」となっている。話題のフィンランドの指揮者はその任に就くのは2027年からで未だ先である。しかし既にその後任が求められると書いている。その心は?
ザールヤホとマーラー六番の2曲で、なによりも近代性と音響と情感を主観的に出すことが目されて、珍しい楽器群やソロが強調される。植物繊維ばかり処理させられる楽師さんにも聴衆にも胃もたれしないという事はない。熱血とクールな頭脳が要されるところで、多くの指揮者がやる様に煽ることで、楽譜を知らぬかのようにアクセントを失い、為さないクレッションドを引き出す。見事だ。そこには音楽的に何もない。フィナーレも制御なく、怒りしかなく、楽団のマーラー伝統はカタストロフとなり、あってはならないことだと書く。
そして同じ年頃のペトレンコやカラヤンのそれを比較して、クラシック業界が今どうしようもないことを知るとしている。楽団の経営事情から、適当に仕事が出来て客が入れば、それだけでいいのが楽団側の裏事情である。した積み無しに売れている人で二十年先に活躍している人は殆どいないと思われる。
参照:
図書館付随会場の音響 2022-12-19 | 音
待て、勝負ありの感 2021-02-17 | 音
既に日本でもオランダのニュースからイスラエルのシャニが後任と知られている。先週からミュンヘンの情報としていて出ていた。だからそのように予定されていた。しかしなぜ海外にも知られることになったか、その裏事情がそれを伝えたジャーナリストによって書かれている。
その指揮者本人が週末に、現在任にあるロッテルダムの楽団とイスラエルの楽団双方に、ビックリの情報が出るけど心配しないように、先にお知らせしますと書いたらしいのだ。要するに漏洩もとは本人であった。
ミュンヘンの楽団は市の決済で運営されていて、ベルリンのそれと南北ドイツを代表する十年程遅れて発足した欧州でも伝統ある近代的交響楽団の一つである。そして今回私がナガノ案で提案していたように二人のシェフ案も出ていたらしいのだが、最終的にひっこめられたという。如何に一人前の後継者がいないかを知らしめる裏話であろう。
今回のシャニの人選は悪くはないと思ったのだが、その人格がこうして露わにされると、名門を率いるだけの頭脳に欠けるのではないかと不安になる。その様な軽い人間には務まらない。
一仕事終えて古新聞を整理した。昨年分が溜まっている。保存するものを別けて、必要な記事に目を通して処分する。見出しを見て時間がないので中身は読まずに除けておいたものだ。どうしても溜まる。例えばそこには昨年のベルリンでの音楽祭で初指揮を披露したコンセルトヘボーの次期指揮者の姿が写っている写真が載っている。読む気もしなかったが、時間もなかった、それでも判断だけは知っておきたい。そういう記事である。
見出しを改めて見ると、「新シェフが求められる」となっている。話題のフィンランドの指揮者はその任に就くのは2027年からで未だ先である。しかし既にその後任が求められると書いている。その心は?
ザールヤホとマーラー六番の2曲で、なによりも近代性と音響と情感を主観的に出すことが目されて、珍しい楽器群やソロが強調される。植物繊維ばかり処理させられる楽師さんにも聴衆にも胃もたれしないという事はない。熱血とクールな頭脳が要されるところで、多くの指揮者がやる様に煽ることで、楽譜を知らぬかのようにアクセントを失い、為さないクレッションドを引き出す。見事だ。そこには音楽的に何もない。フィナーレも制御なく、怒りしかなく、楽団のマーラー伝統はカタストロフとなり、あってはならないことだと書く。
そして同じ年頃のペトレンコやカラヤンのそれを比較して、クラシック業界が今どうしようもないことを知るとしている。楽団の経営事情から、適当に仕事が出来て客が入れば、それだけでいいのが楽団側の裏事情である。した積み無しに売れている人で二十年先に活躍している人は殆どいないと思われる。
参照:
図書館付随会場の音響 2022-12-19 | 音
待て、勝負ありの感 2021-02-17 | 音