ペトレンコの指揮は変わった。スカラ座以降は少なくとも変わった。11月12日のフランクフルトでの合衆国ツアー壮行演奏前には前の週の定期演奏会最終日でのもう一つのツアープログラムのラディオ中継しか聴いていない。然しそこに共通したものはあったかもしれない。最も変わったのは拍の刻みのゆったり感で、そこで楽団のアンサムブルの自発性が引き出されているようだ。的確さはあってもやはり呼吸感がより演奏者のものになってきている。
車を当夜のアルテオパーの地下駐車場に入れて、片付けものをしてから、二楽章の楽譜をもう一度確認した。往路では一楽章からの二楽章迄を何回か繰り返していた。渋滞などもあってあまり集中できなかったので二楽章を繰り返した。四楽章での動機の扱い方で不明確なことがあったからだ。そして座席に着く前に初めてプログラムを2,50ユーロで購入して捲ってみた。そこで初めて知った、二楽章が最初に書かれていたことを。
この交響曲の難しさはそこにあって、各楽章間の連関がそれほど単純ではなくて、その意味合いが捉えられなくて、一貫した印象を持ちえなくしている。それもこの二楽章の内容自体がファンタジーに飛んだものであるという指摘は正しい。
プログラムには「トリスタンとイゾルテ」の三幕との関連にも振れてあるのだが、やはり最初の始まりのニ短調こそは今回の公演での迫真に迫る表現あった ― 危ぶまれた一楽章終了時に静まり返っていたのだが、二楽章終了時に少しだけ拍手が始まりかけた所以である。モーツァルトのレクイエムのそのものの響きである。それはそのアンサムブルの慣れと試行錯誤によって為されたものであると同時に指揮者の指導の下で掴んだ核心でもあった。それは「嘆きの調べ」である。
そしてそれが第二主題の慰めによって解消される。そうした構造でしかないのだが、それが浪漫派の真骨頂であるとともに、則ち新ドイツ派とされるヴァ―クナーやリストの純音楽から離れたその流派に対して、後期浪漫派への重要な転機にもなっている交響曲ではないかという仮説が生ずる。
同時にこうした作曲家の心像風景こそは、クラシックオタクの元祖宇野功芳が開拓したブルックナー人気の核にあったものだ。そしてそこでのハンス・クナッパーツブッシュ指揮による交響曲八番を評した「真実の詠嘆と自然の寂しさ」、「本当の寂寥」などそこでの記述がここで全てがこのペトレンコ指揮ベルリナーフィルハーモニカーの壮行演奏会で表現されていた。
そうした受け留められ方は決して日本での心情だけではないということは、既に先月のリヒャルト・シュトラウスの「ばらの騎士」のヨーデルの使い方などでも紹介した通りである。それが慰めによってエクスタシーへと高まるとすれば孤高の男寡たちにウケること間違いなしである。そしてその高揚感こそがカトリック信仰でもある。
この二楽章を書き上げた時には既に終楽章と一楽章の構想は決まっていたというのが、論文などを見るとあるのだが、この二楽章と一楽章の導入部との繋がりにおいて作曲の過程を知ると合点がいく。つまりなぜ唯一無二の中世的な風情の序奏が付けられているのかが、そこから導き出されていて、恐らく終楽章での構成に沿って完成されたものだろうという予想がつく。(続く)
参照:
大らかに響き亘る伽藍 2024-09-03 | 音
アウトバーン走り絞め 2024-11-13 | 雑感
車を当夜のアルテオパーの地下駐車場に入れて、片付けものをしてから、二楽章の楽譜をもう一度確認した。往路では一楽章からの二楽章迄を何回か繰り返していた。渋滞などもあってあまり集中できなかったので二楽章を繰り返した。四楽章での動機の扱い方で不明確なことがあったからだ。そして座席に着く前に初めてプログラムを2,50ユーロで購入して捲ってみた。そこで初めて知った、二楽章が最初に書かれていたことを。
この交響曲の難しさはそこにあって、各楽章間の連関がそれほど単純ではなくて、その意味合いが捉えられなくて、一貫した印象を持ちえなくしている。それもこの二楽章の内容自体がファンタジーに飛んだものであるという指摘は正しい。
プログラムには「トリスタンとイゾルテ」の三幕との関連にも振れてあるのだが、やはり最初の始まりのニ短調こそは今回の公演での迫真に迫る表現あった ― 危ぶまれた一楽章終了時に静まり返っていたのだが、二楽章終了時に少しだけ拍手が始まりかけた所以である。モーツァルトのレクイエムのそのものの響きである。それはそのアンサムブルの慣れと試行錯誤によって為されたものであると同時に指揮者の指導の下で掴んだ核心でもあった。それは「嘆きの調べ」である。
そしてそれが第二主題の慰めによって解消される。そうした構造でしかないのだが、それが浪漫派の真骨頂であるとともに、則ち新ドイツ派とされるヴァ―クナーやリストの純音楽から離れたその流派に対して、後期浪漫派への重要な転機にもなっている交響曲ではないかという仮説が生ずる。
同時にこうした作曲家の心像風景こそは、クラシックオタクの元祖宇野功芳が開拓したブルックナー人気の核にあったものだ。そしてそこでのハンス・クナッパーツブッシュ指揮による交響曲八番を評した「真実の詠嘆と自然の寂しさ」、「本当の寂寥」などそこでの記述がここで全てがこのペトレンコ指揮ベルリナーフィルハーモニカーの壮行演奏会で表現されていた。
そうした受け留められ方は決して日本での心情だけではないということは、既に先月のリヒャルト・シュトラウスの「ばらの騎士」のヨーデルの使い方などでも紹介した通りである。それが慰めによってエクスタシーへと高まるとすれば孤高の男寡たちにウケること間違いなしである。そしてその高揚感こそがカトリック信仰でもある。
この二楽章を書き上げた時には既に終楽章と一楽章の構想は決まっていたというのが、論文などを見るとあるのだが、この二楽章と一楽章の導入部との繋がりにおいて作曲の過程を知ると合点がいく。つまりなぜ唯一無二の中世的な風情の序奏が付けられているのかが、そこから導き出されていて、恐らく終楽章での構成に沿って完成されたものだろうという予想がつく。(続く)
参照:
大らかに響き亘る伽藍 2024-09-03 | 音
アウトバーン走り絞め 2024-11-13 | 雑感