Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

音楽の為のコメディー

2024-11-01 | 
承前)イタリアの批評でも取り上げられていたシュテファン・ツヴァイク「昨日の欧州」を摘まみ読みした。演出に関わる件よりもホフマンスタールとの仕事そしてザルツブルクでの「エジプトのヘレナ」の稽古、そして何よりも「無口な女」での仕事の進め方にが詳しい。然しなによりも「ばらの騎士」に関わるのは、シュトラウスが語るヴァ―クナーの楽劇について語り、モーツァルトの音楽作りへの示唆、そしてこの楽劇の位置づけを本人が語る引用である。

彼はよく分かっていて、芸術的形式としてのオペラは既に終っていて、それは誰も超えることの叶わないヴァ―クナーが頂点だったようで、「しかし」と口を挟んでバイエルン風に大笑いしてから「その彼を回り込むことで助かったんだよね。」語った。

正しく、これは既に言及した「ばらの騎士」の構想そのものであった。如何にヴァ―クナーの楽劇を乗り越えるかは「サロメ」と「エレクトラ」で踏襲して、そして迂回するとなる。

この「音楽の為のコメディー」の真意は明らかだったにも拘わらずどうして100年間真面に上演されることがなかったかとなる。初演後半世紀ほどしてカルロス・クライバー指揮にてオペレッタ風に上演されたのもそうした上演史の一コマであったことがまたこうして明らかになった。

そして、クライバー指揮が今回のペトレンコ指揮の大成功を評価する場合に最も反面教師としてその音源が参考になった。ペトレンコ指揮は落ち着いた深い拍を取っていて、ひたひたとその移り変わりが感じられる音楽になっていた。

そのクライバーが同じように1976年4月にミュンヘンと同じ演出でエヴリン・リアーとハンス・ゾーティンの出演のキャストで公演されたが、最後には大分空席が出来ていた様に全く成功していなかったようである。1961年のベーム指揮に続く公演なので比較的なじみの演目である筈だが、そうした無理解は今回の公演でも変わらなかったというのは共通した感想のようである。やはりテムポ設定や演奏に合わした指揮が上手に出来ていない。

スカラ座の日本初引っ越し公演でのその指揮からすれば決してスカラ座で成功していなかったわけではなかったのだが、やはりミュンヘンでの指揮のようには上手く行かなかったのに違いない。
Evelyn Lear; B. Fassbaender; L.Popp; K. Ridderbusch; "DER ROSENKAVALIER"; (C Kleiber '76); R Strauss


二幕のヴァルツァーにおいてそのアウフタクトの取り方の特徴に気が付いて、それをしてパロディーとしてのヴァルツァーと認識をさせ、同時にそのアンサムブルへの息を整えていた。独墺系の指揮者では取り分け目立つ場合もあるのだが、指揮者エンゲルが語った指揮の先生イムジンの上への振りで柔らかい音を作り、そしてコリン・デーヴィスの奏者に合わさせる呼吸の指揮を魅せた。それがあの羽毛のような響きとそして何よりもフィナーレでの天下一品の演奏となったのである。それでもあの呼吸感とかの決まり方はルツェルンでのアバド指揮しか思い浮かばない。

その背後にあったシュトラウスのドラマテュルギーの作風が、ここではその時制の認識としての音楽を醸し出したのであった。(続く



参照:
独語圏からの物見雄山 2024-10-30 | SNS・BLOG研究
退屈だった古典曲カセット 2024-04-17 | 音
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